暗いことを忘れるな

映画「オクラホマ!(原題:Oklahoma!)」を観た。

この映画は1955年のアメリカ映画で、映画のジャンルはミュージカルだ。

この映画の中心となるのは、ローリーという農家の女性と、カーリーという牧童つまりカウボーイ、そしてローリーの家に住み込みで働いているジャッド・フライという男だ。

この映画は恋愛結婚を描いた映画だ。この映画の舞台はオクラホマ州のクレアモアという街の周辺だ。その街で繰り広げられる、男たちと女たちの結婚までの道程を描いたのがこの映画だということもできる。

この映画には恋愛結婚の例として、ローリーとカーリーという2人の恋愛が描かれる。映画で描かれる期間は、祭りの行われる期間だ。農家と牧童(カウボーイ)たちが一緒になって祭りを行う。祭りで行われるのは求愛活動だ。

祭りでは競りが行われる。女性が作ったお弁当を男性が競り落とす。競りのお金は街の学校の増築費に充てられる。つまり、競りをしている男女の子供が将来入ることになるだろう学校の増築のお金に、競りのお金は充てられる。目的が明確で、合理的に思われる競りだ。

だいたいの男女は、この競りのような行事に浮かれる。競りで自分の弁当を高く買った人が、自分を好きな人だからだ。お金をよく払ってくれる人が、自分を好きな人? なんだか違う感じもするが、お金がなくても好きな女性の弁当を大金はたいて競り落とそうとする男の姿は、なんだか情けなくて同情してしまう。

しかし、この恋愛の舞台から零れ落ちてしまう人間もいる。そして、その人間がこの映画に登場することで、この映画はより輝きを放つ。なぜなら暗い部分が暗ければ暗いほど、そのコントラストとして、明るさは際立つからだ。

この映画の暗い部分の象徴がジャック・フライという人物だ。ジャックはいつも笑わず、人付き合いが苦手で、友達もいなくて、昼間から暗い部屋に閉じこもっている人間だ。社交の方法を習得しておらず、ジャックは思いを寄せているローリーをうまくデートに誘うこともできない。

しまいには、ジャックはローリーに、カーリーとの間を取り持つための嫉妬のだしにされてしまう。そんな、残酷な目に合うのがジャックという人間だ。社交のできない人間で、農家に住み込みで働く人ジャック。きっとジャックは年期奉公人なのだろう。これは推測でしかないが、ジャックはアイリッシュスコティッシュなのかもしれない。

ジャックは、社会からつまはじきものにされている者の象徴だ。彼は抑圧されて、暴力性をコントロールするすべを知らず、ローリーの家で住み込みで働く以前にも、どうやら住み込みで働いていて、その一家を恋愛のもつれから焼き殺しているようだ。

そしてそれが、この映画のラストの辺りで明らかになる。ジャックは、友達もおらず、恋人もいなくてひとりぼっちの、寂しい青年だ。そしてジャックの人生が暗ければ暗いほどこの映画は輝く。

この映画のラストは、暗い出来事がなかったように終わる。歌の歌詞も「何かいいことが始まる気がする」というような歌詞だ。暗いことは忘れて次に進みましょう的な。しかし、ジャックのことをひと時の出来事として葬ってしまっていいのか? ジャックは、この映画で救われるべきではなかったか? ジャックのような人物が救われる映画。そんな映画があってもいいのではないか?

銃社会アメリカ

映画「愛してるって言っておくね(原題:If Anything Happens I Love You)」を観た。

この映画は2020年のアメリカ映画で、映画のジャンルはアニメーションだ。

この映画の中心となるは、一つの家族だ。核家族と言うと、わかりやすい人もいるかもしれない。つまり、父、母、子からなる一つの家族の物語が、この映画では描かれる。この映画は、いかにして悲劇を乗り越えるか?というものになっていると同時に、いかに悲劇をストップさせるか?というものでもある。

この映画の家族の子は、すでに失われている。つまり、この家族の子供は死んでいる。この家族の子供は10歳の女の子だ。この女の子はサッカーが好きで、ボーイフレンドもいて、音楽も好きな女の子だ。

この女の子が死んだ理由は、映画の最後に明らかになるが、学校での銃撃による死亡だ。この女の子は学校で殺された。

学校での銃撃で、生徒が生徒を殺した事件を取り上げたドキュメンタリーとして有名なのが、マイケル・ムーア監督による映画「ボーリング・フォー・コロンバイン(原題:Bowling for Columbine)」(2002年) だ。マイケル・ムーアが、アメリカが銃社会である現実を描き出していく映画だ。

生徒による生徒の銃撃といってもう一つ思い出す映画は、ガス・ヴァン・サンド監督の「エレファント(原題:Elephant)」(2003年)だ。静寂の中で映画が進行していき、銃撃の悲劇を映画は描き出す。

生徒による生徒の殺人に、銃器が使われる。生徒が生徒を殺すことが、いともたやすい状況がアメリカにはある。それは、銃が簡単に手に入る社会だということだ。アメリカ人であれば、誰でも銃を買えるのがアメリカの社会だ。

生徒による生徒の殺人に絞って考えてきたが、この範囲をアメリカ国民による、アメリカ国民の殺人に広げる。するとアメリカでは、今現在でも毎月必ず銃による殺人が起こっているのがわかる。これはインターネットで、例えば「Mass Shooting in 2021 in America」と検索してみればすぐにわかる状況だ。

アメリカ国民による、アメリカ国民の殺害。それは、警官による一般市民の殺人も、連想することができる。この状況をわかりやすく示しているのが、ワシントン・ポストだ。ワシントン・ポスト紙による、985 people have been shot and killed by police in the past yearという記事を読んでみると、アメリカの警察と銃殺の関係がわかりやすくわかる。

2015年から現在までの、警察によるアメリカ国民の致死的な銃撃の統計が、この記事には載っている。それによると2015年から5000人以上の人が、警察により致死的な銃撃を受けている。そしてアメリカの人口比を考えて、黒人やヒスパニックの人たちが、銃撃を受ける割合が高いことも示されている。そして20代から40代が、多く警官による銃撃を受けていることがわかる。

この映画の主人公といっていい、10歳の少女は黒髪の少女だ。肌の色は薄い。少女は、アジア系の女の子に見える。もしかしたら、ヒスパニック系かもしれない。少女は、白人の子供ではないのかもしれない。

しかし人種など関係ない。人が殺されるこの現実に目を凝らし、耳を澄ませる必要がある。人が殺されている。黒人だろうと、ヒスパニック系だろうと、白人だろうと、アジア人だろうと、アラブ系だろうと関係ない。人が殺されている。それはそれだけで十分悲劇的なことだ。

戦争は、人殺しが常識とされる異常事態だ。戦争は避けるべきだ。あってはならない。しかし、アメリカは、今非常時ではない。アメリカで戦争は起こっていない。しかし、だ。アメリカには、銃が普及している。それが悲劇の元だ。

アメリカ人は、銃を自由と独立の印だと考えていると読んだことがある。銃があるから、独裁的な政治家による、もしくは独裁的な軍人による統治が、誕生した時も、銃を持って戦うことができることが保証されていると。

しかしだ。平時でも、銃を持った人たちが、人を銃で殺している。黒人の人が殺され、ヒスパニックの人が殺され、白人も殺される。ならば銃は必要ないのではないのか?安易に銃が使えてしまう現状を、変えるためにこの映画はある。

反逆者キリスト

映画「聖衣(原題:The Robe)」を観た。

この映画は1953年のアメリカ映画で、映画のジャンルは歴史映画だ。

この映画のタイトルの聖衣とは、イエス・キリスト磔刑になって十字架にはりつけられている時に身にまとっていた、ローブのことだ。ローブとは衣類の一つで、キリスト教の聖職者が羽織るガウンのこと。ガウンとは洋服の一形式で、膝あるいは床に届くような丈の長い衣のことだ。

このことからわかるように、この映画はキリスト教を題材とした映画だ。この映画の中で、イエス・キリストを、ローマ帝国が捕らえる。ローマ帝国支配下にあるパレスチナエルサレムの地で、ローマ帝国に反逆するような教えを説くイエス・キリストを捕らえて、はりつけの刑にする。

その、はりつけの刑の実際の執行役、つまりキリストを十字架にキリストの手と足に釘を打ってはりつけにするという行為を実際に行ったのが、この映画の主人公のマーセラスという人物だ。

聖書の中の記述には、キリストが磔刑にかけられると、天気が一変して悪くなり、”この人は神の子だった”と百人隊長やその他の人々が思ったとある。百人隊長とはローマ軍の基幹戦闘単位である百人隊(ケントゥリオ)の指揮官のことだ。

その百人隊の指揮官である百人隊長が、このマーセラスという男だ。聖書の中では、マーセラスは、天候の変化でイエスを神の子であると思ったと、一瞬でキリスト教の回教している。しかし、この映画の中ではマーセラスのキリスト教の回教には、しばらく時間がかかる。それが映画の前半部分を構成することになる。

マーセラスはイエスが神の子であると気付いた時には、既にイエスを殺すという罪を犯している。キリストはその時、「このひとは知らないだけです。神よ彼を許せ」という言葉を発していて、マーセラスはこの言葉を聞いている。

しかし、マーセラスは自分のした行為に、殺人という行為に悩むことにとになる。そこで登場するのが、キリストの身につけていた赤いローブだ。マーセラスはローブに触れると罪を意識して、罪から解放される。

これは、マーセラスが、キリスト教の教えを理解したことを視覚的にわかりやすく示したものだ。マーセラスは、キリストの呪われたローブを探せというローマ帝国の命令ために、ローブを探すうちにキリストの教えに感化された。

そのキリストの教えとは、「神を愛せ」「隣人を愛せ」だ。この映画の中では、キリストの起こした奇跡についても語られる。そこで興味深いエピソードがある。それは、キリストの奇跡は、人の心を救うものでもあるということだ。

映画の中に、ミリアムという琴を弾く足の不自由な女性が、登場する。キリストの信者たちはこういう。彼女の足は動かない、しかしキリストの教えで、彼女の中にある、”自分は足の不自由なものだ”という劣等感が消えて、彼女は救われた。これは奇跡だと。

このことにマーセラスは、深い感銘を受けているようだ。これならば罪を犯した自分も、救われるかもしれないと感じだのだろう。なぜならキリストは、人の心の中にある劣等感を取り除いてくれるからだ。

マーセラスの場合の劣等感とは、キリストを殺してしまったという罪悪感が来るものだ。”自分は殺人者である、しかも神の子の”という劣等感から、マーセラスはキリストの教えにより救われる。それは、キリストがマーセラスを、隣人として愛していたから可能になった。

この映画は、ローマ帝国という奴隷売買を公認しているような、快楽主義的な地に生まれて、酒と女を好み、好き勝手に生きていたマーセラスという男が、奴隷や女性や侵略者であるローマ帝国といった存在を見直す、という視座に立つまでが描かれる。

帝国主義で、侵略の限りを尽くしていたローマ帝国の姿は、今の欧米諸国にも当てはまる。しかし皮肉なことに、その欧米はキリスト教の信者の多い場所だ。帝国主義からの脱却。それもキリストの教えには含まれているのではないだろうか?

愛は相手の死すらも所有する

映画「地上最大のショウ(原題:The Greatest Show on Earth)」を観た。

この映画は1952年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマだ。

この映画の主となる登場人物は、サーカスの公演監督であるブラッド、ブラッドの恋人であるサーカスの花形の空中ブランコ・ショウウーマンのホリー、新しくサーカス団に招かれる同じく花形ブランコ・ショウマンのセバスチャン、サーカスの象を使ったショウをするセバスチャンと過去に関係があり今はブラッドのことが好きなエンジェルだ。

既に書いたが、この映画の舞台はサーカスだ。このサーカスは移動式のサーカスで、サーカス団の専用の汽車があって、その汽車を使ってアメリカの全国各地に巡業して回っている。サーカスの売り上げは一日に2万5千ドル、つまり大規模なサーカスだ。

この映画はサーカスの映画なので、この映画の中には、存分にサーカスのショウの見せ場がある。サーカスのショウに来ているお客は、皆子供か、童心に戻った大人だ。よって、サーカスの客は皆子供の客だということもできる。

その子供たちの前でショウをするサーカスの人たちは、サーカスの見世物の登場シーンで、子供たちに手を振りながら、恋愛の話をしている。サーカスの出し物の話をしているシーンはないと言ってもいい。

サーカスの人たちは客に手を振りながら、「お前はあの男が好きなのか。許さないぞ」とか「あなた最近あの人たちの仲はどうなのよ」とかいった恋愛の話をしている。この映画はサーカスを題材とした、恋愛映画だということができる。

ブレッドはホリーを愛し、ホリーはいつも優しくしないブレッドの気を引くために、ホリーのことが好きなセバスチャンと親しくするし、クラウスに所有物として愛されているエンジェルは束縛しない男ブレッドに惹かれている。

映画の最中にナレーターが言う。「公演が終わってもドラマは続いている」。この公演とはサーカスのショウのことだが、別の意味では、この映画が終わってもドラマは続いているとも解釈できる。

映画が終わっても、映画の視聴者の中でドラマは続いていて、その心の中のドラマが現実の世界に変化をもたらすこともある。それは映画を観た人が、映画の優しさや残酷さに触れて、そこからなにか教訓のようなものを受け取り、それが生き方に影響してくるといったものだ。

この映画も人に影響を与える映画だ。

この映画には、もう一人主要な登場人物がいる。それはバトンズというピエロだ。バトンズは、恋人を安楽死させ、警察に追われる身になった医者で、姿を隠して生活するためピエロの化粧を常に落とさずにいる。

バトンズにとってピエロは、世間から隠れるための隠れ蓑だ。バトンズは愛のために恋人を殺した人物だ。バトンズが救われるには、バトンズが恋人を救うことが必要だった、というようにこの映画のラストは描かれる。そしてバトンズは罪を償うことを受け入れるのだが。つまり、バトンズは、相手の死を所有しようとしたことを、過ちとして認める。

この映画では、男女間の愛とは何かが描かれる。愛とは所有か?束縛か?それとも自由か?この映画の中の登場人物にエンジェルとクラウス、ホリーとブラッドがいる。クラウスはエンジェルを束縛という形で所有して、その所有が愛だと思っている。ブラッドはホリーを束縛せずに自由に決めさせることが愛だと思っている。

そこに介入するのが、セバスチャンだ。セバスチャンは、自由に愛を求める。相手を束縛しすぎず、しかし相手の愛を欲しがる。その愛の証明とは相手の言葉や態度からセバスチャンが読み取るものだ。セバスチャンの愛も所有だ。相手の心の所有ということができる。

愛と所有。それはセットなのかもしれない。愛を語り身分の高い女性に膝まづく騎士は、愛の見返りとして相手の心の所有を求めた。所有という観念が生まれてから恋愛、ロマンティック・ラブが始まったと言えるかもしれない。

ではなんのために、相手の心を所有するのか?それは、膝まづく騎士が、相手の持つ高貴さを理解しているというサインだ。素晴らしい心を持つ君を所有したい、と。もしくはそれは、相手の財産手に入れるためだ。もしくは、現代的労働者階級的に言うならば、家事労働を手に入れるためだ。もしくは跡取りを産み育てさせるためだ。

所有と愛。所有が愛を生んだ。そう考えると、そこには家父長制や資本主義が絡んできて、あらためて所有の持つ意味を考えさせられる。定住民には所有は切り離せないものなのかもしれない。

おせっかい

映画「ミッション(原題:The Mission)」を観た。

この映画は1986年のイギリス・フランス・アメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の中心人物は3人いる。一人はイエズス会の宣教師、もう一人は奴隷商人で傭兵からイエズス会の僧になるメンドゥーサという男、もう一人は彼らの暮らす南米のスペイン領の枢機卿の男だ。

映画が始まって映画タイトルのThe Missionが表示される前に、最初に画面に大きく表示されるのはRobert De Niroの文字だ。そこから映画の主人公はロバート・デ・ニーロかと誰もが思うはずだ。筆者もそう思った。

しかし、映画の序盤でロバート・デ・ニーロがいつものキレた役を演じている以外は、この映画の主人公はロバート・デ・ニーロであるとは考えられない。映画の主人公はロバート・デ・ニーロではなく、現地人のように見えてくる。

現地人とはスペインとポルトガルに支配されている南米の、今まさにスペインからポルトガルに支配権を移そうとしているその土地の現地の人のことだ。映画ではセリフ訳で“インディアン”とされる人たちだ。

南米はスペインとポルトガルによって15世紀から支配されている。スペインとポルトガルによる支配とは力の支配だ。力とはこの場合暴力のことだ。スペインとポルトガルは現地人を暴力により屈服させて支配した。

この映画はイエズス会の宣教師が中心となって物語が進んで行く。宣教師は言う。必要なのは愛だと。そうつまりスペインとポルトガルの暴力とは正反対のものが愛だ。その愛を伝えるのが宣教師だ。

しかし、宣教師たちの愛も余計なおせっかいでしかない。現地人はヨーロッパ風の愛などなくても十分自立して生活を行うことができていた。西洋人の愛は単なるおせっかいだ。布教による影響力の拡大、権力の拡大が、結局のところ宣教師たちの目的だ。

傲慢な国と、傲慢な宗教と、それに翻弄される現地の人たち。それがこの映画の登場人物だ。

スペインとポルトガルによる支配は、現在の南米でも欧米による南米の支配という形で残っている。欧米による第三世界の支配がこの世界の大きな見取り図になる。第三世界とは欧米以外の国のことを指す。

第三世界とはアフリカ、中東、アジア、南米、オセアニアのことだ。欧米は国際通貨基金世界銀行を通じて、第三世界を支配している。例えば第三世界のある土地では、アグリカルチャーと呼ばれる単作農産業が行われ、現地には輸出用の農作物しかなく、現地の人が食べる食糧は育てられず、現地の人は輸入された作物を買うしかなく、しかし低賃金のために輸入された農作物を買うお金はない、という悪循環に陥っている。

そのような状況にある第三世界の一部である南米の現状の原型を作り出したのが、15世紀に行われた南米大陸へのスペイン、ポルトガルの軍事的侵攻だ。南米の資源が目的だったのがこの侵攻だ。インドに行くための航路を探していてコロンブス南インド諸島に辿り着いてから、ヨーロッパ人は南米の資源に目がくらんだ。

現地人は金の装飾品を身につけていて、ヨーロッパ人はその金を求めて南米を支配した。その後砂糖などの農作物を南米で生産して、ヨーロッパに輸入していた。その時にメンドゥーサのような奴隷商人や傭兵が活躍した。

つまり現地人はただ同然の、もしくは低賃金の労働者だった。つまり、現地人はスペインやポルトガルの所有する奴隷の供給源だった。

この映画では奴隷商人で傭兵のメンドゥーサが自らの罪を改めて、イエズス会に入る姿が描かれる。それは、今欧米の国々がとるべき姿を示している。但し、宗教が欧米の侵略のための存在でないことが必須条件となるが。実は、ロバート・デ・ニーロはこの映画の隠れた主人公だったのだ。

ヴィクトリアン・モラル

映画「西鶴一代女(読み:さいかくいちだいおんな)」を観た。

この映画は1952年の日本映画で、映画のジャンルはドラマ時代劇映画だ。

この映画の主人公はお春という女性だ。この映画はお春の人生を辿る形で進行していく。

この映画を観て最初に頭に浮かんだのは、家父長制という言葉だ。その家父長制とは、ヴィクトリアン・モラルを基軸とした、現代日本にも根深く存在する制度だ。その制度を簡単に言ってしまえば男と女からなる世界で、人間は男だけというものだ。

この映画の原作は井原西鶴の「好色一代女」という浮世草子だ。この原作が書かれたのが1686年だ。前述したヴィクトリアン・モラルが誕生したのは、19世紀イギリスのヴィクトリア時代に当たる期間の1837年から1901年だ。

つまりこの映画の原作は現代の家父長制の始まりとなったヴィクトリアン・モラルの生まれる前に書かれたことになる。現代の家父長制の始まる前から性的に奔放だった日本にこの映画のような性規範や家父長制があったかは、はなはだ疑問だ。

原作は「好色一代女」というタイトルで、この映画は「西鶴一代女」となっている。つまり映画のタイトルでは好色が消えて、西鶴になっている。なぜかと言えば、この映画の主人公が性的に淫乱で身を崩したことになってしまってはこの映画は成り立たないからだ。

ヴィクトリアン・モラルでは、自由恋愛をした女性は結婚後貞節になる。そして、家の中で子供を産むことのみを期待されて過ごす。いわば籠の中の鳥だ。籠の中の鳥に自由はない。あるのは、結婚という束縛だ。

この映画ではヴィクトリアン・モラルとは違って、自由恋愛が許されていない時代だ。主人公のお春に身分差を越えて恋をした男はこう言って死ぬ。「お春さんは自由に恋をしてください!!」と。

つまりこの映画は婚前多交渉・婚後貞節というヴィクトリアン・モラルの前提が否定されている。しかし、この映画の中で描かれる家父長制の世界はまさにヴィクトリアン・モラルそのものであるとも、ある部分では言える。そう、女性は籠の中の鳥でなければならない。

ヴィクトリアン・モラルでは結婚後の女性の貞節は固く守られなければならないものだ。それは女性の過去の詮索につながる。なぜか?それは女性の子供が男性から財産を奪わないようにするためだ。

ある男性と結婚していて、実はその男性以外との間にも子供を作っていて、その子供に遺産を相続するように申し出られたら、その妻子のある男性は財産を実の子供に多く残すことができなくなってしまう。つまり、財産が小さくなってしまう。

ヴィクトリアン・モラルを規範とした家父長制は、男性の財産を守ろうとする。それは、男性の財産が減ることを何よりも恐れる。そのため貞節でない妻は徹底的に差別される対象になる。

男性が財産を守ることに必死になれば、女性のすべての交友関係が問題となってくる。女性が子供を多く、今ある結婚以外で持っているのは嫌われる。財産が分割されてしまうからだ。財産を長子以外に渡す可能性が出てくる場合はすべて排除されなければならない。

しかし、この映画の男性の身勝手な振る舞いを観ていると、男性はそこまで家父長に対して合理的に動いてはいない。なぜなら男性は浮気をするからだ。浮気は財産分与の機会を多くしてしまうので浮気は家父長制に対して合理的ではない。

しかし、下劣な男性は家父長制の辻褄を合わせるために、自らの違反をなきものにする。それが一夫多妻だ。男性は多くの女性を抱えることができるというのが一夫多妻だ。一夫多妻はしかし、男の財産を分割してしまうのだが…。

性愛は合理的には進まないものだろう。そうでなければこの世界のいざこざが少なくなっているはずだからだ。愛欲のもつれの問題は今もある。性愛とは、誰かが誰かをコントロールするものなのだろう。だからそこに軋轢が生じる。

結婚以外の選択肢

映画「東京流れ者」を観た。

この映画は1966年の日本映画で、映画のジャンルはヤクザ映画だ。

この映画の主人公は哲という若者だ。哲は倉田組というヤクザに入っていたが、倉田組が解散することになり、ヤクザの世界から足を洗い、堅気の人間になろうとする。しかし、倉田組が解散した後も、倉田組の組員にしつこく付きまとう大塚組がいた。

哲は大塚組との関りを断とうとするが、大塚組は、倉田組の入っていたオフィス・ビルを無理やり強奪する。その際に、2人の人間が死に、元倉田組の人間たちにはそれが負担になっていた。哲はしつこく付きまとう大塚組から逃れるため、ヤクザの世界から逃れるため流れ者になる。

この映画は哲という義理を重んじる人間が中心となって引き起こされる悲劇だ。哲は自分の面倒をみてくれた倉田組の組長に義理を感じている。そのために哲は倉田組を解散するという元組長の意思を尊重して、元組長の決定に従うべく堅気になろうとする。

哲は堅気になろうとしても、過去はついてくる。つまり、ヤクザであった時代の名残りが哲に付きまとう。哲はそのため流れ者になる。そして哲が流れ者である点がこの映画のポイントである。つまり哲は家族を作らない。それは家父長を捨てるということだ。

日本には家父長制が依然として残っている。その家父長制は男尊女卑という悪しき伝統を保持するものだ。2019年12月に公表された日本のジェンダーギャップ指数は、153ヵ国中121位だ(World Economic Forum)。

ジェンダーギャップ指数というのは男女間の格差を示している。政治や経済や教育や健康のカテゴリーで、男女間の格差がついていないか数値で示してくれるのがジェンダーギャップ指数だ。ちなみにこの121位というのは主要先進国で最下位になる。

哲の姿勢が素晴らしいのは1966年の時点で家族を持たないという選択をしたことだ。つまり哲は曲がりなりにも家父長制を否定したことになる。だが、哲の渡り歩く先には、キャバレーのようなお酒を男に注ぐのが仕事というジェンダーギャップ指数に響きそうな店もあるのだが。

哲は家族を持たないという決意をした瞬間に図らずも女性にとっては好ましいだろう決定をしている。それと同時に、哲と家庭を持ちたいと思う自立した女性がもしいた場合にはその女性の幸せを否定していることになる。

しかしだ、1966年の女性に結婚以外の経済的存続の方法がありえたのか?それはノーだろう。女性に結婚以外の道はなかった。哲に結婚を求める女性は自ら望んで哲と結婚するのではなくて時代の波にのまれてしまったのだ。というか結婚以外に道はないのだ。

結婚以外に道はないというこの状況を社会は解消していくべきだ。選択肢は多いほどいい。結婚も選択肢の一つに過ぎないと言えるのが好ましい状況だ。結婚が必然ではなくなる時。それは、この世界が女性に対して経済的自立を保障するものになるということだ。