障がい者も人だ

映画「さようならPC」を観た。

この映画は1972年の日本映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画の主人公は脳性まひの青年だ。

この映画の舞台は、脳性まひの青年たちが利用する住居と、その周辺の駅の出入り口や通路だ。

この映画の中心となる青年は「青い芝」神奈川県連合会に所属している。この「青い芝」は、脳性まひの青年たちを一人の人間として扱っている。

彼らは、性欲を持つし、恋人を作るし、家庭を持つし、子供を持つし、言葉を語る。それが他人には聞き取れないような発音であっても彼らは自分の意思を発するのをやめない。仲間の中には沈黙を守る人もいるが、少なくともこの映画の主人公の青年は発言を止めない。

一般的に障碍者の人はかわいそう、純粋、清らかな人というイメージがあるかもしれない。そのイメージをひっくり返していくのがこの映画だ。そう障碍者も酒は飲むし、セックスはするし、ケンカもするし、愚痴も言う。つまり彼らは人だ。

この映画を観た人には、脳性まひの彼らの生き方が下品だという人がいるかもしれない。つまり、そういった非難をする人には障碍者のイメージが良いままに保たれるように、という自制心といったものがあるのかもしれない。

しかしその自制心が障碍者を生きにくくしているのだという事実にその視聴者は気付いていない。視聴者の先入観が生きる人を生きにくくしているという事実がある。それを偏見とここでは呼びたい。

偏見とは清らかなものに対する、歪んだ見方を言う。ここで提示した偏見はその逆だ。清らかでないものを清らかだと押し付けようとする見方がここで提示した偏見だ。偏見とは本来あるべき姿を歪んでとらえることだと言うことができる。

本来の人間の姿。それは条理ではとらえることのできない姿だ。それは非合理的な不条理な姿であるといってもいい。人間は性欲に突き動かされている。そして生まれ持った性癖は誰にもコントロールすることができない。

ならばその人の生き方をその人自身がコントロールできるというものではない。先ほどの障碍者は清きものという歪んだ見方は、このような人間のあり方に大きな負荷を与える。清らかでないものが清らかでいることを強制されるほどつらいことはないかもしれない。

人は誰もが清く正しくたくましく生きるのがベストなのかもしれない。しかし、人間は不条理にできている。人間の性癖は誰にも決定することはできない。それは生まれ持ってしまった不条理そのものであるかもしれない。

自由に生きようとする障碍者を悪者扱いをすることは、自分の首を絞めることでもある。なぜなら誰しもが清さに苦しめられているからだ。彼らのような障碍者を清いという枠で括るのは、自分の首を絞めることだ。

警察の腐敗に立ち向かうが、しかし黒人問題には立ち向かわない人物

映画「アンタッチャブル(原題:The Untouchable)」を観た。

この映画は1987年のアメリカ映画で、映画のジャンルは犯罪アクションだ。

この映画の原作は、1957年に出版された映画の原題と同名の本だ。この本はジョー・フェルプスという人物が、エリオット・ネスとオスカー・フラレイという2人の人物を引き合わせたことがきっかけで書かれた。

この映画の題材は1930年代のアメリカの禁酒法の時代に、カナダからのお酒の密輸で儲けていて、そのお金で警察までも買収していたアル・カポネというシカゴのギャングスタ―を脱税の容疑で捕まえたエリオット・ネスについてからとられている。

この原作を映像化したのはこの1987年のブライアン・デ・パルマによるものが最初ではない。この映画はいくつかの段階を経てこの映画へと至っている。

この原作の最初の映像化は、2つのパートからなるCBSのアンタッチャブルスペシャルが最初だ。これは1959年に制作された。そしてこの映像作品はザ・スカーフェイス・モブとして映画館で上映された。

その後にABCでアンタッチャブルのテレビ・シリーズが人気となる。この時、世間から忘れられていたネスの人気が復活した。そしてその後、1987年のブライアン・デ・パルマ監督による映画が作られ、その後1992年に、ザ・ラスト・オブ・モヒカンズのクリストファー・クロウが再びテレビ・シリーズを制作している。

このデ・パルマ版の1987年の作品においては、主人公のエリオット・ネスは銃撃戦を繰り広げて、それがこの映画の見どころにもなっているのだが、実際のエリオット・ネスは銃の携帯はしていなかったそうだ。この事実からもわかるように、この映画の原作は事実通りに書かれたものではないそうだ。

エリオット・ネスは二度の結婚に失敗して、三度目の結婚をしている。ネスはアル・カポネを逮捕した後は、詐欺や偽札を防ぐための透かしの印刷のチェックの新しい技術をうるさく勧誘してなんとか暮らしていた。

The Boxと呼ばれたネスの印刷会社のデスクにある厚紙のファイルには、ニュースの切り抜きのスクラップであふれていた。その中には、盗聴の速記や調査のリポート、ファンからのメールも入っていた。

ネスと共同で執筆したフラレイは、高校時代の恋人と結婚していたが、その女性マリー・エスタラックは車の事故で28歳で死んだ。そしてその時フラレイはもう一人の女性と重婚しており、その女性はフラレイに騙されていて、中絶した後、実家に帰り41歳で首を吊って亡くなっている。その女性の名前はマリー・アン・セカーラクという。

この映画で取り上げられるのは警察の腐敗だ。今アメリカでは警察の黒人に対する不当な扱いが問題になり、ブラック・ライブス・マターという運動が起こっている。現在は黒人たちを中心としてアメリカの市民が警官に向かって立ち上がっている。

ネスは当時の腐敗した警察に対して立ち上がった人物だった。その当時の警察は、密輸や犯罪で何とか生活をしていた労働者階級の移民や、人種的マイノリティからお金を巻き上げていた。警察は秘密でそのような人たちを拷問して恐喝していた。

そのような状態をネスの先生であるオーガスト・ボルマーという人物は好ましく思っていなかった。ボルマーは、極端な場合を除いて人を攻撃するなと言った。対立を和らげて、ルーツが原因の犯罪をただし、マイナーな違反の市民は刑務所に入れるなと言った。

しかしそのような教えを受けたネスにも欠点はある。それはネスの黒人に対する扱いだ。ネスは自分のチームに黒人を入れなっただけでなく、そのチームの一員が黒人を殺して首になっている。その黒人を撃った人物の名前はフランク・グリーンで、撃たれて死亡した黒人の名前はジョセフ・フォアマンで事件当時23歳だった。

理想に燃えていたネスにも欠点があった。それは黒人差別で、今でも警官の間では黒人差別が根強く残っている。そしてそれが、この映画と原題を結び付けている負の歴史だ。

アメリカとヨーロッパの侵略

映画「続・夕陽のガンマン(伊題: Il buono, il brutto, il cattivo、英題: The Good, the Bad and the Ugly)」を観た。

この映画は1966年のイタリア、西ドイツ、スペイン、アメリカ合作映画で、映画のジャンルはマカロニ・ウェスタンだ。

この映画の中心となるのは3人の人物だ。トゥーコ・パシフィコという名で、あだ名をネズミと呼ばれる卑劣漢(the ugly)。エンジェルという名で悪玉(the bad)。ブロンディーという名で善玉(the good)。この3人が軸となって映画は進んでいく。

この映画はこの3人の風貌が重要となっている。トゥーコはメキシコの現地人のルーツをもつ人種。エンジェルはメキシコを支配していた西洋のスペイン人やポルトガル人を思わせる。そしてブロンディーは名前からもわかるように金髪の白人だ。

この映画は西部開拓時代の賞金稼ぎの話だ。お金の話があれば飛びつくのがこの3人だ。そしてこの3人の中で汚れ仕事をするのは、メキシコ系のトゥーコだ。あとの2人のエンジェルとブロンディーはトゥーコが汗水たらして稼いだ賞金をかすめ取る。

善玉と映画でブロンディーは表示されるが、実はブロンディーはまったく善玉なのではない。トゥーコに汚れ仕事をさせて、自分は手を汚さないでいいとこどりをするのがブロンディーという男だ。

トゥーコはメキシコ人を表していて、ブロンディーはアメリカ人を、エンジェルはスペイン人やポルトガル人を表していると考えることができる。そうこうこれは西欧によるメキシコの植民地支配を描いた物語なのだ。

映画の最後でトゥーコはこう言う。「ブロンディーは善玉なんかじゃない!!!ブロンディーは悪玉だ!!!」と。このトゥーコのセリフはこの物語の本質をついている。ブロンディーは偽善者だ。きれいごとばかり言うアメリカの偽善者の象徴がブロンディーだ。

この映画の時代背景は、南北戦争北軍の勝利が近づいている時期だ。ちなみにアメリカの西部開拓時代が1860~1890年。アメリカの南北戦争が1861~1865年だ。これと同時にアメリカのインディアン戦争も進行している。米墨戦争が終わったのは1848年だ。

この映画の場所はニューメキシコの辺りだ。ニューメキシコはその名前からもわかるように、以前はアメリカ領ではなくてメキシコ領だった土地だ。もともとはメキシコだった土地なので、メキシコ系の血を引くトゥーコや、スペイン・ポルトガル系のエンジェルがいる。

この映画では銃描写もある。様々なメーカーの変わった銃がお店のショーケースの上に並べられる。トゥーコが銃を求めているこのシーンで、トゥーコが求めている銃は早く正確に短い時間に何発も打つことができる銃だ。

トゥーコはきっとコルト社のコルト・ウォーカー・ハンドガンのような銃を求めていたのだろう。ちなみにこのウォーカーというのは、テキサスレンジャーにいた実在の人物であるサミュエル・ウォーカ―大尉のことだと思われる。テキサスレンジャーはネイティブ・アメリカの人やメキシコ人を虐殺していたことで知られている。

この映画の背景に見られるのは、アメリカやスペイン、ポルトガルの侵略と戦争の歴史だ。この映画の主人公である善玉のブロンディーは全く正義の人物ではない。それは、植民地主義をとったような西欧の歴史の残酷な生き写しだ。

アメリカに侵略されたメキシコ

映画「夕陽のガンマン(伊題: Per qualche dollaro in più、英題: For a Few Dollars More)」を観た。

この映画は1965年のイタリア映画で、映画のジャンルは西部劇だ。

この映画は1964年のマカロニ・ウェスタン映画「荒野の用心棒(伊題: Per un pugno di dollari、英題: A Fistful of Dollars)」の続編だ。

この映画の主人公はモンコとダグラス・モーティマー大佐の2人で、この2人に敵対するのはインディオをボスとする盗賊団だ。モンコとモーティマー大佐は賞金稼ぎで生計を立てていて、賞金首がインディオ一味ということになる。

この映画の舞台は西部開拓時代で、なおかつアメリカの南北戦争が終わった後の話だ。この時期にコルト社のリボルバーやウィンチェスター社の当時の最新型の銃が開発さえており、ガン・ファイトもこの時から素早いものになった。

この映画の舞台の土地名は例えばテキサスのエルパソだ。当時のテキサスはまだアメリカ領になったばかりだった。開拓時代の頃までテキサスはメキシコ領だった。

メキシコは、スペインが直接は支配していたが、そのメキシコで採れる金や銀は、ヨーロッパやアジアに送られ、イギリスが利益を盗っていた。19世紀中頃、メキシコ領だったテキサス、アリゾナ、ニュー・メキシコ、コロラド、ユタ、ネバダ、カリフォルニアにアメリカをアメリカが強引に奪った。

また、この時にメスティソというインディオとスペイン系・ポルトガル系移民との混血が起きて、同時に人種がミックスされた人々が生まれた。

それは、アメリカのジョン・タイラーとジェームス・ポーク大統領がアメリカの宿命としてアメリカの拡張が宿命であるという困った熱に浮かされてたせいでもある。

当時アメリカとメキシコの間に起こった米墨戦争でメキシコの55%の領地がアメリカのものとされた。

モンコはポンチョという南米の衣装を着ているし、モンコとモーティマー大佐の敵のインディオ一味も、ソンブレロというメキシコのイメージがある帽子を被っている。当然住んでいるのも前述したようにメキシコ系の血を引く人たちだ。

テキサスはメキシコがアメリカに奪われた土地だ。それはつまり戦争のあった土地であり、実はいやいやながら住んでいる人はアメリカの横暴を受け入れているのだ。つまりテキサスは悲劇の土地でもある。

西部開拓時代で、アメリ南北戦争が始まった後で、米墨戦争の後で、新型の銃が開発された時代のテキサスは、暴力があふれている土地だった。その中で生き抜くにはマチズモが必要だったとこの映画は物語っているようでもある。

賞金稼ぎが見事に賞金を勝ち取ることができるのか?アメリカ人に土地を奪われたメキシコ人は身内の仇をとることができるのか?それがこの映画の見どころでもある。

映画の最後に明かされる、インディオが愛して殺し、その復讐をする原因となる兄のモーティマーの妹の存在が明らかになると、この映画の読みは一層深いものになる。妹は侵略者であるアメリカ白人に恋をして、メキシコ系の血を引くインディオに殺される。モーティマーの妹は、アメリカに侵略されたテキサスの土地そのもののようだ。それは、柔軟な女性、硬直した男性を表しているかのようでもある。

ガンマン

映画「荒野の用心棒(伊題: Per un pugno di dollari,英題: A Fistful of Dollars)」を観た。

この映画は1966年のイタリア映画で、映画のジャンルはマカロニ・ウェスタンだ。

この映画の舞台は、西部開拓時代で、南北戦争の期間で、なおかつインディアン戦争の最中だ。アメリカの西部開拓時代は1860年から1890年。アメリカの南北戦争1861年から1865年。アメリカのインディアン戦争は1609年から1924年

この映画ではアメリカの南北戦争に関するシーンがあるので、この映画の時代は1860年以降だと思われる。またこの映画ではコルトと呼ばれるタイプの小銃が出てくるし、ウィンチェスターと呼ばれるタイプの銃器も登場する。

コルト社のリボルバーと呼ばれるタイプの銃が人気になったのが1847年ごろ。ウィンチェスター社のライフルが人気になったのが1860年ごろ。この映画に登場する銃は当時の最新のタイプの銃器ということになる。

ちなみにコルト社のリボルバーと呼ばれる銃は当時としては画期的なものだった。それまでの小銃は、銃に弾丸をセットするのが非常に手間だった。銃身に粉を入れて、銃身の先端に発射物を入れて、別の詰め物を叩き込んでというように。

コルト社以前の銃は、熟練者でも1分間に3回発射できる程度だった。それに対して、コルト社のリボルバーは、回転する弾倉を持ち、撃鉄を引き起こすと、弾倉が回転して、次の薬室と銃身が一直線になるように作られていた。

これにより、銃を持つ人は素早く連続して5発から7発の弾丸を打つことができた。そうこの銃なら、この映画の銃撃戦のような素早い銃撃戦が可能になる。つまり1847年までは、この映画のような銃撃戦は不可能だったのだ。

ちなみにコルト社のリボルバーを今のような形にするのに最終的に貢献したのが、テキサス・レンジャーのサミュエル・ウォーカーという人物だ。アメリカ合衆国ネイティブ・アメリカンとの戦争であるセミノール戦争にコルト社の初期のリボルバーが使われて、アメリカ合衆国とメキシコとの戦争である米墨戦争でもコルト社のリボルバーを使用した。

テキサス・レンジャーとそのすぐ後にアメリカ政府がコルト社のリボルバーを無数に購入した。

この映画に登場するのは白人の保安官と、メキシコのギャングたちだ。その間に主人公のアメリカからメキシコにやってきた主人公が割って入る形になる。

西部劇で名作と呼ばれる映画に、この映画と同じくクリント・イーストウッド主演の「許されざる者」がある。そこで主人公とコンビを組むのはモーガン・フリーマンが演ずる黒人のガンマンだ。

黒人のガンマンは実際に存在した。アーカンサスの奴隷の生まれであったバス・リーブスという黒人の保安官がいたことがわかっている。彼は5つのインディアンの言葉を理解していて交渉役を担っていただけに関わらず、ウィンチェスター・ライフルで4分の1マイル離れたところから人を殺すことができた。

また彼は、黒人を殺した白人を捕まえることをしていて、これは当時、白人至上主義とも呼べる時期にしては、並外れたことだと言われている。

銃器の開発が進んで、白人優位の社会で、女と子供は物のように扱われる時代を描いた映画が、この「荒野の用心棒」だ。このような時代に、いわばある意味野蛮な時代に生きたガンマンの生きざまをこの映画は見せてくれる。

白人至上主義からの決別

映画「SKIN/スキン(原題:Skin)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、映画のジャンルは伝記映画だ。

この映画の主人公はブライオン・“バブズ”・ワイドナーという白人青年だ。この青年ブライオンには特徴がある。それはブライオンがヴィンランダーズ・ソーシャル・クラブという、白人至上主義者のネオ・ナチのグループに所属する青年だということだ。

ブライオンは所属集団の属性からもわかるようにいわゆるネオ・ナチの白人至上主義者だ。ブライオンはバブズというミドルネームを持つ。このバブズというミドルネームは、ブライオンの白人至上主義者、ネオ・ナチとしての名前だ。

ブライオンの仲間の白人至上主義者たちも、また彼の敵である黒人の反ネオ・ナチのグループのリーダーも彼をバブズと呼ぶ。白人至上主義者は慕ってバブズと呼ぶし、彼の敵はブライオンのことを軽蔑してバブズと呼ぶ。

ブライオンはヴィンランダーズの所有する店でタトゥーを人に掘って生活費を稼ぎ、夜は破壊活動を行っている。夜のモスクに身を潜めている不法移民を焼き払おうとしたり、黒人の14歳の少年の顔にナイフで傷を負わせたりしている。

夜のモスクの件は実はブライオンが不法移民に逃げ道を教えて、不法移民は一時的に命が助かっている。しかし、その後に白人至上主義の団体は不法移民を捕らえて殺害している。白人至上主義は排外主義だからだ。

しかしなぜブライオンが白人至上主義の団体から足を洗おうとしたのか?それは、ジュリーという3人の子持ちの女性に恋をしたからだ。その子供の名前はイギー、デジレー、シエラという。そのうちイギーはブライオンの愛犬のボスになつく。

映画の後半はブライオンがジュリーと結婚して家族になり、ブライオン一家と白人至上主義の団体を仕切る夫婦であるフレッドとシャリーン一家の戦いになっていく。ブライオンは家族と共に逃避行のロードムービーも演じる。

この映画は、時間軸が2つ存在する。それはブライアンが白人至上主義の団体と本当に決別するまでの時間軸と、白人至上主義の団体から抜け出して、顔や腕のヒットリアンのシンボルや北欧のファンタジーの紋章を消し終わるまでの時間軸だ。

白人至上主義の団体が義理堅く、残酷にブライオンを追ってくるスリラーの部分に、ブライオンが白人至上主義から決別していくことのメタファーのようなタトゥーの除去が挿入されてくるのが映画の全体的な流れだ。

人は誰しも集団に所属してその掟を生きる。しかし、その所属集団の価値観が、人間の普遍的な価値観、もしくは時代によって作られてきた価値観と合わないときには、そこには齟齬が生じる。軋轢が生じる。

その悲しい物語がこの映画だということができる。この映画にはハロウィンのパーティーのシーンがある。その場面は面白い作りになっていて、この映画の笑えるシーンの一つだ。映画はシリアスなものにある笑いを思い起こさせる。

町山智浩氏が言うように、遠くから観れば喜劇だし、近くで見ると悲劇なのだ。シリアスな映画に笑いがないわけではない。それは、どんな集団にも笑いがあるように。そしてその事実がこの映画の救いなのかもしれない。

 

家父長制に抗う

映画「透明人間(原題:The Invisible Man)」を観た。

この映画は2020年のアメリカ・オーストラリア合作映画で、映画のジャンルはホラーだ。

この映画は、大林宣彦監督の映画「HOUSEハウス」と共通点がある映画だ。映画「透明人間」は、この「HOUSEハウス」という映画と共通点を持っている。その共通点とは、家父長制と女性の関係についての映画だということだ。

家父長制とは、日本でもお馴染みの古くからあるしきたりによる家制度のことだと言っていいと思う。父親である家長を家の軸として、その支配下に妻と子供が置かれる制度のことだ。父は家の代表としているだけ、母は家事をこなさなければならないというような。

この映画「透明人間」の主人公はセシリアという女性だ。セシリアはエイドリアンという天才科学者と結婚していて、2人は海の近くの豪邸に住んでいる。高級車に乗り、バイクも2台は持っており、黒くて血統の良さそうな犬も飼っている。

映画は、セシリアが、その豪邸から逃げ出そうとするところから始まる。なぜセシリアはそのリッチな生活を捨てようとしているのか?それは、実は秘密であるようで何の秘密でもないような理由だ。それは家父長制の強いる状態ということができる。

家父長制は前述したように、妻に女性に家の仕事を押し付けるシステムだ。この映画の主演女優のエリザベス・モスがインタビューでイエスと答えているように、現在の世の中にある強制的で、支配的な関係性についてこの「透明人間」という映画は描いている。

その強制的で支配的な関係性というのが、例えばこの映画「透明人間」で描かれる家父長制つまり、男性をピラミッドの頂点に置いて、女性をその下に置くようなシステムだ。この制度では女性が能力に関係なく男性の支配下に置かれる。

セシリアは家父長であるエイドリアンの支配から逃れようとする。そしてその支配は同時にエイドリアンの兄のトムの支配でもある。エイドリアンとトムの関係がわかった時に、セシリアが挑んでいるのは一人の男性だけではなく、その背後にあるシステムだとわかる。

セシリアは家父長制に挑む。すると必然的にそれは、社会制度そのものに挑むことになる。その社会は反対者つまり異端者をどのように扱うか?それはこの映画の中で明らかになる。家父長制の社会は、セシリアがどれほど合理的に思考していても、彼女を犯罪者もしくは、精神異常者として扱う。それが家父長制のこの映画でみられるやり方だ。

そう、当初映画は一夫婦の話で始まるのだが、映画が進むにつれてその夫婦というものがどういう背景によって成り立っているかがわかる。その背景とは冒頭から言っているように、家父長制のような強制的で支配的なシステムだ。それは例えば、家族や、警察、病院といったようなものだ。そのシステムから逆らうものは、それが真に合理的な行動であっても、すべて異常者とされる。

この映画では、映画のラストにこの世界の強制的で支配的なシステムにどう対処するかの一つの答えが示される。それはある意味で絶望的で、ある意味で希望にあふれたものだ。

この強制的で支配的な例えば独裁制のようなシステムにどう抗っていくのか?それがこの映画が私たちにもたらしてくれるテーマだ。