結婚以外の選択肢

映画「東京流れ者」を観た。

この映画は1966年の日本映画で、映画のジャンルはヤクザ映画だ。

この映画の主人公は哲という若者だ。哲は倉田組というヤクザに入っていたが、倉田組が解散することになり、ヤクザの世界から足を洗い、堅気の人間になろうとする。しかし、倉田組が解散した後も、倉田組の組員にしつこく付きまとう大塚組がいた。

哲は大塚組との関りを断とうとするが、大塚組は、倉田組の入っていたオフィス・ビルを無理やり強奪する。その際に、2人の人間が死に、元倉田組の人間たちにはそれが負担になっていた。哲はしつこく付きまとう大塚組から逃れるため、ヤクザの世界から逃れるため流れ者になる。

この映画は哲という義理を重んじる人間が中心となって引き起こされる悲劇だ。哲は自分の面倒をみてくれた倉田組の組長に義理を感じている。そのために哲は倉田組を解散するという元組長の意思を尊重して、元組長の決定に従うべく堅気になろうとする。

哲は堅気になろうとしても、過去はついてくる。つまり、ヤクザであった時代の名残りが哲に付きまとう。哲はそのため流れ者になる。そして哲が流れ者である点がこの映画のポイントである。つまり哲は家族を作らない。それは家父長を捨てるということだ。

日本には家父長制が依然として残っている。その家父長制は男尊女卑という悪しき伝統を保持するものだ。2019年12月に公表された日本のジェンダーギャップ指数は、153ヵ国中121位だ(World Economic Forum)。

ジェンダーギャップ指数というのは男女間の格差を示している。政治や経済や教育や健康のカテゴリーで、男女間の格差がついていないか数値で示してくれるのがジェンダーギャップ指数だ。ちなみにこの121位というのは主要先進国で最下位になる。

哲の姿勢が素晴らしいのは1966年の時点で家族を持たないという選択をしたことだ。つまり哲は曲がりなりにも家父長制を否定したことになる。だが、哲の渡り歩く先には、キャバレーのようなお酒を男に注ぐのが仕事というジェンダーギャップ指数に響きそうな店もあるのだが。

哲は家族を持たないという決意をした瞬間に図らずも女性にとっては好ましいだろう決定をしている。それと同時に、哲と家庭を持ちたいと思う自立した女性がもしいた場合にはその女性の幸せを否定していることになる。

しかしだ、1966年の女性に結婚以外の経済的存続の方法がありえたのか?それはノーだろう。女性に結婚以外の道はなかった。哲に結婚を求める女性は自ら望んで哲と結婚するのではなくて時代の波にのまれてしまったのだ。というか結婚以外に道はないのだ。

結婚以外に道はないというこの状況を社会は解消していくべきだ。選択肢は多いほどいい。結婚も選択肢の一つに過ぎないと言えるのが好ましい状況だ。結婚が必然ではなくなる時。それは、この世界が女性に対して経済的自立を保障するものになるということだ。