家父長制の違和感

映画「HOUSEハウス」を観た。

この映画は1977年の日本映画で、映画のジャンルはファンタジー・タッチのホラー・コメディだ。

この映画の主な登場人物は7人の思春期の女の子だ。オシャレ、ファンタ、メロディー、ガリ、スウィート、クンフー、マックという名前が彼女たちの名前だ。映画の最中に出てくる彼女たちのカバンには彼女たちの名前がでかでかとプリントしてある。

この映画当時の社会は、家父長制の色濃い時代だ。

この映画を一言で言ってしまえば、家父長制から逃れられない女性たちへの物語だ。この映画のタイトルにあるハウスとは、女性が嫁いでいく先の、もしくは女性が受け継ぐ家だ。家を引き継ぐとは、子供をつくって、子孫を残すこと。つまり結婚だ。しかし、表向きに家を引き継ぐのは男性だ。

子供は、ほとんど家父長制の下にある両親から生まれる。家父長制の外部はほとんどない。つまり、ほとんどの子供が家父長制に従う親の元に生まれる。よって子供にとって家父長制はなじみのあるものであり、そこで繰り広げられる男尊女卑的な身振りや制度は、子供が生まれてから必然的に受け入れなければいけないもののようだ。

家父長制とは、父親を家長としたピラミッドのことだ。家を男が仕切り、そこでは女は従属的な性だ。家父長制は日常の家事を女性に押し付け、男性はテレビを観て寝転がるといった態度で生活を繰り広げることを良しとする。いわば奴隷制だ。

この映画には家長は家という物理的な姿をとって現れる。家が男を頂点とする家父長制を現わしている。そしてその家の栄養源になっているのは女性だ。家父長制では家の家事は女性がする。つまり、家の栄養源、つまり動力源は女性だ。

この映画では女性が家に嫁ぐこと、家を継ぐこと、結婚すること、結婚に憧れることなどが家に食べられるという形で表される。そして、家に食われるという表現自体が、家制度へのつまりは結婚制度への違和感を現わしている。

この映画では、オシャレという主人公の女性の実家という姿で家父長制を現わしている。故郷は田舎にあってそこでは立派な家がまだ建っている。その家が家父長制の象徴だ。田舎には家父長制的しきたりが未だに残っているという暗示がこの家だ。

ならば都会は家父長制から逃れられているか?それは否だろう。7人の女の子たちは田舎に遊びに行くという体裁はとっているが、結局は家父長制に食われるのだ。彼女たちが家父長制から逃れるということは不可能なことを暗示しているようだ。

この映画は作りものであることを明らかに示しているし、セリフもわざとらしく真実味がない。一見すると子供だましだ。しかし映画が展開していくと、その世界の残酷さに人は飲み込まれてしまう。

この映画を観て居心地が良くないと思う人は、家父長制に依存している人か?それとも家父長制から脱している人か?おそらくそのどちらにとってもこの映画は居心地が悪いだろう。家父長制に依存している人には、家から血が噴き出るのは気持ちが悪いだろうし、家父長制から脱している人は、家父長制のおぞましさを見せつけられて心地が悪いだろう。

人は誰しも両親から生まれる。もし父と母が流浪の民で、父と母以外の人にも育てられて、学校のない世界で、教養を身につけて育つ子供がいたらどうだろうか?その子供にはこの映画はきっと怖くもなんともない滑稽なものに映るに違いない。

構造的搾取

映画「レ・ミゼラブル(原題:Les Misérables)」を観た。

この映画は2019年のフランス映画で、映画のジャンルは警察・犯罪・ドラマ映画だ。

この映画は3人の警察の男性を中心として動いていく。

この映画の舞台は、パリの郊外にあるモンフェルメイユという地域だ。フランス語で郊外のことをBanlieueバンリューと言う。アメリカと逆で、都市に金持ちが住んで、郊外に金のない貧しい人が住む。フランス語でバンリューと言う場合は、郊外の貧しい地区のことを連想させる。

この映画はラジ・リ監督の自叙伝的映画で、映画の中にもドローンで盗撮をしている少年が出てくる。この少年がラジ・リ監督の原体験を表現しているのだろう。ドローンでの盗撮といえば、映画「アンダー・ザ・シルバー・レイク」でも主人公の友達が、ドローンで女性の裸を盗撮しているシーンがあった。ドローンを持つ人が最初にやりたがるのは盗撮なのだろうか?

この映画の舞台のモンフェルメイユのボスケ地区は、かつてハシシやコカイン、ヘロインの順に麻薬が売られていた地域で、ムスリム同胞団がその麻薬の流行を一掃した後には、ナイジェリアの組織による売春が行われていると映画に登場する警官が言う。

この地域には黒人が多い。白人の男性は、警察官ぐらいで、住んでいる住人はほとんど黒人だ。この映画の監督のラジ・リは、マリというアフリカ大陸の国の血を継いでいる。この映画は監督によるフランス政府の黒人の扱い方への問題定義だということができる。

なぜフランスに黒人の人たちがやってくるのか?それはアフリカの人たちは現地で搾取されているからだ。アフリカは資源が採れる国だ。それが財源になり国として安定してもおかしくないはずだ。

しかし、現実は違う。アフリカの国々の資源の採取、利用をしているのは、イタリアなどのヨーロッパ諸国だ。例えば石油会社のShellやEniは、アフリカから出た石油を、ヨーロッパの財産として使用している。

そしてアフリカではさらに不安な要因として、内戦があげられる。資源を利用して国を安定させるという目的は一応はいいのだが、その指導者の立場を巡って争いが起きている。その内戦の傷をテーマとして取り上げた映画に「獣の棲む家」「海は燃えている」がある。

アフリカの災難を逃れてアフリカから近い先進国で戦争のない国に、アフリカの人たちは逃れてきている。その結果として一部の人がフランスの郊外に住みつくことになった。また、フランスはアルジェリアを植民地としていた。そのフランスの植民地での抑圧に抵抗するレジスタンスたちを描いた「アルジェの戦い」という映画もある。

フランスに住んでいるアフリカ系の住民たちは、やむなくフランスに住んでいるという状況がある。そしてそのアフリカ系の人たちが住むフランスの郊外=バンリューで警察を遣って政府が何をしているのかを描いたのがこの映画「レ・ミゼラブル」だ。

レ・ミゼラブルというと、ヴィクトル・ユゴーの小説が連想されるが、この映画はその小説の映画化したものではない。しかし、この小説とこの映画「レ・ミゼラブル」は深い関りを持って要る。それはこの映画の序盤と終わりに明確に示される。

独立した放送局

Democracy Now!(デモクラシー・ナウ!)というインターネットのアメリカの寄付で成り立っている放送局をご存じだろうか?このデモクラシー・ナウ!という放送局は特定の営利企業の利益に迎合することはない。つまり、ルパート・マードックのFOXニュースのような、特権階級の営利が目的で行われている放送のように、放送の内容が都合よく歪められることはない。

 

“Since our founding in 1996, Democracy Now! has held steadfast to our policy of not accepting government funding, corporate sponsorship, underwriting or advertising revenue.”

https://www.democracynow.org/about

2021.12.19閲覧

 

"1996年の我々の創立以来、デモクラシー・ナウ!は、政府からの資金提供、企業の援助、融資や、広告収入を受け取らないことが私たちのゆるぎないポリシーです。"

 

このような文章がインターネットのデモクラシー・ナウ!のaboutからとべるページに記されている。政府、企業の資金に一切頼らない放送局というのがデモクラシー・ナウ!の独立性を示している。

放送局の独立性とは放送局が偏向しないことを示している。放送局はどうしてもお金を出してくれるスポンサー、例えば企業や政府におべっかを使うようになる。なぜなら彼らが放送を気に入らなかったら、放送局に出されるお金は少なくなるからだ。要は、スポンサーはお金で放送局をコントロールすることができるとうことだ。

その点デモクラシー・ナウ!のようなポリシーを持つ放送局は、スポンサーの意向に縛られることなく、独立した放送局として放送を行うことができる。それがデモクラシー・ナウ!の放送局としての強みだ。独立した放送局それがデモクラシー・ナウ!だ。

日本の放送局であるNHKの予算案は総務大臣に提出され国会の承認を得ることになる。しかもNHKの最高意思決定機関である経営委員会の委員は内閣総理大臣によって任命される。つまりこういうことだ。

国民から強制的に受信料をとっているNHKは、政府の意向に反する放送はできないということだ。予算の決定も、NHKの上部の人事も、政府の意向が反映される形になっている。国民から受信料をとっているから国民の意向に沿って放送を行うのが当然のはずだが、受信料は強制的にとることができる。

受信料は国民の任意ではない。つまり任意ならNHKが気に入らなければ受信料を払わないという行為がとれるが、強制なのでNHKの受信料の支払いに受信者の意思が反映されることはない。

デモクラシー・ナウ!のような独立した放送をNHKは行うことができない。そこにあるのは政府に都合の良い偏向放送だ。つまりNHKは受信者のための独立した放送機関ではない。日本の公共放送のレベルはこの程度だ。

日本にもスポンサーに依存しないインターネット上の放送局が存在する。それはビデオニュース・ドットコムという放送局だ。ビデオニュース・ドットコムは「マル激トーク・オン・デマンド」というメインの番組を持つ放送局だ。ビデオニュース・ドットコムのインタネット上の「ビデオニュース・ドットコムについて」というぺージにはこうある。

 

ビデオニュース・ドットコムでは報道機関が本来の公共的な役割を果たすためには、広告に依存しないビジネスモデルの構築が不可欠だと考え、開局当初より有料会員制を採用しています。ビデオニュース・ドットコムで現在放送中の放送をすべてご視聴になるためには、ご入会(月額550円(税込))が必要になります。(一部無料放送あり)

https://www.videonews.com/about

2021.12.19閲覧

 

このビデオニュース・ドットコムというインターネット上の放送局もデモクラシー・ナウ!と同じように特定の企業や政府に縛られない放送を行っている。司会は神保哲生宮台真司と迫田朋子だ。ちなみにデモクラシー・ナウ!の司会者はエイミー・グッドマンという人だ。両方の放送局ともテレビから流れてくる企業や政府の意向に偏った放送とは一線を画している。非常に観ごたえがある放送だ。

ビデオニュース・ドットコムは特定の利権に囚われることのない自由で正確な情報が放送される。デモクラシー・ナウ!は西洋という巨大な利権のもとで立ち上がる第三世界やその他の世界の現地民の姿を鋭くとらえる。現地民というと想像されるのは、南米やアフリカの住人と言ったところだろうが、そのひとたちと世界各地の市民、人々が連動しているというのが、デモクラシー・ナウ!を最近観始めた自分の感想だ。

ビデオニュース・ドットコムは日本語で行われる放送だ。それに対して、デモクラシー・ナウ!は英語だ。両放送局とも重要な放送局だと筆者は思っている。是非視聴するのをお薦めする。ちなみにビデオニュース・ドットコムには上記のように無料放送もあります。デモクラシー・ナウ!は無料で観れます。

 

 

参考文献

25%の人が政治を私物化する国 植草一秀 詩想社新書 2019.7.8第1刷発行

悲しみにはくれない

映画「禁じられた遊び(原題:Les Jeux interdits)」を観た。

この映画は1952年のフランス映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の中心となるのはドレ一家と、そこにやってきたポーラットという少女、そしてお隣さんのグアール一家だ。この映画の舞台は第二次世界大戦中のフランスで、フランスの領土は空からドイツ軍の爆撃や弾幕を受けている。

この映画のタイトルにある禁じられた遊びとは、戦争のことであり、ドレ家の子供であるミシェルとポーラットによる埋葬のことだ。

映画の冒頭ポーラットは両親とともに、ドイツ軍の空爆の中を車で逃げている。しかし、車は故障して、後続の車の進行の邪魔になるため、道路の下に落とされる。落とされた車から、両親は荷物を持ち、ポーラットはジョックという愛犬を抱える。

しかし、ジョックが逃げ出し、それを追ったポーラットを追って両親が走る。そこにドイツの戦闘機が機関銃を撃ち、ポーラットの両親と、ポーラットの愛犬であるジョックは息絶える。

その後ポーラットは老夫婦の馬車に拾われる。その馬車に乗っている老婆ははっきりとこう言う。「こんな邪魔者を拾ってしまった」。ポーラットは死んだ愛犬を抱えているが、老婦人はポーラットから愛犬の死骸を取り上げて道下の川に投げ捨てる。

ポーラットは愛犬の後を追う。愛犬を拾い上げ、ポーラットは一人で歩いている途中で、ミシェルに出会う。ミシェルは戦争孤児であるポーラットを家に連れて行く。

ミシェルはポーラットに愛犬を埋葬することを教える。水車小屋の中の地面に穴を掘って犬を埋めてそこに十字架を立てる。ポーラットは言う。「一人じゃかわいそう」。その言葉をきっかけにミシェルはポーラットと共に、十字架と動物の死骸を集めて、埋葬を行う。

そうこの埋葬が禁じられた遊びだ。なぜならば、死骸を集めることは嫌われることだし、よりによってミシェルとポーラットは十字架を盗んでくるからだ。死骸集めと、十字架の泥棒。そうこれは禁じられた遊びに違いない。

この映画は冒頭の空爆シーンは異様な緊張感が漂うが、その後映画はコメディタッチになる。農家の家族の様子がコミカルに描かれる。馬を追っかけては蹴られ、馬に蹴られて寝込んでいるが、家族はそれを悲壮に受け入れることはない。

農家の家族は、下品な人たちとして描かれる。そしてそこがこの映画のコメディである点だ。何をしても、ボロボロの服と、調子ぬけした演技で、映画はコメディに観えてくる。

この映画がなぜコメディタッチか?それは戦争に挑戦する態度だろう。戦争映画をシリアスに描くこともできる。シリアスとは悲しみに暮れることだ。しかし、戦争を乗り越えるのは笑いの力だ。そうこの映画は語っている。

愛と笑い

映画「無防備都市(原題: Roma città aperta)」を観た。

この映画は1945年のイタリア映画で、映画のジャンルは戦争映画だ。

この映画の背景は第二次世界大戦だ。場所はイタリア。イタリアは、ドイツと共に、連合国と対立していた。しかし、イタリアは連合国に降伏する。降伏した後、イタリアは連合国の統治下に入らずにドイツの支配下に置かれることになる。そのため、自由と正義の連合国側と、ヒトラー率いる独裁国のドイツの戦いがイタリアでも起きる。

この映画の主要人物は、マンフレディ名乗る技師と、ピエトロ神父、そしてフランチェスコ、フランチェスコの婚約者ピナとその子供のマルチェロだ。

第二次世界大戦を描いた映画は数多くありる。ざっと挙げると、「ウィンストン・チャーチル」「サウルの息子」「フューリー」「シンドラーのリスト」「ライフ・イズ・ビューティフル」「イミテーション・ゲーム」「大脱走」「キャプテン・アメリカ/ファースト・アヴェンジャー」「カサブランカ」「この世界の片隅に」「硫黄島からの手紙」「史上最大の作戦」「ヒトラー~最後の12日間」「ワルキューレ」「イングロリアス・バスターズ」などが挙げられるが、まだまだある。

第二次世界大戦を描くと、だいたいの西欧圏内の映画が、悪の枢軸国である日本、ドイツ、イタリアと正義の連合国側の戦争を描くのではないだろうか?例えば「この世界の片隅に」では悪役である日本の側からの第二次世界大戦が描かれるわけだが、この時の視線は明らかに悪の枢軸国の一員であった日本側からの視線で描かれている。

詳しくは映画を是非観て欲しいのだが、被爆国と原爆を落としたアメリカという悪役という形で第二次世界大戦が描かれている。日本人とすると当然の視線かもしれないが、世界的な映画の傾向をみると実はその視線は珍しいものではないかと思われる。しかし、映画は決して日本軍を美化したものではない。

さて先に挙げた映画でヒトラー率いるナチス・ドイツとの戦いを描いたものは、例えば「ウィンストン・チャーチル」や「イミテーション・ゲーム」「フューリー」「イングロリアス・バスターズ」などなどがあるが、どれもそこで出てくるドイツ軍は完全な悪役だ。

例外として「ヒトラー~最後の12日間~」などは、悪役のヒトラーらの死ぬまでの姿が描かれている。そこでは、ヒトラー以外のヒトラーの部下が次々に自殺していく姿が描かれている。女性も子供も自殺していく様子が描かれている。

ナチス・ドイツは、共産党を嫌い、独裁体制を築き、ユダヤ人虐殺を行った、とても悪い体制だ。人々の自由と正義が奪われ、独裁者の意向が重視され、国民はヒトラーに狂喜して、ユダヤ人を強制収容所に送りガス室で殺す。これが悪でなくて何であろう。

この「無防備都市」では、ドイツに占領されたイタリアでのレジスタンスの活躍がみられる。レジスタンスとは独裁的な政府に反抗して戦う人たちのことだ。レジスタンスはゲシュタポの追跡を逃れて、ナチス・ドイツに対する抵抗運動をする。

抵抗運動と言ってもデモをするのではない。実際に銃器を持ってナチス・ドイツに立ち向かうのだ。この映画の中でもイタリア人の少年たちが爆弾を仕掛けて爆破させる様子が描かれる。少年たちもレジスタンスの一員だ。

女たちは、レジスタンスをかくまい、レジスタンスの抵抗運動を支えている。少女が言う。「女だって戦える」と。レジスタンスの抵抗運動は成人男性だけで行われていたのではないのだ。

この映画は笑いもあるし、恋愛もある、ただ戦争の残虐さを描いただけの映画ではない。戦争を乗り越えるには、笑いも、愛も必要だ。ただ時として不完全な愛は決定的な間違いを犯すことがあるとこの映画では描かれるが。

映画のラストピエトロ神父は言う。「神よ。ナチスの人たちを許したまえ」と。憎悪は憎悪しか生まない。愛も憎悪に犯された時に不完全な愛になる。人は間違う生き物かもしれない。しかし、人は反省することもできるのだ。それを第二次世界大戦後のドイツは証明しているのではないだろうか?

金が仕事で手に入らない立場である女性

映画「太陽はひとりぼっち(題:イタリア語:L’eclisse/英語:The Eclipse)」を観た。

この映画は1962年のイタリア・フランス合作映画で、映画のジャンルは恋愛・ドラマ映画だ。

この映画の主人公は、ヴィットリアという女性だ。ヴィットリアは若く、付き合っていた男性や、言い寄って来る男性は金持ちだが、実はヴィットリアは金が嫌いな女性だ。

ヴィットリアの母は、株の売り買いで生活を成り立たせている女性だ。ある時(映画の中盤あたりだが)、株価が暴落するという事件が起こる。ヨーロッパの株が暴落するのだ。

ヴィットリアの母は、株の暴落に激怒し落胆する。ヴィットリアの母は、株の暴落は政府の陰謀だとか、共産主義者のせいだとか言い立てて、株式市場で右往左往している。ヴィットリアの母は株を売り買いしている出資者で、その実際の運用は証券会社が行っている。

その証券会社に勤めている男が、ヴィットリアに言い寄って来る男ピエロだ。ピエロは、自信満々で、女性に対して高慢な態度で、要は顔はいいが、性格は最低な男だ。

ヴィットリアは金持ちが嫌いだ。だが、ヴィットリアは金持ちと付き合う。なぜか?それは以前のヴィットリアが母と似ていたからであり、ヴィットリアの母が金持ちを好むからだ。

ヴィットリアはリカルドという男と付き合っているが、映画の冒頭でいきなり別れ話をしている。理由は、ヴィットリアはお金持ちの高慢な態度に耐えられないからだ。

すべてを自分の思い通りに進めようとする金持ちの態度がヴィットリアは嫌いなのだ。

お金持ちの高慢な態度を示す例が、ピエロとその振られる恋人の間の関係でわかる。ピエロの勤め先の証券会社の入っているビルの下に女性がやってきたと、ピエロは会社を後にする。

ピエロはその女性に対して言う。「また髪を染めたのか?」「これは私の地毛よ」「前は金髪だったじゃないか」「あれは染めていたの」「金髪の方がよかった」。ピエロは女性に表面上は優しくするが、実は冷淡で冷たい。

路上で生地を売っている路上の商売人が映画に登場する。ヴィットリアはその男性に優しく声をかける。笑顔で。その路上の男性は明らかに、ピエロとは違って、育ちの良いボンボンではない。ヴィットリアは、ピエロに購入を促すが、ヴィットリアの要求をピエロは軽くあしらう。「それ持ってるからいらない」と。

ヴィットリアがリカルドと付き合ったのは、昔はヴィットリアは、ヴィットリアの母と同じように、金持ちが好きだったからだ。しかし、何年もリカルドと付き合ううちに、金持ちの横柄な態度に嫌気がさしてきたのだろう。「昔の私はあなたのことが好きだった」と、リカルドに対してヴィットリアは言う。

そして、ヴィットリアはなぜピエロに対して、拒絶の意向を現わしながら、リカルドの要求に時折答えるのか?それは簡単だ。ピエロはヴィットリアの母の利用している証券会社の人間だからだ。ヴィットリアは母のために、ピエロの要求を呑んでいるのだ。

映画のラスト、2人の待合の場所が映し出される。しかし、そこにヴィットリアの姿はない。ピエロの姿も。ヴィットリアは、金持ちの高慢さに見切りをつけたのかもしれない。ピエロは相変わらず女性に対して横柄なのだろう。ヴィットリアが金に関係なく、交際相手を選択できる日は、やってくるのだろうか?

性愛の解放

映画「シティハンター THE MOVIE 史上最香のミッション(原題:Nicky Larson et le Parfum de Cupidon)」を観た。

この映画は2019年のフランス映画で、映画のジャンルはアクション・コメディだ。

この映画は日本の少年雑誌週刊少年ジャンプ」に掲載されていた、漫画「シティハンター」を原作として作られた映画だ。漫画は1985年から1991年まで続いた、大ヒット漫画で、漫画を原作としたアニメも作られている。

この映画の主要な登場人物は、主人公の冴羽獠(さえば りょう)、ヒロインの槇村香、冴羽獠の友人の槇村秀幸、冴羽獠のライバルの海坊主、冴羽獠の知り合いの刑事野上冴子などだ。ちなみにフランス版のこのシティハンターの場合、キャラクターの名前はフランス名に変更されていて、映画の原題にあるNickyと冴羽獠のことだ。

冴羽獠は、理由あって殺された刑事の友人の妹の槇村香と、始末屋の仕事を請け負っている。いわば闇の世界の住人だ。なぜなら始末人とは、殺し屋のことだからだ。

ある時、冴羽獠と槇村香のもとに、仕事が舞い込んでくる。仕事の依頼のXYZが伝言板に書き込まれていたのだ。仕事の依頼主の名前はドミニク・ルテリエ。初老の老人男性だ。

ドミニクは父が開発した、惚れる香水、惚れ薬である「キューピットの香水」を、香水を悪用しようとするテロリストのような集団から守って欲しいと、冴羽獠に依頼をする。その依頼に懐疑的だった冴羽獠だが、成り行き上その香水を追う羽目になる。

なぜならその香水は冴羽獠の目の前で奪われたからだ。冴羽獠のそんなもの狙うものがいるのかという疑問はここで疑えないものになる。

この映画は、性愛の先進国であるフランスで作られた映画だ。性愛の先進国とは、筆者が勝手につけた言葉だが、フランスは性に対して解放的だと言われている。日本も性愛に対して解放的な国だと言われている。しかし、その日本人もフランスの性愛は進んでいるというイメージを小説などから持って要るのではないだろうか?

フランスの小説家、ミシェル・ウエルベックには、例えば「セロトニン」というような小説がある。その主人公は多国籍企業に勤めていた会社員なのだが、小説の前半では、その主人公の女性遍歴が書かれている。その内容は具体的には書かないが、男女で愛を守るといったイメージではなく、性愛の解放のためにスワッピングまでする、という性に対して解放的で、挑発的な内容が見て取ることができる。

そのフランスの小説で描かれているような性愛が、アメリカの文化圏の性愛の影響を受けている日本では挑発的なものとして映るように、このシティハンターのフランス映画版は、性的に刺激的なものとなっているかもしれない。

性的に刺激的とは、性的なタブーに触れるという意味だ。義理の息子に発情する嫁の母親や、臀部の永久脱毛をしようとする役人、裸で弓矢がお尻に刺さっている精神科医など、性的な描写には事欠かないというのがこの映画だ。

もちろん女性のセクシーな体のラインについての描写もあるが、今時の映画と思わせる同性愛的な描写、つまりホモセクシャルな描写もこの映画ではふんだんに見られ、そこがこの映画の現代的な部分といえるのかもしれない。

性愛の解放を示す映画の一つとしてこの映画を観てみるのは悪くないのではないだろうか?