愛と笑い

映画「無防備都市(原題: Roma città aperta)」を観た。

この映画は1945年のイタリア映画で、映画のジャンルは戦争映画だ。

この映画の背景は第二次世界大戦だ。場所はイタリア。イタリアは、ドイツと共に、連合国と対立していた。しかし、イタリアは連合国に降伏する。降伏した後、イタリアは連合国の統治下に入らずにドイツの支配下に置かれることになる。そのため、自由と正義の連合国側と、ヒトラー率いる独裁国のドイツの戦いがイタリアでも起きる。

この映画の主要人物は、マンフレディ名乗る技師と、ピエトロ神父、そしてフランチェスコ、フランチェスコの婚約者ピナとその子供のマルチェロだ。

第二次世界大戦を描いた映画は数多くありる。ざっと挙げると、「ウィンストン・チャーチル」「サウルの息子」「フューリー」「シンドラーのリスト」「ライフ・イズ・ビューティフル」「イミテーション・ゲーム」「大脱走」「キャプテン・アメリカ/ファースト・アヴェンジャー」「カサブランカ」「この世界の片隅に」「硫黄島からの手紙」「史上最大の作戦」「ヒトラー~最後の12日間」「ワルキューレ」「イングロリアス・バスターズ」などが挙げられるが、まだまだある。

第二次世界大戦を描くと、だいたいの西欧圏内の映画が、悪の枢軸国である日本、ドイツ、イタリアと正義の連合国側の戦争を描くのではないだろうか?例えば「この世界の片隅に」では悪役である日本の側からの第二次世界大戦が描かれるわけだが、この時の視線は明らかに悪の枢軸国の一員であった日本側からの視線で描かれている。

詳しくは映画を是非観て欲しいのだが、被爆国と原爆を落としたアメリカという悪役という形で第二次世界大戦が描かれている。日本人とすると当然の視線かもしれないが、世界的な映画の傾向をみると実はその視線は珍しいものではないかと思われる。しかし、映画は決して日本軍を美化したものではない。

さて先に挙げた映画でヒトラー率いるナチス・ドイツとの戦いを描いたものは、例えば「ウィンストン・チャーチル」や「イミテーション・ゲーム」「フューリー」「イングロリアス・バスターズ」などなどがあるが、どれもそこで出てくるドイツ軍は完全な悪役だ。

例外として「ヒトラー~最後の12日間~」などは、悪役のヒトラーらの死ぬまでの姿が描かれている。そこでは、ヒトラー以外のヒトラーの部下が次々に自殺していく姿が描かれている。女性も子供も自殺していく様子が描かれている。

ナチス・ドイツは、共産党を嫌い、独裁体制を築き、ユダヤ人虐殺を行った、とても悪い体制だ。人々の自由と正義が奪われ、独裁者の意向が重視され、国民はヒトラーに狂喜して、ユダヤ人を強制収容所に送りガス室で殺す。これが悪でなくて何であろう。

この「無防備都市」では、ドイツに占領されたイタリアでのレジスタンスの活躍がみられる。レジスタンスとは独裁的な政府に反抗して戦う人たちのことだ。レジスタンスはゲシュタポの追跡を逃れて、ナチス・ドイツに対する抵抗運動をする。

抵抗運動と言ってもデモをするのではない。実際に銃器を持ってナチス・ドイツに立ち向かうのだ。この映画の中でもイタリア人の少年たちが爆弾を仕掛けて爆破させる様子が描かれる。少年たちもレジスタンスの一員だ。

女たちは、レジスタンスをかくまい、レジスタンスの抵抗運動を支えている。少女が言う。「女だって戦える」と。レジスタンスの抵抗運動は成人男性だけで行われていたのではないのだ。

この映画は笑いもあるし、恋愛もある、ただ戦争の残虐さを描いただけの映画ではない。戦争を乗り越えるには、笑いも、愛も必要だ。ただ時として不完全な愛は決定的な間違いを犯すことがあるとこの映画では描かれるが。

映画のラストピエトロ神父は言う。「神よ。ナチスの人たちを許したまえ」と。憎悪は憎悪しか生まない。愛も憎悪に犯された時に不完全な愛になる。人は間違う生き物かもしれない。しかし、人は反省することもできるのだ。それを第二次世界大戦後のドイツは証明しているのではないだろうか?