出会い

映画「會議は踊る(原題: Der Kongreß tanzt)」を観た。

この映画は1931年のドイツ映画で、映画のジャンルは恋愛映画だ。

この映画の時代背景は、1814年のウィーン会議だ。この映画のタイトルにもある「會議は踊る」とは、フランス語の言葉からきている。この言葉を吐いたのは、ハプスブルグ帝国・オーストリア帝国の元帥であり、著名な著述家でもあったシャルル・ジョセフだ。

このシャルルの言葉は、「会議は舞踏会ばかりで、先に進まない」という言葉だったようだ。フランス革命が起こり、フランスからヨーロッパに混乱が広がり、フランスにその混乱を治めるためにナポレオンの軍事独裁政権が誕生した時代背景がある。

フランス革命とは、ブルジョワジーつまり貴族が革命を国王に対して起こしたのが始まりだったが、そこに既存の体制に不満を持つ人びとがなだれ込んで、例えば貧民が反革命である人たちを処刑するという事態にまでなってしまっていた。

清貧のはずの貧民が、人を処刑する事態になっていた。そ辺りのことをエドマンド・バークが、「フランス革命省察」という本に書き記している。そこでバークは、混乱を引き起こした革命側を責めているのだが、詳しくは本を読んで欲しい。

王家よりは清貧で、人をむやみに、王のように殺すはずのないと思われていた、貴族や貧民が、王のように人をとらえて殺し始めた。この事実に革新派への懐疑を持ったのがバークという人だったのだ。

この映画の舞台になっているウィーン会議では、当時のこうした混乱が、統治権力の政治からの逃避という形で現れている。王として支配すれば、民衆に殺されるかもしれない。かといって今の状況も捨てがたい。このような曖昧な態度がこの会議の背景にあるのかもしれない。

この映画ではウィーンに会議をしに、各地の統治者が集まってくる様子が描かれる。そしてこの映画のメインとなるのは、ウィーンにやってきたロシアの皇帝アレクサンダーと、ウィーンの手袋やの売り子の娘クリステルとのじゃれあいだ。

この2人そもそも身分が違うというのが一般的な見方かもしれない。片や皇帝。片や庶民。身分の差がはなはだしい。映画を観る人にそう思う人もいるのかもしれない。しかし、この映画のポイントは庶民と支配階級の出会いだ。

フランスではフランス革命が起こって、庶民が王家を殺している。つまりフランスではこの2つの階級は対立している。それが、とあるヨーロッパの地方の実情なのだ。それに対して、皇帝と庶民が恋愛もどきをする、それがこの映画だ。

映画を観る者にそれが、階級差の滑稽さを描いているようにも見えるかもしれない。アレクサンダーの影武者の人物描写は明らかに帝政をおちょくっているように見える。しかし、一方でこの2つの階級の対立を融和するのが、男女の関係として、この映画では描かれている。

恋の免疫

映画「嘆きの天使(原題:Der blaue Engel)」を観た。

この映画は1930年のドイツ映画で、映画のジャンルは恋愛ものだ。

この映画の主人公は、ラートという名前の初老の男性だ。ラートは教授の職に就いている、いわば世間的には名誉ある職にある男性だ。教授の職にあることで、ラートが受けいている恩恵は多い。

自宅には使用人がいて、身の回りの世話をしてくれる。食事も掃除も洗濯もみんな自分ですることはない。ラートは自分の仕事の事だけを考えていることができる。専門的な職業に就く人にとってはある種この上ない環境かもしれない。

ある種と書いたが、この環境は実はラートにとっては好ましくない面もあった。それはラートは学問の道に一筋で恋に対する免疫がなかったということだ。専門的な職にとって好ましい環境の負の側面だ。

ラートは今のインターネットの環境のように見たいものだけ見るという世界に住んでいたはずだった。自分の選択した専門の分野の道をひたすらに進んでいく。それだけでラートは満たされているはずだった。

しかし、そんなラートにも学問以外に夢中になれることが存在した。それは恋だった。ラートは旅芸人で売春もしている職業団体の花形女優のローラに一目ぼれする。ラートが最初に見たローラはプロマイドの写真の彼女だ。

ラートの学生たちが持っていた、いわゆるエッチな写真を取り上げたまでは、教授としての面目を立てたつもりだったが、その写真に自分がはまってしまったのだ。生徒からエロ本を取り上げて読んでいる先生みたいなものか?

ラートは恋に落ちて、仕事を離れることになる。学校の校長がラートを首にするのだ。なぜなら、ラートは売春婦と結婚しようとしているのだから。教員のような古風なしきたりを重んじる世界では、売春婦との結婚はタブーだった。

ラートは、教授の仕事を、学校によって、もしくは世間体によって奪われる。ラートから仕事を奪ったのはローラではないか?という人もいるかもしれない。しかし、それは違うだろう。ローラはラートから何も奪ってはいない。

恋は、体が、脳が反応して生じるものだ。それは偶然で、罠を仕掛けたとしてもそこまで簡単に人は恋に落ちない。確かに美人は恋多き人生になる可能性が高いのかもしれない。ただ彼女に恋に落ちるのは、彼女のコントロールの下にはない。

いやローラはラートを操っているという人もいるかもしれない。それならこう考えてみても欲しい。なぜ人は自分の嫌いな人からも好かれてしまうのか?狙った獲物だけ落とせるような能力は誰にもあるものではない。

人は好むと好まざると人に好かれてしまう。それには偶然性が付きまとい、そう簡単に責任の所在を問えるものではない。ただここで悲劇的なのは、ラートが仕事を奪われてしまったことだ。

ラートは旅芸人の仕事には教授の仕事ほどには重要な意味を見出すことができなかった。だからラートは仕事に夢中になることはできない。ラートのこの映画での悲劇は、仕事への意欲をかきたてる動機を失ってしまったことだろう。

共感の範囲を常に拡大し続ける

映画「三文オペラ(原題:Die Dreigroschenopr)」を観た。

この映画は1931年のドイツ映画で、映画のジャンルはミュージカルだ。

この映画はブレヒトの戯曲をもとにして作られている。そのブレヒトの戯曲の題名も三文オペラという。

この映画には、主に三つの集団が登場する。一つは、メッキ―という男が取り仕切る泥棒軍団。もう一つは、メッキ―と仲の良い警視庁の署長のティガー・ブラウンが取り仕切る警察。そしてもう一つは、メッキ―と結婚するポリーの父が取り仕切る乞食の団体であるピーチャム商会。以上三つがこの映画に主に登場する集団だ。

この映画の特異な点は、社会のつまはじきものたちがスクリーンを占めることだ。特にその中でも、障碍者がこの映画の中では描かれている。障碍者が描かれるのは、映画の世界では珍しいというか、あまり試みられないことだ。

この映画に登場する障碍者は、足がない身体障碍者。どもってうまく話すことができない精神障碍者であり、知的障碍者でもあるような人物などだ。後は老人や女性が、乞食の集団の中にみることができる。

特に、映画の中でどもる人物というのは印象残る。なぜなら、映画にとってセリフは重要な要素の一つだからだ。人物が何をしゃべっているのかわからないならば、それは映画が少しクラッシュしてしまった状態であるともいえるだろう。

実際にこの映画を観ていて、どもる人物は特に印象に残る。なぜならセリフに集中して聞いていた視聴者が急にそれまでとは違ったものに出会うからだ。そこで視聴者は映画に何か不自由なものが入り込んできたと思うだろう。

映画の主人公はメッキ―という女たらしの泥棒のリーダーで、メッキ―が恋をするのがポリーという乞食の集団のピーチャム商会のボスの娘で、メッキ―と仲が良いのがブラウンという署長だ。

警察は表立っては正義の象徴であり、泥棒と仲良くすることなどないように思える。しかし、この映画では警察のブラウンはメッキ―の戦友として登場する。そして、悪党に対して優しいのがブラウンだ。

警察が悪党に優しい?何て素晴らしいことではないか!!誰もが悪党に進んでなるわけではないことを警察が十分に知っているということではないのか?社会の枠組みから零れ落ちる人をすくいきれない時に、社会のはぐれ物は登場する。

どうしても社会から零れ落ちてしまう人たちを救い出すことはできないかもしれないが、せめてその人たちへの共感を忘れないようにしよう。そのような態度がこのブラウンという署長にはあるのだ。それは戦争によってもたらされたとしても。

社会からアウトしてしまう存在。それを包摂する人たち。豪華な馬車に乗ったきれいなお嬢様が目を丸くして、乞食の集団を見つめるとき、そこには軽薄な差別の意図がにじみだしていないだろうか?

この映画「三文オペラ」が素晴らしい点は、社会から零れ落ちた存在に焦点をあてて、彼ら彼女らが、生き抜いている姿勢を、歩く乞食というデモ集団でそれを表現しているところではないのか?そこでは乞食がこの映画の主人公になる。

戦争の残酷

映画「娘は戦場で生まれた(原題:For Sama)」を観た。

この映画は2019年のイギリス映画で、映画のジャンルはドキュメンタリー映画だ。

この映画の舞台はシリアの東アレッポだ。この映画の主人公は、ドキュメンタリーを撮影している女性ワアドだ。ワアドには夫がいる、夫は医師のハムザという男性だ。そして、2人の間にはサマとタイマという子供がいる。

この映画では2012年の頃のシリアのアレッポの民衆蜂起から、シリア軍がアレッポを包囲して攻撃を始めてそこから主人公たちが抜け出すまでの期間をとらえた映画だ。この映画の撮影期間は5年間ほどだ。

シリアではアサド家の独裁が続いていて、それに市民は嫌気がさしていた。政府は腐敗し、不正が行われ、民衆を抑圧していた。そんな中、民衆の怒りが頂点に達して、民衆蜂起がおこった。

それに対して独裁政権のアサドは、武力で答えた。アサドは、シリアのアレッポという街を包囲して、攻撃を始めたのだ。攻撃はヘリコプターから落とされる爆弾や、ロシア軍の戦闘機からの空爆という形で行われた。

映画中に、監督であり撮影もしているワアドが女の子に質問をしていると、その女の子はクラスター爆弾という。まだ10代にもなっていないような幼い少女が、爆弾の名称をはっきりと述べるシーンに映画を観る者は寒気を感じるはずだ。

監督であるワアドは言う。「娘(サマ)が爆弾の音を聞いても何も反応しないのが悲しい」と。子供にとっては生まれてきてまだ世界の全体が見えているわけではない。子供にとっての世界は狭い。その狭い日常に爆弾が通常のものとして入り込んでいる。

この映画はイギリスの映画会社の下で完成をしている。そして空爆をするのはロシアの戦闘機だ。そう、この世界は西側と東側という対立構造を未だひきずっている。それが違うとしたらなぜ彼女の映画をイギリスが支援したのか?冷戦構造の名残りがみられるのでは?

世界を対局で見ると未だに冷戦時の構造が有効であるかのように見える。イギリス、アメリカ、フランスといった先進国の西側のリーダーたちと、ロシア、中国といった東側のリーダーたち。

世界は後進国の背景に未だに西側と東側の対立をひきずっている。まだ戦争は終わっていない。シリアにみられるように西側と東側の対立、言い換えれば、民主主義と独裁体制の戦いは続いている。

そして民主主義の中での戦いも今なお続いている。例えば大統領選挙で国が2分されるアメリカにみられるように。

この映画で描かれているのは地獄というにふさわしい映像だ。血が流れ多くの人たちがハムザの働く病院で死んでいく。その映像のリアルさにただ映画を観る者は圧倒されるのも事実だ。

人はなぜ戦うのか?土地のために戦うのか?人のために戦うのか?それとも妥協して生きていくのか?それとも妥協の限界点を越えてしまったのか?そんなことがこの映画を観ていると頭によぎる。ただ中道が戦争を回避する方法なのだろうか?疑問は多く募る。そして、戦争は良くないことだ。

親の子への嫉妬

映画「にんじん(原題:Poil de carotte)」を観た。

この映画は1932年のフランス映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画は、ジュール・ルナールの同名小説を原作にした映画だ。

この映画の主人公はタイトルにあるにんじんというあだ名を持った少年だ。にんじんの本名は映画のラストの重要な起点として使われる。にんじんの本名はその時明らかになる。にんじんの本名はフランソワという。

この映画では、フランソワには兄と姉いる。兄はフェリックスといい、姉はエルネスチヌという。フランソワは家族や地域の人たちからにんじんと呼ばれているが、それと同様にフランソワは自分の父と母のことを、苗字で呼ぶ。

フランソワは自分の父のことを、ルピックさんと呼び、母親のことをルピック夫人と呼ぶ。にんじんとはフランソワの母親がつけたあだ名だ。母親はフランソワのことをにんじんのように赤くて汚らしい子としてにんじんと呼んでいる。

学校でフランソワは父親と母親について質問をされると、父親のことをルピックさん、母親のことをルピック夫人と呼ぶ。フランソワの母がにんじんとフランソワを名付けたようにそこには愛情が欠如している。

この映画ではフランソワが家族の誰からも相手にされずに、一人で孤立して、地域の人からも孤立して、とうとう自殺を図るに至るところから、父との関係の修復の過程までが描かれる。

フランソワは家族からも地域からも見放された存在だ。フランソワの相手をしてくれるのは、アネットという使用人と、フィリップというおじさん、そして幼い恋人のマチルドだ。そして実はフランソワと同様に孤立している人がいる。

それはフランソワのことを苛め抜く、フランソワの母親だ。フランソワの母親は、家族からも地域からも浮いている。母親はフランソワが周囲に受け入れられることが気に入らない。母親は子のフランソワに嫉妬する。

なぜか?それはフランソワが母親自身がなじむことのできない世間に受け入れられるからだ。母親にとっての世間はまずはフランソワの父だ。この映画の公開された当時は、父親とは世間とイコールで結ばれていた。

フランソワが父親に気に入られること。それは世間に受け入れられることだ。

ではなぜフランソワが世間に気に入られて、フランソワの母親は世間に気に入られないのか?それは母親の存在は、文字通り母としてしか世間に承認されないからだ。母親失格だったらそれは人間失格のことだ。

この映画でフランソワのように自殺してしまいたいのは、フランソワの母親もそうなのではないだろうか?

家では家族から相手にされず、近所づきあいも下手で、フランソワの母親は母親失格と自分でわかっている。自分は母親失格で世間から見放されている。それはフランソワがかわいい子供ではないからだ。母親はフランソワを憎む。

母親に向いていない人もいる。夫を子供を愛せない人がいる。しかし、それは母親や父親だけの責任ではない。親という理想像を生きることが不得意な人に、親という理想像を当てはめようとするすべての人に責任はあるのだ。

収入の機会を奪われても、それでも自己実現すること

映画「ミモザ館(原題:Pension Mimosas)」を観た。

この映画は1935年のフランス映画で、映画のジャンルは恋愛映画だ。

この映画の主要な登場人物は、ルイーズとガストンの夫婦と、その養子のピエール・ブラバンそしてピエールの恋人のネリーだ。ルイーズとガストンの夫婦はホテルを経営していてそのホテルの名をミモザ館という。

この映画の主要なテーマと思われるものは、お金と愛だ。ピエールはルイーズとガストンの夫婦同様にお金に強く惹かれている。そしてピエール以上にお金に惹かれているのはネリーだ。

ネリーはピエールと付き合う前は、ニエルという賭博場のロマーニというボスと付き合っていた。ネリーは賭博のボスと付き合っていてお金には不自由していなかった。そしてその後に付き合ったのがピエールだ。

ピエールは車のセールスをして生活を成り立たせているセールスマンだ。そんなピエールにはネリーを満足させるだけのお金がない。だからピエールは賭博に通い、その資金をルイーズとガストンにねだる。

ピエールが映画中お金を欲しがるのはすべてネリーのためだ。そしてネリーはこう主張する女性だ。「私は自立した女性になりたい。誰にも支配されたくないの」と。つまりネリーは自立が一番で、男はその次の女性だ。

そのネリーにピエールが求めているのは愛情だ。ピエールはその当時の男性の価値観を持って要る。つまり女性は一人の男に尽くすべきだという価値観だ。しかし、自立心の強いネリーに対してそれを無理強いすればネリーはピエールの元を離れていくだろう。

そんなピエールの姿を見ているのはルイーズだ。とにかくネリーはお金のかかる女性だ。彼女の欲しいものを欲しいまま買っていたら、このままではピエールにお金をねだられるルイーズの生活もままならなくなる。

生活するのにはお金がかかる。ネリーにお金を捻出する能力はない。ネリーは男性社会から拒絶されている女性の姿そのものなのかもしれない。就職という機会からはじかれて、ただ男性からの視線を気にする女性。そんな女性像。

結局女性の浪費を生み出しているのは男性だ。女性にとって自由になるのは浮気と買い物だけ。それが男性から搾取されている多くの女性の自由だ。男性のように社会的地位は職場にはない。職場にあるのは性差別だ。

慎ましくて、穏やかで、愛情あふれる女性を思い描くすべての人にとってこの映画のネリーは悪女のように映るのかもしれない。しかし、それは女性にとってはただの重苦しい押し付けでしかないこともある。

ルイーズはホテルを仕切る女性だ。ホテルとはこの場合家庭で、宿泊客とはこの場合家族だ。ルイーズはこの映画では一応母の代名詞のような女性だ。しかし、ルイーズは放蕩するネリーに対して甘い。

なぜなら、ルイーズは誰にとっても理想的な母であろうとするためであり、ルイーズ自身が昔はネリーのような自立した女性になろうとしていたからだろう。

ルイーズはピエールを母のように愛して、映画のクライマックスには、ネリーの代役まで務めることになる。ピエールは実の母ではない母に依存していた。それはルイーズの子供が持てなかった強い世間から負わされた罪の意識からの愛情かもしれない。

女性に社会から与えられる役割。それは非常に締め付けのきついものだし、なかなか逃れられるものではないのかもしれない。しかし、その役割を作り出しているのは一人一人の態度や意識だ。よってそれは変革可能なものだ。

男が女性に求めるもの

映画「巴里の屋根の下(原題:Sous les toits de Paris)」を観た。

この映画は1930年のフランス映画で、映画のジャンルは恋愛ドラマ映画だ。

この映画の舞台はフランスで、この映画の主人公はアルベールという男性だ。

アルベールはフランスのパリの街角で、楽譜を売っている男性だ。楽譜を売るのには曲を知ってもらう必要があるが、アルベールは街頭で楽譜の曲を歌い、その曲の載っている楽譜を売っている。要はアルベールは、楽譜に載っている曲を歌っている。

アルベールは、酒場で友達と一緒に酒を飲んで煙草を吸っている。酒場には、当然女性もいる。酒場は、出会いの場になっている。アルベールは酒場で、ポーラというルーマニア出身の女性に出会う。

ポーラは、当時の女性の立場を現わしているかのような女性だ。経済的に自立しておらず、強引に男性に従わさられて、恋愛にしか自由がないと見えるが、実は恋愛すらも強い男の力の支配下にある。ポーラは虐げられた女性の姿だ。

アルベールは、ポーラにとって特別な男性か? 答えは否だ。ポーラにとってアルベールは、その他の男と変わりない。女性に性的充足を求めて、女性を男性の性的支配下に置こうとする、アルベールはそのような男の、優男版でしかない。

ポーラはフレッドというチンピラの女で、フレッドの支配下から逃れたいと思っている。ポーラはフレッドのことが嫌でも離れられず、しまいにはポーラは自分の部屋の鍵をフレッドに取り上げられてしまう。

そんなポーラに、自分の部屋にいてもいいと言うのがアルベールだ。ポーラを最初に部屋に招いたアルベールは、ポーラにセックスを期待する。しかし、アルベールはポーラに拒絶される。アルベールはフレッドと変わらない、一男だ。

ポーラに言わせてみれば、男なんてどれも似たようなものなのかもしれない。しかし、自分は男性が好きだし、男性はその気にさせれば何でも言うことを聞く。ポーラにとって男性は、生活に欠かせない、できれば支配下に置かれたくない生物なのだろう。

ポーラは、アルベールの友達のルイと映画のクライマックスで結ばれることになる。アルベールは、ポーラにとっての優しい男であったのかもしれない。なぜならアルベールは、ポーラに対して他の男性ほど多くは求めないからだ。

自分に対して多くを求めない男を、女性はどう思っているのだろうか? それは時として、そのままでいいと思うのが女性の本音だろう。面倒になる前に別れてしまった方が、お互いにいい思い出にできるという場合だ。

ポーラは、気の多い女性だろうか? そうなのかもしれない。しかし、ポーラを気の多い女性として片づけてしまうのは、現実を観たくない男性の家父長制的理想像にとって都合のいいだけだ。一途以外は、すべて異常。

男性のそんな家父長制的押し付けに、あらがっていくことに、ある程度の意味はあるのかもしれない。家父長制が、女性の社会的自立を妨げているのならば。家父長制は、乗り越えられるべきものなのだ。