対立は、避けられないのか?

映画「ハーヴェイ・ミルク(原題:The Times of Harvey Milk)」を観た。

この映画は1984年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画の主人公は、ハーヴェイ・ミルクというゲイの男性だ。この映画の舞台は主にサンフランシスコだ。ミルクは、ニューヨークのロングアイランドのウッドメアで育ち、ウォール街証券アナリストになり、前衛劇団を世話し、ブロードウェイの芝居製作の仕事をして、反戦デモに加わり、クレジット・カード焼いて、サンフランシスコに移り住んだ。

ミルクが自分がゲイだと自覚したのは、14歳の時だ。ニューヨークに住んでいる時から自分を、ゲイだと認めていた。そして、ニューヨークから、サンフランシスコのカストロ通りで恋人のスコットとカメラ店を経営した。

ミルクは、サンフランシスコの市政執行委員に立候補し、落選もしたが、その後当選した。そして、そこで、ミルクは市民のために街の改革を行う。黒人やゲイや中国系などの少数派の意見も汲むことを、ミルクは行った。

ミルクが活躍したのは、1970年代のサンフランシスコだ。その当時のサンフランシスコは、他のアメリカの土地と比べてリベラルだった。しかし、そのサンフランシスコでも、ゲイに対する風当たりは強いものだった。

1977年から1978年にかけて、アメリカ全土ではゲイ権利法が廃止されていた。その流れを汲んだ出来事が、サンフランシスコでも起こった。それは共和党の極右のジョン・ブリッジズによる、ゲイの教師を学校から排除しようとする動きだ。

ブリッジズはオレンジ郡の極右の共和党員で、カルフォルニア州知事になる野望を持っていた。そのブリッジズが出したのが、カルフォルニアの提案6と呼ばれるもので、学校でゲイとレズビアンの教師を働けなくするというものだった。

ブリッジズの主張では、ゲイは子供に対していたずらをするから、ゲイとレズビアンを教師にはしてはいけないというものだった。しかし、この主張は根拠のないもので、実際子供にいたずらをしているのは、ほとんどがヘテロセクシャルの男性だった。

この第6法案に反対したのは、ミルクたちだけではなかった。後に、大統領になってゲイをエイズから守らずにゲイを見捨てた、元州知事ロナルド・レーガンも、この第6法案には反対をした。

レーガンはロサンゼルス・ヘラルド‐エグザミナーで、第6法案を否定してこう言っている。

“それ(第6法案)が何であろうとも、ホモセクシャリティは麻疹のような人に移りやすい病気ではない。広く受け入れられている科学的な意見では、個々のセクシャリティは、非常に早い時期に確立されて、それ(個々のセクシャリティが早い時期に確立されるのこと)によれば、子供の教師はこれ(個々の子供のセクシャリティ)に実際の影響は与えない。”(1)

その当時大統領だったジミー・カーターも、カーターの前任者だったジェラルド・フォードも、この第6法案には、反対している。そして、その結果第6法案は、賛成41.57%、反対58.43%で否決されて、ゲイやレズビアンの教師の職は守られた。

この映画で他にも焦点が当たるのが、ダン・ホワイト委員によるハーヴェイ・ミルクの殺人だ。ダン・ホワイトは、市長であったマスコーニと、ミルクを、サンフランシスコの市庁舎で射殺している。

この映画では、ダン・ホワイトがどのような人物であったがが、描かれる。そこでは、ホワイトが、保守的な考え方に固まっている人だったわかる。そして、その保守的な考え方とは、街の安全を守りたいというもので、そこにゲイは不自然で風紀上良くないという意見が入り込む。

ホワイトも街を良くしたいと思って行動をしている。ただその考え方には、ゲイは街を悪くする存在だという思考がある。つまり、思考が硬直して、ゲイの人を客観的にとらえることができていない。

「ゲイの人は人前で裸を晒す。だから、ゲイの人たちは風紀上好ましくない。」と。生まれたての人間は裸だ。それは風紀上好ましくないのか? 人間の祖先も服は着ていなかった。文明が発達したから、裸は社会にそぐわぬものとなった。

裸を恥とする文化が、栄えるようになった。裸の何がいけないのか? それは禁欲的なキリスト教徒の性欲を刺激するからだろうか? キリスト教の規範に、社会を合わせる? なんと狭い世界観ではないか。裸は人を殺さない。だって、裸だから銃を持っていない。

ホワイトは、事件の捜査でこう述べる。「生活とプレッシャーに押しつぶされそうだったんだ」と。ホワイトの感じている不安とは何か? それは現代人誰もが抱えている不安なのかもしれないし、キリスト教徒が持つ規範がホワイトを押しつぶしたのか?

ホワイトは、ローマン・カソリックだ。つまり、ホワイトはキリスト教徒だ。ただ、すべてのキリスト教徒が、ホワイトのようにゲイに反対しているわけではない。ホワイトは、キリスト教徒の一部を構成している。

ホワイトは生活のために委員をしていた。それは他の委員と同じかもしれない。そしてホワイトは、委員の生活に馴染むことができていなかった。それにより、ホワイトは不満を募らせたためか、自ら委員を辞任している。

そして、委員を辞任した後に、また復帰したいと、市長に申し出て断られて、それで、銃で市長とミルクを銃殺している。「カッとした」というのが、ホワイトの言い分だ。そこには、ゲイに対する憎しみと、職場に対する憎しみがあったのかもしれない。

市長のジョージ・マスコーニを殺したのは、職場に対する不満から。ゲイの委員のハーヴェイ・ミルクを殺したのは、ゲイに対する不満から。ホワイトの殺人は、自分が持つ社会の理想に適応したいのに、適応できない苦しみが暴発したものだとも考えられる。

ただ、不満が募り募って人を殺せば、当然罪に問われる。労働運動でミルクと関わった、ジム・エリオットは言う。「マスコーニだけが殺されていたら、ミルクが一緒に殺された場合よりも刑は重くなっただろう」と。

黒人とゲイの命は軽く見られる。それがその当時の社会だった。そして、今も、ゲイに対する差別は続いているし、ブラック・ライブス・マターの問題も起きている。黒人の命はあまりにも軽くとらえられている。

この映画を観ると、人というものが、規範に凝り固まり、そこで対立が生じてしまうことがわかる。そして、その対立は時には避けられないものになる。なぜなら、獲得されなければならない権利は存在するからだ。

 

 

1.

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