現実をみつめる

映画「泳ぐひと(原題:Swimmer)」を観た。

この映画は1968年のアメリカ映画で、映画のジャンルは悲劇ドラマだ。

この映画の主人公は、ネッド・メリルという中年の男性だ。この映画の舞台は、ニューヨークの郊外だと思われる。

この映画には、小説の原作がある。その小説は、ジョン・チーバーというアメリカのショート・ストーリーと小説の作家で、チーバーは、時々、「郊外のチェーホフ」と呼ばれていた。チェーホフは、ロシアの脚本とショート・ストーリーの有名な作家だ。

この映画の原作になったのは、日本では「泳ぐ人」として出版されている、原題は「The Swimmer」という1964年の6月18日から雑誌ニュー・ヨーカーに登場した物語で、1966年に映画の脚本になった。

この映画「泳ぐひと」には、チーバーがカメオ出演している。映画に主人公のネッドの知人役で登場したチーバーは、ネッドに対して謝罪する。「君をあんな目に合わせて、ごめん」と、ネッドの知人役のチーバーは、主人公のネッドに対して、ネッドの近所の家のパーティーで言う。

なぜ、この映画「泳ぐひと」の原作の物語を書いたチーバーは、主人公のネッド(バート・ランカスター、映画「エルマー・ガントリー」でアカデミー賞ゴールデン・グローブ賞で主演男優賞をとっていて、アカデミー賞の主演男優賞に4回ノミネートされている)に対して、謝罪をしたのか?

それは、この映画「泳ぐひと」でバート・ランカスター演じるネッドは、とても酷い目に合うからだ。酷い目とは、簡単に言ってしまえば没落することだ。チーバーは、自分の書いた小説で、主人公を酷い目に合わせており、それを演じているバート・ランカスターに、酷い目に遭わすことを謝罪している。

この映画「泳ぐひと」の舞台は、ニュー・ヨークの郊外だ。アメリカの都心部には貧しい人が住み、郊外にはお金持ちが住んでいる。アメリカの都心部の貧しい地域のことをスラムと呼ぶ。スラムのように、都市ができるとそこには貧民街、貧民窟ができる。アーバナイゼーション(都市化)と貧困は常に同時に存在する。

工業化により、農業ではなく、工場で製品が作られるようになると、地方の農業をやって暮らしていた人たちは、工場の従業員なるために都市の工場に吸い寄せられる。その際に、工場では雇いきれない人たちは、失業者となる。その失業者が住むのが、貧民街や貧民窟だ。

その都市でホワイト・カラーとして働き、電車でニュー・ヨークまで通勤しているのが、この映画「泳ぐひと」に登場してくる人たちだ。一方、ブルー・カラーのいわゆる肉体労働者たちは、都市部の安アパートで暮らしている。

この映画「泳ぐひと」では、郊外の上流階級の暮らしを垣間見ることができる。主人公のネッドも、この郊外の上流階級だった人間だ。しかし、今では、妻と娘と離れている。要は、ネッドは妻に捨てられている。

この映画は最初、郊外の豪邸のプールサイドから始まる。そこで、水泳パンツしか着ていないバート・ランカスター演じるネッドが、突然こう言い出す。

「この家から、僕の家まで泳いで行こう」と。もちろん、その家から自宅まで伸びる川や湖などそこには存在しない。ネッドは、こう言う。「この家から、隣接する家々のプールを泳いで自宅に辿り着くんだ」と。

ネッドはそのルートのことを「ルシンダ河」と呼ぶ。ルシンダとは離婚する前の妻の名で、目的地はネッドとルシンダが住んでいた、ネッドの家だ。ただ、ネッドの妻は、別の男とその家のプールサイドに立っている。つまり、ネッドとルシンダは離婚している。

ネッドは、何を言っているのか? そう、それは、ネッドが自分の身に起きたことを十分に理解できていないことを示している。ルシンダ河を泳ぐ家路への道とは、ネッドのそれまでの人生を辿る道となっている。

ネッドは、気がふれているのだろうか? 多分最初の時点では、そう取られても仕方ないかもしれない。ただ、ネッドは、ルシンダ河を泳ぎ切ることで、過去を受け入れて、自分の人生をその時、再認識することになる。

この映画は、自分が昔から住んでいる、近所の家々を渡ることになる。その家を渡る順が、ネッドの人生の時間的変遷になっている。つまり、若かった時期から、中年になるまでを、ネッドは辿るのだ。

その過程でまず最初にわかるのは、ネッドは、お金持ちで、女性からもモテたということだ。そして、ネッドは映画の最初の30分、つまりこの映画の最初の3分の1で、ジュリーという昔なじみの20歳の女性と会う。

ジュリーは、ネッドのことが好きだったようで、昔、ネッドの家からネッドのシャツを盗んでそれを着ていたと明かす。ジュリーは、ネッドのルシンダ河を渡る家路に付き合うことになる。ネッドが、ジュリーにキスをしようとするまでは。

ジュリーがネッドのもとを去る前には、ネッドが乗馬の競技用のバーを越えて着地の際に足を怪我するシーンがある。ネッドとジュリーは水着で、自然の中を走っている。ジュリーは、ネッドにとっては自分の若さの象徴だ。

ネッドとジュリーは、自然と一体化する。つまり、馬になって、(飼われてはいるが)自然の動物と同じような身体能力を誇示しよとする。しかし、最初は良かったが、ネッドはバーを飛び越えて足を怪我してしまう。そう、ネッドはもう若くないのだ。

ネッドは若くない。それが、ネッドに突きつけられる現実だ。それは、当時53歳くらいの、バート・ランカスター自身の現実でもある。そして、若さを失ったネッドに訪れるのは、財産の喪失と、借金で、愛人からも見捨てられる。

この映画は、没落の悲劇を描いた映画だ。ネッドは、多分行くところがなくて、再婚した妻のもとに住まわせてもらっているのだろう。そして、ネッドは精神的にダウンしている。つまり、神経衰弱とか精神病と呼ばれる状況に陥っている。

その心の病を治療するのが、患者が過去と向き合うことである、という考え方がある。ネッドは、映画中人生を追体験して、自分の過去と向き合う。そこで、ネッドは自分の人生と向き合い、ネッドは自分の心を癒すのだ。

ただ、この映画を観ていると、ネッドが自分の人生を振り返るその過程は、とても残酷なものだ。最初は金持ちでモテモテだったが、最後は知り合いに金を返せと迫られるようになる。それで、行きつくのがルシンダ河の到着点だ。

ヒーローの悲劇を描いたものには、ユリシーズや、ドン・キホーテハックルベリー・フィン、ザ・アドヴェンチャー・オブ・アウジー・マーチなどがある。この映画も、ヒーローの悲劇物語と考えることができる。