恋愛の暗黙の前提である男女間の経済格差

映画「ジョンとメリー(原題:John and Mary)」を観た。

この映画は1969年のアメリカ映画で、映画のジャンルは恋愛映画だ。

この映画の舞台は、多分アメリカの都市部で、あるアパートの一室を主として、映画は進行する。この映画の主人公は、この映画の最後のシーンで名前が明らかになる、ジョンとメリーだ。

この2人の恋の始まりを描いたのが、この「ジョンとメリー」だ。ジョンは男で、メリーは女。ヘテロセクシャルな恋愛を描いたのが、このジョンとメリーだ。つまりこの映画では、暗に男性と女性の経済格差が描かれてもいる。

男性と女性の経済格差が、わかるのは、ジョンは1人で暮らしているが、メリーはルームシェアをして女友達と暮らしているところだ。なぜ、メリーがルームシェアをしているかと言えば、金銭的な問題と、女の一人暮らしは危険だということだろう。

メリーがジョンに住んでいるところを説明するシーンがある。そこでメリーは、「一週間に1人(?)は人が(アパートの玄関で)死んでいるわ」と言う。それは、メリーの住んでいる地域が危険な地域だということだ。

メリーは、そのセリフを簡単に話すが、この状況は特に女性にとっては厳しいものだ。治安が悪い地域に住んでいるので、家賃は安いのかもしれないが、メリーはいつも身の危険を感じているだろう。

女、子供は、いつも暴力の被害者になる。その場合、加害者は成人男性だ。子供と老人を除いた、成人男性が、女、子供を痛めつける。それが、この世の中の暗黙の前提となっている。そして、メリーもこの前提から逃れることができない。

ここ最近(2022.12.31現在)、アメリカの都市ニュー・ヨークでは、アジア系女性が襲われて殺される事件が起こっている。アジア系女性に対するヘイト・クライムだと言われているが、女性が標的にされていることを考えると、女、子供はいつも暴力の被害者になるという暗黙の前提は、証明されていることになる。

この映画の時代背景は、20世紀の中頃だ、公民権運動が起こり、黒人が黒人の権利を主張しているシーンがこの映画の中に出てくる。メリーの、前に不倫をしていた相手が、議員か、活動家だと思われ、その所帯持ちの男性が、公演をしているシーンに、黒人の権利を主張する黒人男性が登場することからそれがわかる。

黒人の公民権運動が盛り上がったのは1950年代から1960年代だ。黒人の公民権運動の主導者、アフリカン・アメリカン・チャーチのマーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が、暗殺されたのが1968年の4月4日だ。

キング牧師は、1964年10月14日にノーベル平和賞を貰っている。そのキング牧師テネシー州のメンフィスのローライン・ホテルで暗殺された後には、アメリカのワシントンD.C.、シカゴ、バルチモア、ルイスビルカンザス・シティ等の各都市で暴動が起こった。

キング牧師は、武器を手に取ることもいとわないと言っていたブラックパンサー党などの、黒人解放運動の急進派と比べて温和で、非暴力の公民権運動を先導していた。またキング牧師は、貧困や資本主義、ベトナム戦争に反対の立場をとっていた。

そのキング牧師のような人が率いた黒人公民権運動の盛んな時期が、この映画の時代背景になっている。だが、この映画の主人公は白人の男性と女性だ。白人男性のジョンの方は、金を持っているいわゆる独身貴族だ。

前述したように、メリーの方は経済的にも、安全的にも1人で自立することができていない。それに、メリーはこう述べる。「友達は私を教育するために、私を映画に連れて行くの」と。つまり、メリーは映画で教養を得ている女性で、教育のレベルが低いことも表している。

一方、ジョンの方は、母親が活動家で、政治的な議論には親しんでいた様子だ。教育もあると思われ、家で仕事をしているシーンもあり、製図を描いている様子だ。建築家か何かの仕事をしているのだろう。給料は悪くないようだ。

ジョンが前の彼女と、大学時代の友達と思われる男性とその彼女と、部屋で過ごしているシーンがある。そのシーンでは、ジョンは男友達と同じYと胸に書いてあるカーディガンを着ている。Yとはイェール大学のYだろうか? 多分、ジョンはインテリという設定だ。

男性は教養に溢れ、経済的にも自立している。女性は学がなく、経済的に不安定で、安全面も男性に劣る。20世紀の中ごろの女性の権利は、当然のように低かった。メリーのような女性が多かっただろうと思われる。

1960年代に大学に行っていたのは、6~8%だったとある記事にはある(https://www.census.gov/library/publications/1962/dec/population-pc-s1-37.html)。その中の女性の比率は半分には、いっていなかった。女性と男性の大学生の比率は、1994年に半々になっている(https://slate.com/human-interest/2022/10/sex-ratio-college-campuses-hookup-culture-friends-with-benefits.html)。つまり、1960年代はほとんどの人が大学に行っておらず、その中の女性の比率は低いものだった。

この映画では、ダスティ・ホフマン演じるジョンは、女性に対して理解のある男性として描かれている。が、しかしそれは当時の価値観でだが。ダスティ・ホフマンは映画「クレイマー・クレイマー」で、料理のできない主夫の役をしていたが、この映画「ジョンとメリー」では、料理ができる男性として描かれている。

ジョンの料理のシーンは、当時の男性としては珍しく料理をする男性ということだろう。ただ、ジョンの料理はいわば趣味だ。そうジョンは捉えている。専業主婦が、家族のために料理を作るのとはわけが違う。男性の料理は特別だ、と言わんばかりだ。

男性と女性の格差。それが、この映画「ジョンとメリー」には、描かれている。それがあたかも当然であるかのように。そして、それが男と女の違いを生み出しているとも言える。つまり、男は独立して生きることができるから、そのような価値観を身につけており、女性は従属して生きる運命にあるから、それに合った価値観を身につけているというような。

男性と女性の関係。男性と男性の関係。女性と女性の関係、等々。性的対象に対する関心は人間の根幹にあるのだとすれば、このような経済的格差を背景とした、男女関係は、この映画ができた当時、起こりうる可能性があるものだったのだろう。

メリーが自然食品、今でいう有機栽培で作られた食品を勧めるジョンに対して、メリーは「この人食品オタクだわ」と、心の中の声が言うシーンがある。ここにも、女性は無教養であるという意地悪な暗黙の前提がある。

このような、男尊女卑を監督は、どこまで意図して描いているのかはわからないが、このような格差のもとでの、恋愛を、単なる美しい恋愛と捉えることは、難しいのではないかという気がするのは、筆者だけではないだろう。