肌の色が境界線?

映画「ブラック・クランズマン(原題:BlacKKKlansman)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、映画のジャンルは伝記刑事犯罪映画だ。

この映画の主人公はロン・ストールワースという黒人初の警察官で、ロンの伝記を基にして作られたのがこの映画だ。

アメリカに住む黒人というイメージからすぐに浮かぶのは、例えばヒップ・ホップだったり、ソウルだったり、R&Bだったり、ブルースなどの音楽が連想されるかもしれない。アメリカは周知の通り、白人が先住民のインディオを殺し、インディオを隔離して作られた国だ。

そしてその国の農耕の労働をする者として連れて来られたのがアフリカ大陸からやって来た黒人奴隷だ。

ここでわかるのは、アメリカの白人たちは、インディオや黒人たちを搾取してきたという歴史だ。この場合の搾取とは、土地ののっとりや、強制労働、強制移住、そして虐殺だ。

この映画の背景には黒人差別がはっきりと見てとることができる。

この映画の舞台は1970年代のアメリカだ。当時は、アフリカ系アメリカ人公民権運動が行われていた。公民権運動のリーダーとして知られるマーティン・ルーサー・キング牧師が殺されたのは1968年の4月4日だ。

この頃から数年しか経っていない1970年代にも、黒人の権利は制限されたものだった。黒人というだけで白人は見下し、規律のための番人であるはずの警官も、職務質問して黒人女性の体を不用意に触りまくるというようなことを平気でやっていた様子がこの映画の中でも描かれている。

1950年代から1960年代にかけて黒人の公民権運動は高まっていったが、その後黒人の地位が差別のない状態に確立されたとは言えない。

この映画の最後には黒人への根拠なき憎悪が原因と思われる映像が流れる。現在は、インターネット上に動画という形で映像が溢れている。以前は瞬時でわかる説得力ある映像というのは写真だったが、現在ではスマホで動画を簡単に撮ることができる。

この映画のラストの黒人の権利を主張するデモに、車が猛スピードで突っ込んでいく映像は、我々の生きる時代のいわれない憎悪を浮かび上がらせる。白人至上主義という他人種からの白人の地位の優越性を主張する見方が現在には存在する。

アフリカ系アメリカ人公民権運動がブラック・パワーだとすると、こちらはホワイト・パワーと表現されているようだ。少なくともこの映画の中では。

この文章の中で白人対黒人や白人対インディオという図式を立てたが、白人にも北欧系、アイルランド系、イタリア系など様々あり、黒人と言っても様々な人がいるし、インディオは様々な部族からなるのは周知の事実だ。そうなると、一体全体境界などは、あてにはならないのではないかという気もするのだが。