恋は不自由だ

映画「FLIRT フラート(原題:Flirt)」を観た。

この映画は1995年のアメリカ・ドイツ・日本合作映画で、映画のジャンルは恋愛ものだ。

この映画のタイトルにあるFlirtとは英語で、英和辞書によると「浮気女[男]、恋をもてあそぶ人」という意味だ。この映画はこのFlirtというタイトル通りに、いわゆるモテる男やゲイ、女をそれぞれ主人公とした3篇の物語から成る。

この3篇の物語はどれも同じ構造を持っている。それは、Flirtである主人公が、2人の人と同時に付き合っていて、そのうち1人が遠くの場所に移り住んでしまう。その遠くに移り住む人が、主人公のFlirtに「自分かもう1人の恋人か」を選ぶように要求する。

旅立たない方の恋人は夫や妻などの配偶者を持っている。主人公のFlirtは、旅立たない方の恋人の配偶者に恨まれて、拳銃の銃弾で顔に唇が3つに裂けて、その2つの傷の内1つは頬を貫通している傷を負う。

主人公のFlirtは、俗にいうプレイボーイなので、嫉妬されて、同情されることもなく、ただ1人、恋人たちの間をふらふらしている。主人公のFlirtは、2人の恋人の内どちらかを選ばなくてはならない。

その時に決定的なのが、「2人の関係に未来はあるのか?」ということだ。「未来を見るのではなくて、未来を感じられればそれでいい」と映画中の人物は言う。目に見えるもの、証明ではなくて、ただ未来を感じられればいい。

目に見えるもの。それは簡単に言ってしまえば、容姿の問題だ。この映画のどのFlirtも顔がいい。美形なのだ。しかし、その美形は、片方の恋人の関係者の銃弾により醜いものに引き裂かれてしまう。

目に見える愛の証拠。相手の容姿が愛の根拠。その愛の証拠は、見事に打ち砕かれてしまう。銃弾によるひどい傷によって。つまり、未来を感じるための証拠である優れた容姿である顔は引き裂かれ、愛を確認するには、未来を感じることができるか、のみになる。

この映画の3つの物語の舞台は、アメリカのニューヨーク、ドイツのベルリン、日本の東京だ。それぞれのFlirtは、ニューヨークはビル、ベルリンはドワイト、東京はミホだ。この3つの物語の筋はどれも同じものだ。

純化すれば、もてる男、ゲイ、女が、恋人の配偶者に恨まれて、仕方ないから、この恋人は諦めて、別の旅立っていく恋人を選んで相手の合意を得ようとする物語だ。この映画の背景には恋の恨みがある。

Flirtは孤独だ。同性からはモテることの嫉妬から疎んじられ、恋人は自分の愛を信じてくれない。なぜなら、彼らはFlirtだからだ。モテることの悲劇性が、この映画ではありありと描かれている。

映画「フェイシズ」の浮気する夫婦と違って、この映画に登場するFlirtの恋人となる人物の配偶者は一途だ。もしくは、嫉妬に駆られて、配偶者のことと浮気相手のことしか見えなくなっている。

失いそうになっている者に執着するのが、この映画に登場する激情して銃弾を撃つ配偶者たちだ。彼らは、未来を見ている相手の未来に、自分がいないことを受け入れられない。

恋も結婚も日々の積み重ねだ。実際将来が約束された恋や、結婚などはない。恋も、結婚も不確実性の上に成り立っている。明日はどうなるかわからない。それが恋や結婚といったものだ。

ただ、その不確実性を受け入れられない人がいる。それは、恋や結婚に未来を見る人たちだ。未来があると感じると、それを一生のものだと信じてしまう。それが、この映画の悲劇の一部だ。

恋や結婚は、不確実性の元に成り立っている。この先どうなるかわからない。それが、恋や結婚の事実に向き合った人の、より正確な認識だろう。未来に実は確実なものなどない。しかし、未来に確実性を見出してしまうのが、この映画の、銃弾を撃つ配偶者たちだ。

人は愛に対すると、非常に非合理的になる。それが、この映画を観ていても伝わって来る。なぜ、1人の人を愛するのか? なぜその人からの愛が一生続くと信じ込んでしまうのか? それは、簡単に言ってしまえば、孤独が恐いからで、何かに甘え依存していたいからだ。

人は、日々の緊張感を忘れて、緊張から解き放たれた自分を理解して認めてくれる人物を欲しがる。人は日々の緊張から逃れたがる。そして、恋人とのセックスは、緊張から解き放たれる行為の一部を形成する。

セックスや、2人で過ごすことの解放感は、緊張した日常生活を何とかやり過ごしていくために必要なリラクゼーションなのかもしれない。ただ、恋人や配偶者がいなくても、人は生きていくことができるが。

この映画のFlirtたちは、日常に身を任せるだけで、恋人が何人もできてしまうような人たちだ。そして、そのような人生の代償として、顔に銃弾を受けることになる。Flirtにとって、この映画の出来事はいわゆる成り行きでしかない。

そして、Flirtを恨んだ配偶者の人生もまた成り行きだ。人は自分の人生を、自分の中に沸き起こって来る感情を、コントロールすることができないと、この映画では描かれている。人の人生は、不合理で成り行き任せだ。

ただ、モテる人は、自分の心の赴くままに生きる。モテない人は、メディアの広告に翻弄されながら、モテる人への嫉妬心を心に抱くことになるかもしれないが、この今の社会で、個人の状況に干渉してくるおせっかい者は少ない。

1人の恋人の配偶者から銃弾を受けて、その恋人を追う危険を知り、同時に自分の未来を確実なものにしてくれるはずの顔を失うFlirtたち。そしてFlirtに残された選択は、もう1人の危険性が少ない恋人を追うことしか残されていない。

Flirtはまた恋を探せばいいのかもしれない。ただ人の心は気まぐれで、強情だ。自分が今ここでコントロールしようとしても、うまくいくとは限らない。そう簡単に好きになったり、嫌いになったりできるものではない。

自分の感情が動く相手に巡り合って、その相手と恋に落ちる。それが頻繁に起こるのがFlirtたちだ。その中で、彼らFlirtは、恨まれたり、愛されたり、嘘をついたり、様々なことに遭う。

実は思いのままに恋愛をしているように見えるFlirtたちでさえも、自分の恋はままならないものだ。人は自由からは遠い。人はいたるところで鎖に繋がれている。人と出会って恋をすることは自由ではなくて、自ら鎖に繋がれることだ。

自ら鎖に繋がれているFlirtたちは、自由とは程遠い。性愛に縛られて、そこから逃れられないのがFlirtだ。自由な恋愛とは、語義矛盾だ。不自由な恋愛を生きることしか、我々にはできないのだから。