権力者と放射能

映画「プリズナーズ・オブ・ゴーストランド(原題:Prisoners of the Ghostland)」を観た。

この映画は2021年のアメリカ映画で、映画のジャンルは時代劇ウェスタン映画だ。

この映画の監督は、日本人監督園子温で、これが園子温監督のハリウッド進出第一作になる。

この映画の舞台は、アメリカの西部劇と日本の時代劇が合わさったような町と、ゴーストランドと呼ばれる放射能が降り注いだ町だ。この映画は、この2つの町を行き来することによって展開をしていく。

この映画の主人公は、ニコラス・ケイジが演ずるならず者だ。そう、いわゆる、西部劇に登場する、町の悪党だ。そして、他の西部劇と同じように、町で登場するのは、保安官事務所と、売春宿、銀行だ。

この町は、ガバナーと呼ばれる知事によって支配されている。ガバナーとはおそらく英語でgovernorと表記される言葉のことで、この単語の意味は、”州知事”とか”総督”とか”支配者”という意味だ。

ガバナーは、町全体を支配していて、保安官も、売春宿の女たちもガバナーの言いなりだ。ガバナーにベッタリなのが、保安官や、売春宿の女たちだ。映画中、売春宿の女たちは言う。「あんたの銅像が立つと思ってついてきたんだ」。

どの町にも権力者が存在する。権力に迎合して、自分も富の分け前、権力の分け前に、与ろうとする人たちがいる。ただ、それは権力者の権力になびいているだけで、その人物が本来したいことをしているわけではない可能性もある。

権力のあるところには、金が集まる。人民の支持によりガバナーという権力は出来上がる。金があるから権力が集まるとも言える。知事になるための選挙には、お金が必要だからだ。権力と金と民衆の支持。それがガバナーの力の源だ。

この映画にはガバナーより大きな権力が存在をする。それがゴーストランドに放射能を降り注がせた国という存在だ。国というのはおそらく日本のことで、放射能を振りまいた爆発というのはきっと福島の原発のことだ。

放射能が降り注いだ町ゴーストランド。つまり、その町に住む人は被爆者だ。国の権力者は、原子力の存在を国民に隠してしたという設定に、この映画ではなっている。つまり、ゴーストランドは国にとってはあってはならない町、国から見放された町だ。

このゴーストランドには大きな時計台がある。そしてゴーストランドの住人達はこの時計の針に縄をつけて、時計の針が先に進まないように、数人がかりで、針を引っ張っている。時計が進むと時間が進み、原発が再び爆発するからだと、この映画では説明される。

ガバナーは、「チックタック、チックタック」と時折口にする。するとそれをガバナーに反抗する娘スージーは、苦しそうに聴いている。チックタックという擬音語は、時計の針が進む音だ。それはゴーストランドの住人が恐れている音だ。

ガバナーは、時間を支配している男だ。つまり、時計台を支配している、ゴーストランドの未来を支配している存在だ。つまりガバナーは、国の権力者の一員でもあるということだ。ガバナーは英語では州知事だが、日本にあてはめるならば県知事に置き換えることができる。

つまり、おそらくガバナーは原子力を影で進行させていた権力者のうちの一人だ。他にもきっと悪い権力者がいると思われるが、この映画の中では象徴的に一人の権力者として映画かれる。ガバナーは、売春宿や原子力の経営をするいわば闇の権力者でもある。

ガバナーには、ヤスジロウという剣の達人がついている。ヤスジロウはとても強い剣豪で、ヤスジロウをガバナーは頼りにしている。ヤスジロウは、日本車のスポーツカーを乗り捨ててて、ママチャリで旅立つ主人公に敬意の目を向ける。

ヤスジロウは、そこまで悪い奴ではないのかもしれない。映画中、売春宿の女の一人がヤスジロウに言う。「お兄ちゃんなのね。私が捕まって売春婦として働かされているのを、ガバナーのために働いたら、娘を解放させると言われて、ガバナーに雇われているのね。でも、そんなのうそよ」と。

ヤスジロウは、妹のためにガバナーのもとで働いている。ただ、ヤスジロウはガバナーに仕えていて、権力の道具になっている。そしてヤスジロウも、権力の一部であることに変わりはない。ヤスジロウはきっとどこかで権力に魅せられている。もしくは血に、死に。

ガバナーに囚われた女たちの中で、ガバナーの手から逃れようとする売春婦が出てくる。その3人の女性の逃亡劇がこの映画のはじまりだ。その3人の女の中のバーニースという女性が、ガバナーの孫娘と言われている。

主人公はならず者で、ガバナーに囚われている。つまり主人公は、ガバナーの権力に反抗した男だ。バーニースと反抗したという点では共通する。ならず者に、解放のチャンスが与えられる。それがバーニースを連れ戻すという条件だ。

主人公には、ボディスーツが着せられる。それは脱げないようにロックされていて、体の各部分に爆弾が仕掛けられている。主人公が、興奮するとその爆弾は爆発する。主人公がバーニースに欲情すると、testicle睾丸についた爆弾が爆発する。

映画中に、睾丸に着いた爆弾は爆発する。それは、バーニースに主人公が欲情したからだ。欲情させたのはバーニースもかんでいるのだが、バーニースは睾丸が爆発した主人公に同情の心を抱くようになる。

それは、主人公もバーニースと同じようにガバナーという権力者に、自分の自由を奪われてしまった人間だからだ。それまでに人間にとって自由は尊いものだとこの映画の中では描かれる。睾丸の爆発で同情されるのが、なんとも情けなくて笑える。それは、男性性からの解放のカタルシスを得ることができるからかもしれない。

映画の初めに日本人の少年が登場する。その少年は手にガムのボールでいっぱいになった紙コップを持っている。そして、その少年は言う。「これあげるよ。おいしいよ」と。その少年の差し出したボール状のガムは、主人公の爆破された睾丸を思い出させる。

主人公は、ガバナーの町の銀行を強盗する、つまり金を奪うことで、ガバナーに捕まった。その主人公が、睾丸を爆破される、つまりバーニースに睾丸をささげたことは、少年がガムのボールを差し出したことに重なる。

主人公は睾丸を差し出すことによって、人に自分の一部を与えることによって、バーニースの信頼を得る。ものを奪うばかりだった主人公は、バーニースに与える。それは、ものを支配する、つまりものを奪うばかりのガバナーとは真逆の行為をすることだ。

原子力を支配し、人の未来までも奪ってしまったガバナー。チックタック、チックタック。未来を支配する。それは人の死を支配することだ。映画のラスト、その支配から解放され、時計の針を引っ張る重労働から解放されるゴーストランドの住人達。

ガバナーが死することで、ゴーストランドの人たちは、自由を取り戻した。時計が進むと原子力が爆発するという迷信から解放されて。原子力の爆発は、自分たちの力で止めることができる。権力者たちを、止めることができれば。

現実の世界では、原子力も核爆弾も存在する。福島の原子力汚染の名残りも、汚染水も、原発の稼働も、この世界では今も続いている現実だ。被爆者の癌の発生率が以上に高いのも事実だ。

この現実と私たちは向き合っていかなければならない。時計の針から解放されて、つまり悪しき権力者たちから解放されて、現実のために最善を尽くすのが、これからの私たちの生きる道だ。