弾丸は日常に存在する

映画「戦場でワルツを(原題:Waltz with Bashir)」を観た。

この映画は2008年のイスラエル・ドイツ・フランス・アメリカ合作映画で、映画のジャンルはアニメーション・戦争・ドラマ映画だ。

この映画の主人公は、アリ・フォルマンというこの映画の監督でもある実在の人物だ。この映画の公開された2008年の2年前に、イスラエルによるレバノン侵攻が起こっている。

この映画は、1982年のレバノン侵攻の記憶を、主人公であるアリが思い出すのを追った映画で、1982年もイスラエルレバノンに侵攻していた。アリは兵隊として19歳の時に、1982年のレバノン侵攻に兵隊として参加している。

この映画の題材は、レバノン侵攻中に起こった、サブラ・シャティーラの虐殺事件だ。サブラ・シャティーラの虐殺事件では難民キャンプにいるパレスチナ人が虐殺された。虐殺をしたのはファランヘ党というキリスト教派の武装集団で、それを援護したのがイスラエル軍だ。

1894年のドレフェス事件により、ユダヤ人であるだけで罪をきせられ、国外に追放されてしまう、という事態が、フランスで起こり、それを機にユダヤ人のイスラエル建国が始まった。

イスラエル建国と言っても、すでに人が住んでいる土地に無理やり入植するといったことで、例えば前述したパレスチナ人は、イスラエルを建国する際に、イスラエルを作るユダヤ人が無理やりに入植したパレスチナ地区にもともと住む人々のことだ。

そこでイスラエルユダヤ人と、パレスチナ地区のパレスチナ人との対立が始まった。ちなみにパレスチナ人とは、パレスチナに住むアラブ系の民族のことで、ヘブライ人(ユダヤ人)とサマリア人との子孫だ。つまり、イスラエル人とパレスチナ人は同じユダヤ人でもある。

フランスのドレフェス事件を発端に、難民であったユダヤ人が自分たちの国を作ろうとして、イスラエル建国が始まり、そのための入植のために、民族同士、宗教的な対立が起こることになった。

イスラエルレバノン侵攻は、イスラエルという国の安定した確立のために行われた、いわゆる領土確立のための侵入だ。そこでは、戦車やヘリコプター、戦闘機、銃器などによる戦争が行われることになる。

イスラエルレバノン侵攻されたレバノンには、親イスラエル派の集団が存在した。そのリーダーだったのがバシール・ゲマウェルという人物だ。バジールは、サブラ・シャティーラの虐殺を引き起こしたファランヘ党というレバノンの軍隊を率いていた。

ジールは、アラブ、イスラーム、シリア、パレスチナ人難民を排除しようとしていたキリスト教の勢力のリーダーだ。

サブラ・シャティーラの虐殺が起こったのは、バジールがシリア社会民主党に爆撃されて殺されたからだ。この映画の原題のタイトルにある、Bashirとは、爆撃されて死んだファランヘ党のリーダー、バジールのことだ。

映画中に、イスラエル軍の兵士の一人がレバノン軍から大量に射撃される中を、ワルツを踊るように、バジールの肖像画を背景に、銃撃に応戦するというシーンがある。バジールと共に、レバノンの軍隊と対立する。それが“戦場で”バジールと共に“ワルツを”踊っている、イスラエル軍の姿としてこの映画のタイトルに現れている。

このサブラ・シャティーラの虐殺の被害者は、パレスチナ難民だ。ファランヘ党にとっては敵の一部なので、直接攻撃してきたのが敵と確認されたら、厳密な判断など関係なしに、敵の味方の非戦闘員を殺してしまえというのがこの虐殺の思想的な背景だと思われる。

映画の当初アリは、この虐殺のことをすっかり忘れている。アリは、虐殺の支援をするために、虐殺時に照明弾を打っていたのだが、その記憶を忘れてしまっている。

映画の中で精神科医が、隔離という精神的な防衛機能についてアリに説明をする。人は精神的な重圧となる記憶を、自己防衛のために忘れてしまうということがあると医者は説明する。アリも心の傷を自分の精神を守るために、精神が自ら、本人の意思とは別に、悲惨な記憶をしまい込んでいる。

アリはナチスドイツによるユダヤ人の虐殺により、両親を殺されている。それはアリがまだ幼い時のことだった。虐殺に対する重圧はその時に十分味わっている。だから、サブラ・シャティーラの虐殺はアリにとっては封印されるべき記憶だった。

この映画では、戦争の無慈悲さ、日常との繋がりが描かれる。音楽や写真撮影を楽しみながら、進軍していくと、そこに急に銃弾が一発打ち込まれ、仲間が急に死んでいく。その時が日常と非日常との別れだ。

だがその別れは、日常の延長であり、あるいは日常の景色を残しつつも、徐々に日常がいつもとは違う、人間のいない、動物のいない世界に変わっていく。戦場では、人間が殺され、感覚が鈍った人間は簡単に馬などの動物を殺す。

映画の最初に、アリの友達が語る。「俺は26匹の犬を殺した。犬は住民に自分たちがいることを知らせ、かくまっている敵の兵士を逃がすからだ。俺は人が殺せなかった、だから犬を殺すように命じられたんだ」と。

その26匹の犬が、この映画のオープニングで登場する。獰猛な犬が、平和な日常を切り裂いて街角を走り抜けていく。その日常とはきっとイスラエルの日常で、それを切り裂くのはレバノンで殺されたレバノン住民の犬だ。

レバノンの犬の復讐が、ここで行われているのかもしれない。しかし、その獰猛な犬たちは、住民を殺すことなく走り抜けてく。そこにあるのは、勇敢な犬としての、動物としての犬の姿だ。人間の愚行を嘲るかのように。

戦争は日常に侵入する。街でたむろして話している兵士たちが、車からの銃撃によって殺される。突然に日常に切れ目が走る。しかし、それは、日常の一部分でしかないのかもしれない。

銃弾の持つ恐ろしさは、それが日常に存在することにある。それはいとも簡単に、人間の肉体を切り裂く。銃弾が殺傷能力を持たないグミ・キャンディーみたいなものだったらどうか? そこに悲劇は生まれない。

日常が引き裂かれるという表現を使ったが、実は、日常は引き裂かれているのではない。日常が引き裂かれている、と思っているのは人間だ。地球は銃弾によって壊れるが、それは実は日常が生み出した、違った日常だ。

戦闘が、非日常だと割り切って考えらえるうちはいい。しかし、戦争を虐殺を経験したものにとって、死は日常であり、自分の一部と化している。つまり、戦争も弾丸も虐殺も死も体の一部であり、常に日常と我々が呼ぶものに食い込んでくる。

その事実を実感すると、戦闘や戦争、弾丸はより恐ろしいものに感じられる。それが、平和への祈りと連なることを願いたい。

 

イスラエルレバノンに侵攻中、レバノンの親イスラエル派(つまりイスラエルに侵攻されているレバノンの中のイスラエルの味方)のファランヘ党のリーダー、バジール・ゲマウェルが、シリア社会民主党の爆撃で殺される。その報復として、サブラ・シャティーラの虐殺が起こり、その虐殺では難民キャンプのパレスチナ人が殺された。背景には、イスラエルパレスチナの対立がある。