連載 アナーキー 第31回

アナキズムを高らかに宣言することなしに、実は国民は内発的にアナキズム的なのである。アナキズムではないアナキズム的な国民。どうだろう?この存在は、国家対アナキズムという対立を乗り越えるのではないか?

アナキズム的国民というどっちつかずの表現は、この先の人々の展開を示してはいないだろうか?

アナキズムを唱えることなく既にアナキズム的な国民。

国家かアナキズムなのかどっちなのか?という疑問が生じるかもしれない。多分そのどちらでもなく、そのどちらでもあるような存在が、アナキズム的国民なのである。

アナキズム的国民は、アナキストでも国民でもある必要がない存在である。つまりアナキズムと国民をはみ出している存在である。それはアナキスト的国民という名で呼ぶのもはばかれるような存在である。

人は何も考えていないという人がいるかもしれない。しかし個々の人々の中には必ず内的な葛藤がある。人々の内面は常に揺れ動いている。この揺れ動きを無視するわけにはいかない。

国民として生きながら国の判断に疑問を感じる態度。それは人々を次のステップに移行させるのではないのか?ダダもピストルズレベッカ・ソルニットも人々の内面の揺れ動きの現れではないのか?

人は互いに影響を与え合いながら生きている。つまり人と人が繋がっている限り、人の精神から精神へと伝播するものがある限り、人の生き方は変わる。Aという人間は、Bという人間や、Cという人間と繋がっている。Aの中にBの部分がありCの部分がある。

人の連鎖は終わらない。それは人の生成変化(ここでは人と人が混ざり合って常に変わりうまれることというぐらいの意)と言っていいのではないか?人は常に変わるという点において変わらない [宮台真司, 2003]。常に人は生成変化している(ドゥルーズというフランスの思想家が言っているように)。人は変わる。国民がやがてアナキズム的国民となり、いずれ今の段階では名付けられない何かになる。その変化に我々は期待して良いのではないだろうか?