親が子を認める大切さ

映画「エブリシング・エブリウエア・オール・アット・ワンス(原題:Everything Everywhere All at Once)」を観た。

この映画は2022年のアメリカ映画で、映画のジャンルはカンフー・マルチバース・SFだ。

この映画の中心となるのは、ワン一家だ。祖父ゴンゴン、父ウェイモンド、母エブリン、娘ジョイがその家族だ。エブリンとウェイモンドは駆け落ちをして、アメリカへ移住してきた中国系の移民だ。エブリンとウェイモンドはコインランドリーを経営している。この映画の主人公は、ジョイの母親で、ウェイモンドの妻の、エブリンだ。

娘のジョイには女性のガールフレンド、ベッキーがいる。そして、母であるエブリンは、娘がレズビアンであることを受け入れておらず、そのためベッキーのことも快く思っていない。

また、エブリンは夫ウェイモンドとの関係もうまくいっていない。ウェイモンドは離婚届をエブリンに渡そうとしている。駆け落ちして結婚した2人だったが、日々の暮らしで精一杯で、エブリンとウェイモンドはすれ違っている。

また、エブリンとエブリンの父親のゴンゴンとの関係も、うまくいっていない。ゴンゴンは、エブリンが生まれた時にこう言う。「男の子ならよかったのに」と。エブリンは、父親のゴンゴンに承認されていない。

エブリンとウェイモンドは、コインランドリーを経営しているのだが、その経営もあまりうまくいっていない。エブリンは、コインランドリーの仕事をやりたい仕事だと思っておらず、カラオケ機材を経費で購入したりして、実は歌手になることを夢見ている。

エブリンとウェイウェイの経営するコインランドリーは、この映画の中で国税庁の監査を受けることになる。国税局の監査とは、要は経費の使い方が経営している事業に対して正当かどうか判定をして、事業の存続を判断するものだ。

このようにエブリンには、いろいろな困難さがあるのだが、最も、エブリンにとって、そしてジョイにとって困難に感じているのは、親からの承認がないことだ。ゴンゴンはエブリンを人格として認めておらず、エブリンは娘のジョイを人格として認めていない。

ゴンゴンはエブリンが娘であることを受け入れていない。エブリンはジョイがレズビアンであることを受け入れていない。この、承認の欠如が、この映画の根本的なテーマになっている。

そして、エブリンとウェイモンドとの関係も、この映画のテーマのうちの一つだ。そのテーマとは愛だ。エブリンは、頼りなくて弱気な夫のウェイモンドをうまく愛することができない。駆け落ちした頃の情熱は、日々の忙しさでかき消されている。

そして、このような日常に疲れたエブリンにやって来るのが、マルチバースからの使者だ。マルチバースとは、「あの時自分はあの選択をしなかったら…のちの人生はこうなっていたかもしれない」という誰もが持つような気持ちを代弁したかのようなものだ。

つまり、エブリンの人生にはマルチバースがある。エブリンが、ウェイモンドと駆け落ちしなかった人生とか、エブリンが石として存在する人生とか。エブリンが、カンフースターとして存在する人生とかだ。

マルチバースとは、人生の様々ある選択肢の枝分かれした、それぞれの枝の宇宙が存在するということだ。エブリンがカンフースターである宇宙。エブリンの指先がソーセージで、国税庁の憎き女性職員とレズビアンの関係になっている宇宙。エブリンが、ジョイと一緒に石として暮らしている宇宙。

それらの宇宙が並行して存在しているのが、マルチバースと呼ばれるものだ。そして、この映画では、マルチバース同士が影響をしあっている。コインランドリーの経営をしているこの映画の主人公のエブリンが住むマルチバースと、エブリンがカンフースターであるマルチバースとを機械を使ってつなげることが可能だ。

その機械とは、スマホだ。コインランドリーの経営をしているエブリンは、マルチバースが繋がることにより、カンフースターのエブリンの能力のカンフーの技術を取り入れることができる。

ただ、そのマルチバースの世界に危機が迫っている。エブリンの娘ジョイの他のマルチバースでの同一の存在が、マルチバース全体を滅ぼそうとしているという。マルチバースの破壊者の時のジョイの名前は、ジョブ・トゥパキという。

ただ、ジョブ・トゥパキ考えていることは、世界を滅ぼすか、自分がこの世から消えてなくなるか、だということがこの映画観ているとわかる。ジョブ・トゥパキは言う。「この世界で意味のあるのはほんの少しの間だけ。後は無駄」だから、この世界がある必要もないし、この世界にいる必要もない。この世界が消えるか、自分がこの世界から消えるかどちらかだと。

世界に対するジョブ・トゥパキの失望感。例えば、それは最近起こっているアジア人女性に対するヘイトクライムだ。アメリカでは、アジア人女性であるだけで、アジア人女性が殺される事件が多発している。それを当然、ジョイも知っているし、ジョイの別のマルチバースでの存在であるジョブ・トゥパキも知っている。

人生に意味のある瞬間なんて少ししかない。この言葉はこうも響く。「例えば私が頑張ってアジア人女性へのヘイトクライムをなくしたとしても、それは一瞬の充実を私に与えてくれるだけだろう。そんな人生に何がある」と。

それに、立ち向かっていくのがエブリンだ。娘の死は、エブリンにとっては耐えがたい。それは、自分の最愛の人のうちの一人を失うことだ。それは、エブリンにとっては悲劇だ。だから、エブリンは娘の中の虚無感を自分も見たうえで、ジョイ/ジョブ・トゥパキを救おうとする。

それは、ウェイモンドの願いでもある。人は闘いで救うのではない、人は愛で救うのだと。闘っても闘っても敵は立ち上がってくる。ならば敵を愛せばいい。敵の本当の望みを叶えてあげるのだ、そうエブリンは、情けないはずのウェイモンドから学ぶ。

なぜなら、エブリンは駆け落ちをした際に、ウェイモンドの愛によって救われたのだから。その愛の価値を知る。エブリンは、敵を愛することが、敵にしてあげられることだと、実体験から感じている。

そして、その愛情を向ける敵の内に、ジョイ/ジョブ・トゥパキもいる。つまり、敵は敵ではなかった。愛すべき存在だった。娘も、その他の大勢の人も。人を救うのは愛だ。そしてそれを教えてくれたのはウェイモンドだ。

マルチバースを破壊から救うのは、愛だ。それは親子の間の承認でもある。特に親から子に対しての。他者を承認する愛。それがこの映画で描かれる至高のものだ。愛は人を救う。愛する者は、愛される者によって救われる。愛して、愛されるのだ。

 

 

以下、アジア人ヘイトに関する記事

www.thenation.com

 

www.usatoday.com

 

www.democracynow.org