家族を成り立たせる男性性の問題

映画「ふたり」を観た。

この映画は1991年の日本映画で、映画のジャンルはミステリー・ホラー・ドラマ映画だ。

この映画の主人公は、実加という少女だ。この映画では、実加が中学生から高校生になるまでを描いている。実加には、姉がいる。その姉は、木を積んだトラックに押しつぶされて死んでしまった、千津子という死んだ当時高校生だった少女だ。

しっかりものの千津子は、のろまでぐずな実加とは違い、ぼーっとして車に押しつぶされてしまうような少女ではなかった。しかし、千津子は生理用品を家にとりに帰ろうとして、その時にトラックと石垣の間に挟まれてしまう。

千津子は、生理によって不安定になるというのが、この映画の中で明らかに示されはしない。がしかし、しっかりものの千津子だが、生理には勝てないというのがこの映画で示されている事実なのだろう。

生理をする年頃になると、女性は妊娠できる体になる、つまりセックスして子供を作ることができる体になる、ということだ。千津子は、智也という大学生と付き合いをしたいと言って、千津子の父と母に反対されている。多分、千津子の父と母は千津子の早すぎる妊娠を恐れたのだろう。

中東では娘が生理になる年齢になると、娘を嫁に出してしまう。娘が親の知らない間に、子を作るのを怖いのか? それとも男性が、若い女性を好むのか? 娘が、将来仕事を得ることができないからか? 娘を生理が来ると嫁に出してしまう中東よりは日本は良いが、しかし、好きなように恋愛できないのもどうか?

そこで大切になってくるのが、性教育だ。学校で、親から子へ、先輩が後輩に、性教育をする。特に性教育は学校が行うのが、大切だろう。正確な知識を子供に与えること。それに対して、親が寛容であること。特に避妊の重要性を伝えるために、子育てのマイナスの面を伝えることも重要だろう。

家庭を持つと、子供をつくる。子供ができると、家庭を持つ。そのどちらでもよいのだが、その時、つまり家庭ができると、父と母と子の役割分担ができることになる。その中で、この映画でも問題になっているのは男性性だ。

頼りになって、子のことを思い、妻には優しい、弱味は見せないお父さん。それが、父親像というものではないか? この中で特に父にとってつらいのは、弱みは見せられないというところだ。男性は強くなければならないという内的で、外的な男性性の押し付けだ。

この映画の中でも、実加の父親は自分の弱みを見せることができなくて苦しんでいるのだろう。千津子を失い、妻はノイローゼ気味で自分の相手には不足で、おまけに会社内のもめごとで北海道に尾道市から転勤させられて、そこで浮気してしまう。

最後の場面で、父が泣くシーンがある。父が泣くことにより、父の浮気が原因で父を恨んでいた実加が、父を殺すのを諦めるシーンがある。千津子は、しっかりした理想の家族の申し子のような子供だった。

つまり、家族が家族たるために必要な父は、母だけを愛し、母は父だけを愛するという規範を具体的に強要するような存在が千津子だった。父と母が千津子の恋愛に反対したのも、父と母の中に”適切な年齢になってから子を作る”という理想の夫婦というものが、千津子の強烈な存在によって出来上がっていたからだろう。きっと父と母には、逃げ場がなかった。千津子が優秀であればあるほど、逃げ場はなくなる。そして、死んでしまった千津子は、高すぎる理想として生き続ける。それが、この実加の家族の現実だろう。

父が泣くことにより父を殺すのをやめて、父も母も自分と同じような弱い存在でしかないことを知ること、それにより父を許すこと、男性性の不幸を知ること。それが実加にとっての成長であり、千津子が姿を消すきっかけとなった。

実加は映画の冒頭で、レイプされそうになる。その男が持っているのは牛乳と、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」だ。つまりその男は、インテリで気取った男で、レイプに至ってしまうような女性性への幻想を心に抱いた、悲しい大馬鹿野郎の変態だ。

そしてその男は警察に捕まるわけだが、そのシーンの跡の実加の様子が元気に描かれているのも不思議だ。確かに実加がレイプされそうになって、それを気遣って千津子がいるのは、実加の苦しみを和らげているかもしれないが。きっとこの映画「ふたり」が現在撮られたら、レイプの傷にもっと焦点があてられるだろう。