夢破れても、夢を見続ける

今回は最近観た映画5本について書きたい。この5本は映画評論家町山智浩氏が、過去に紹介した映画を含んでいる。

5本の映画のタイトルを上げる。

テリー・ギリアムドン・キホーテ」 2018

「カセットテープ・ダイアリーズ」 2019

「存在のない子供たち」 2018

「幸せへのまわり道」 2019

ランボー ラスト・ブラッド」 2019

テリー・ギリアムドン・キホーテ」はスペインで繰り広げられる、現代の映画監督がドン・キホーテを映画として撮影しようとして、ある村の職人にドン・キホーテの役を依頼するところから、時間がいつの時代かわからなくなり、監督自体が映画を客観視できずにずるずると映画の世界に引きずりこまれていくといった内容だ。

この映画のドン・キホーテというのは、夢を見る人の象徴だ。ドン・キホーテはこの世界に正義があると信じていて、自分こそがその正義を実現する騎士なのだと信じている。そのドン・キホーテのことを笑いものにするのが、金持ちとその取り巻きだ。

「カセットテープ・ダイアリーズ」は、イングランドのルートンという地方に住む学生が主人公の映画だ。主人公はその町に住むパキスタン人の移民の子供で、詩を書くことが好きな文系の少年だ。

その少年ジャベドはある時学校で同じ褐色の肌をした少年とぶつかり、その際にその少年がブルース・スプリングスティーンのカセットを落としたことがきっかけとなり、ジャベドはスプリングスティーンの音楽と歌詞にはまる。

スプリングスティーンの歌の歌詞はアメリカの地方の労働者階級の気持ちを代弁していた。ジャベドはその歌詞にはまる。サッチャー新自由主義でルートンの街の自動車工場も人員削減をして、ジャベドの父も首になる。

そんなジャベドの気持ちを代弁するかのように、ブルース・スプリングスティーンの曲は存在したのだ。

「存在のない子供たち」はレバノンに住むシリア難民の少年が主人公だ。その少年は12歳で名前をゼインという。難民であるゼインには戸籍がない。それがこの映画のタイトルとも直接に関係している。戸籍がないとは国民として認識されていないということだ。

存在のない子供という意味ではゼインの妹サハルも同様だ。サハルは自分の意思が周囲に認めてもらえないという点で存在のない子供だ。サハルは自分の意思とは関係なく、生理が来て子供が生める体になったと同時に、年の離れた男のところに嫁入りさせられる。

そしてサハルはその結婚による妊娠が原因で死亡する。明らかにこれは女性の権利が不当に扱われていることを示している。この映画の監督ナディーン・ラバキーは女性の映画監督だ。女性の置かれている立場というのを明確に示したかったに違いない。

この映画にはラヒルというエチオピア難民で赤ちゃんを育てている女性が出てくる。難民であり女性であることが、ラヒルの立場をより苦しいものにしている。女性が子供を育てるという暗黙の了解。しかも難民で福祉サービスを受けることができない。

「幸せへのまわり道」という映画は実在の人物をモデルにした映画だ。子供番組の司会者として人気のフレッド・ロジャースと彼を取材した記者であるロイドとの交流を描いた映画だ。

フレッドはロイドと会話をしただけで、ロイドが問題を抱えている人物であることを見抜く。ロイドの問題とは、ロイドが父との関係がうまくいっていないことだった。ロイドの父は昔母親が死んだ後にロイドを置いて出て行ったのだった。

そのことが原因で、父との関係になるとすぐに激昂してしまうロイドだったが、父の死が間近に近づいていることを知り、またフレッドによって癒されることによって、ロイドは自分の心の傷を癒し、父を許していくのだ。

ランボー ラスト・ブラッド」では、ランボーの旧友の孫娘がメキシコの父の元を訪ねて、その後行方不明になり、薬を打たれて売春をさせられその後死亡するという悲劇に遭う。ランボーは怒りに駆られて一人で麻薬カルテルへ殴り込みをかける。

なぜ旧友の孫娘ガブリエラは、カルテルに誘拐されたのか?それはガブリエラのメキシコで再開した父にこう言われたからだ。「お前とお前の母親はおれにとって負担でしかなかった」と。やけになって地元のクラブに連れて行かれたガブリエラはそこで誘拐されたのだ。

ここでも子供と女性がテーマになっている。捨てられた子供と母。子供は女の子で、当然妻も女性だ。ランボーの旧友も女性で女性同士が身を寄せ合って暮らしている。ガブリエラは移民の子供である。

駆け足で書いてきたが、これらの映画の中で描かれていることは、今自分たちが生きている世界で実際に起こっていることだ。子供への差別、女性への差別、父親との確執、移民、労働者の搾取等々…。それは裏切られた夢でもある。

映画は自分たちの世界がどうなっているか、私たちに示してくれる。そしてその映画の顕示性が、私たちが映画を語る理由になっている。映画は自分たちの世界を語っていて、その映画を語ることは世界を語ることなのだ。映画を語る必然性はここにある。