他者を受け入れる

映画「ある少年の告白(原題:Boy Erased)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、映画のジャンルは青春映画だ。

この映画は実話を元にした映画だ。この映画は原作の事実に基づいて書かれているのだが、原作の本を書いたのは、ガラード・コーンリーという人物だ。原作の本は、映画の原題と同じBoy Erasedだ。

この映画のテーマとなっているのは、目立つものを上げるのならば、同性愛だ。この映画では、同性愛の子を持つ父と母が、自分たちの子供の同性愛を治療する(!!!)ために矯正施設に子供を通わせるという内容だ。

この子供はジャレットという名で、男性の肉体を持って生まれている。生物学的にだ。ジャレットの父は牧師で、ジャレットの同性愛を1種の欠陥としてとらえている。ジャレットの牧師である父は、教会での説教の時にこう言う。

「自分が不完全だと思う者は手を上げなさい」と。するとジャレットはどこか違和感があるように手を挙げる。父は説教する。「自分が完全だと思う者は手を挙げなさい」と。するとジャレットは手を挙げたそうな表情をする。

ジャレットの表情からジャレットの心の声を拾い出すことは難しいが、この映画の中のジャレットの姿が、前述したジャレットの自分は完全な者であるという意向を示しているかのようだ。

要するにこの映画は、ジャレットを肯定する映画だ。この映画はこう主張している。“同性愛者を排除しようとする人たちよ、いい加減に目を覚ましなさい”と。

一体いつから教会は同性愛を排除するようになったのか?ジェームス・C・スコットという人類学者でもある人物の著作「ゾミア」の中で、国家は労働力を獲保するために人々を支配したという旨が書かれている。

子供は生物学的男と女の間で生まれる。つまり国家は労働力の確保のために異性愛を好むことになる。なぜなら異性愛者は労働力となる人間を生み出すからだ。

いつの時代からか国家と宗教が結び付くようになった。国家の利益が宗教の利益であり、宗教の利益が国家の利益となる。このような結びつきの中で、教会が同性愛を無理やり排除しようとしたのではないか?という推測を立てることができる。

これを実証するデータはあるのだろうか?そもそもだ。同性愛と異性愛が同居していれば、人口は維持されていくのではないか?この同性愛と異性愛の混在という状態を耐えることのできない白黒原理主義の人たちが確かに存在するということは言えそうだ。

何でも白か黒にわけてすっきりするのが生きがいという困った人がいるようだ。人は誰しも権利を持つ。誰もが誰もがを一人の人間として見つめること。それが肝心だとこの映画は教えてくれる。

母の支配

映画「白熱(原題:White Heat)」を観た。

この映画は、1949年のアメリカ映画で、映画のジャンルはギャングものだ。

この映画の主人公は、コーディ・ジャレットという強盗集団のボスだ。この映画では、コーディ一味と連邦警察官との対決が描かれると同時に、コーディとコーディの母とのマザー・コンプレックス的な心理劇も描かれる。

コーディは母親の世界一になりなさいという教訓を胸に日々悪事を働くマザコンのギャングだ。コーディは、母親に支配されている。とても強く。そしてコーディは支配されるほど、自分の支配欲を強くする。

コーディは部下や妻に対して、支配的な態度を貫く。というかハーディは母親以外の人間を人と思っていない。母親以外は皆道具に過ぎない。

しかし、コーディが唯一兄弟として認識する相手が出て来る。それは潜入捜査官のファロンという男だ。ファロンはコーディを捕まえるために、刑務所に入り、コーディに近づく。コーディは自分の強盗の死刑級の犯罪を逃れるために、他人の罪を被って入所している。

コーディは死刑級の強盗をしたのと同時に起こっていた他の犯罪の罪を自ら受ける。2つの犯罪が同時に起こったので、罪の軽い方の犯罪の処罰をコーディは受け入れたのだ。死刑より2年か3年の刑で裁かれる方が楽だと。

コーディは刑務所の中で、コーディの母親の死を知る。すると食事中にも関わらず、コーディは食堂のテーブルの上を走り回る。まるで1つの支えを失ってしまった子供のように。コーディの気が変になるのは、この時が初めてではなかった。

コーディは強いストレスを感じるからか、急にパニックのような症状に陥る。するとそばにいる母親がコーディの頭を撫でて、パニックをなだめる。元々はコーディが母親の気を引くためにパニックの真似をしていたのだが、いつの間にかふりが本気になっていた。

コーディが狂いだすと、母親は優しくなる。その時以外母親はコーディに対してひどく支配的だ。だからコーディは優しい母を得るために、本気で気が狂いはじめてしまったのだ。

この映画のラストで、コーディは化学工場のタンクを爆破させ「俺は世界一」だと言って、死んでいく。当時の化学工業の最有力地はどこであったかは知らないが、1949年は第二次世界大戦が終わったころだ。当時のアメリカは世界一強い国であっただろう。

よって世界一だと言って死んだコーディはあながち嘘をついてはいないのではないか?コーディは悪知恵を働かせて生き抜くのに対して、捜査側は最新のテクノロジーで応戦する。コーディのマザー・コンプレックスも、捜査側は熟知していた。情報は人を優位に立たせるのだろう。だからいつの時代も権力は情報を集める。

格差社会の縮図

映画「上海から来た女(原題:The Lady from Shanghai)」を観た。

この映画は1947年のアメリカ映画で、映画のジャンルはサスペンスだ。

この映画の主人公は、マイケル・オハラというアイルランド人の船乗りだ。この映画は、マイケルが、アーサー・バニスターという刑事弁護士と、その妻のエルザに拾われるところから話は始まる。

簡単に結論を言ってしまえば、この映画は、お金持ちが貧乏人を利用して楽して生きようとする話だ。ここで気付くことはないだろうか?そう、いつの時代も人間は考えることが変わらないということだ。

楽して生活したいが、人間の目標になるのだ。お金持ちが貧乏人を利用して楽して生活をする。この事実は、まさに我々が生きている現実そのものだ。世界の上位数パーセントが、世界の最も貧しい50パーセントの人口の財と同じだけを持つというオックスファムの調査は今や有名な話だ。

世界の上位者が、世界の富を独占しているという事実を、数値を通じて明瞭に示した人物にフランスの経済学者トマ・ピケティがいる。トマ・ピケティの著書「21世紀の資本」は、まさに金持ちが富を独占している状況を示したものだ。

ピケティは労働による所得よりも、資本による収益、つまり不労所得の方が多くなることを示した。労働して稼がれたお金よりも、労働せずに金融などの資産運用で、体を使って労働したものでない場合よりも多くを手に入れる。

この事実に何かふと行き過ぎたものを感じるのではないだろうか?金が金を生み出す。数字が数字を動かす。物は生じないのにお金が生じる不思議さがここにある。

この映画から導き出される教訓の1つに、人は自分の思うように自分の周囲の人をコントロールすることはできないというものがある。アーサーとエルザは、自分の思うとおりに人を、例えばこの映画の主人公マイケルをコントロールしようとする。

マイケルをコントロールしようとすればするほど、登場人物は困難な局面に追い詰められていくようだ。少なくともこの映画を観ているとそう感じられる。コントロールすることにより自分を中心とした帝国を誕生させる。それは、この映画の中と外の世界つまり現実の世界で現に今起こっていることだ。

世界の富の多くを上位数パーセントが握っているこの現実が、我々の前にはある。この映画も現実も同じだ。コントロールすること、支配することにより自らの安寧を得ようとする。支配するものはますます富み、支配されるものはどんどん貧しくなっていく。

世界を見渡す富める数パーセントと、自分の足元すらおぼつかない貧しい人々。この2つに世界は2分されているのか?格差社会という言葉は、最近既に定着した感があるが、この映画では格差の縮図が描かれている。

科学が魔法にかわる

映画「2分の1の魔法(原題:Onward)」を観た。

この映画は2020年のアメリカ映画で、映画のジャンルはコンピューター・アニメーション・ファンタジー・アドベンチャーだ。

この映画は、監督の実体験をもとにして作られたピクサーの映画だ。映画の監督ダン・スキャンロンは映画のパンフレットの中でこう語っている。

―物語は、私自身の兄との関係と、私が1歳の時に亡くなった父との繋がりが発想のもとになりました。父は私たちにとって、常に謎でした。家族が父の声が録音されたテープを贈ってくれたんですが、そこに入っていたのは『こんにちは』と『さようなら』の二言だけだったんです。でも私と兄にとって―それは魔法でした。

このダン監督の言葉にあるようにこの映画に登場するエルフは、母子家庭の16歳の誕生日を迎える子供だ。主人公の名前はイアン・ライトフットという。イアンにはバーリーという兄がいて、母のローレルと共に3人で暮らしている。

父が残したカセット・テープに入った、父の声を聴いてイアンは亡き父に思いをはせている。父親はどんな人だったのだろう。父親が生きていたら、キャッチ・ボールをしたかった。人生を分かち合いたかった。そうイアンは自分の手帳に書き記している。

イアンは内向的な少年で、そのイアンの兄のバーリーは内向性が外発的に発散されて、いわゆるハード・ロックが好きなオタクのお兄ちゃんになっている。バーリーはグウィネヴィアというペガサスがペイントされた愛車のバンに乗っている。

このバンが映画中に活躍もすることになるのだが、このバンを見ると映画「ヘヴィ・トリップ 俺たち崖っぷち北欧メタル」で似たようなバンが使われていたのが思い出される。「ヘヴィ・トリップ」では音楽がメタルだが、「2分の1」では音楽がハード・ロックだ。

「ヘヴィ・トリップ」でも似たような容姿の人物が、バンドの移動のためのバンの所有者で、その所有者はバンドのドラムでもあり、食べたものを喉に詰まらせて死にかけたことがある人物で、バンをアクセル全開で踏み切り、突然道に現れたトナカイをよけて死んでしまう。

バーリーはまさにこの人物に重なる。成長の過程にいて、社会のルールの中で自制することがあまりうまくない。自分の感情のほとばしりを音楽に託したヘヴィ・トリップの人物のようにバーリーも自分の情熱を音楽と古代の魔法の歴史に傾ける。

この映画はイアンの救済のための映画と思われる。一見するとそのようだ。しかし、父を失ったのはライトフットの家族だ。父を失い母子家庭になったという現実は、イアンにピックアップして語られるが、バーリーもローレルも悲しみを背負っていることにかわりはない。

バーリーは大学に進学している様子はない。このエルフの国は、きっとアメリカが原案になっているだろう。アメリカの母子家庭の現実は厳しい。食事は学校の給食を当てにして、年収は3万ドルより少なく、子供をひとりにすることができないためにヘルパーを必要とする。

そのヘルパーを雇うお金が原因で、出費がかさみ教育と子供のための預金には、たとえ働いている人でも格差が生じている。

そんな家庭状況の中で救いなのは、兄のバーリーの情熱だ。イアンは父の代わりとして兄が振舞っていることに映画の最後になるにつれて気づくことになる。バーリーは愛情にあふれた優しい兄だったのだ。

映画の舞台のエルフの国では、魔法が科学の便利さに置き換わられている。魔法を使うのが難しいので、皆科学の力に頼るようになったのだ。では、すべてが科学の力で解決できるのだろうか?

それは否だ。科学の力でも叶えられないものが父の存在だ。父の欠如は科学によっては、言い換えれば便利さによっては置き換えられない。父は代替不可能な唯一無二の存在だ。唯一無二の存在は科学によってはもたらされない。

その科学でもってしても叶えられなかった父の復活を、この映画では魔法が果たそうとする。便利さでは置き換えられないもの、それがこのエルフの世界にもあったのだ。それは魔法が可能にしてくれる。

世間ではシンギュラリティーが言われるようになり、科学による飛躍的な技術の進歩が期待されるようになっている。もし細胞の複製に成功して、父の代わりに複製された父が登場したらどうなるのだろう?

科学は魔法の役割を担うようになるのだろうか?魔法、それは、この人間界の現実には存在しない力だ。魔法という空想のゾーンが満たしてくれていた場所を科学が満たすようになる時、その時人はある種の難問から解放されるのだろうか?

 

参考資料

When we’re told to plan for coronavirus, where does that leave single moms? - The Washington Post

Single Mothers Are Surging Into the Work Force - The New York Times

求めている理想

映画「郵便配達は二度ベルを鳴らす(原題:The Postman Always Rings Twice)」を観た。

この映画は1946年のアメリカ映画で、クライム・サスペンス映画だ。この映画の主人公は2人いる。フランク・チェンバースという男と、コーラ・スミスという女性だ。この映画は、このフランクとコーラの愛憎劇を中心にして繰り広げられる。

コーラはニック・スミスの妻だ。そしてフランクとコーラの仲は不倫だ。コーラはニックの財産を当てにして、ニックと結婚している。コーラは色々な男に言い寄られているうちに、男に求められるものは金だけだと悟った女性だ。

愛だ、なんだかんだ言って、男は結局飽きたら他の女の所に行ってしまう。逆に愛情が強すぎても、がんじがらめで身動きがとれない。それなら落ち着いたお金のある年配の男がいいとコーラは考えたのだろう。

つまりコーラは愛よりもお金を選択した女性だ。しかし、そんなコーラの元に、コーラと同年代の強気な男が現れた。それがフランクだ。

フランクは強引にコーラを自分のペースに持ち込む。そしてコーラの中に隠れていた愛欲を目覚めさせる。そしてこの2人の不倫は、事態を深刻な方向に進ませてしまう。

この映画のタイトルにある“郵便配達は二度ベルを鳴らす”とはどういうことか?それは、神様からのお呼びが2度あったということだ。この映画のタイトルについての言及は映画のクライマックスのフランクのセリフから読み取ることができる。

「コーラは二度ベルを鳴らされた。俺も二度ベルを鳴らされたんだ」。このフランクの何かを悟ったようなセリフは、聖職者の前で告白される。映画の終盤であれほど憎しみあった2人だったが、フランクはコーラのことを許す。そしてこう言うのだ。

しかし、そもそもなんでコーラとフランクはこのような不幸な事態に陥ってしまったのか?そう愛はあった。しかし2人にはお金がなかったのだ。

もしこの映画の舞台がアメリカではなくて、北欧のどこかの土地だったらどうだろう?2人は衣食住を国からの保障により確実に手に入れることができる土地だったら?おそらく2人の見舞われたような悲劇は起こらなかったに違いない。

「お金が必要だ」というこの映画にみられるような強烈なメッセージは、いつの時代でもみられる主張だ。すべての土台にはお金がある。お金がなければ、広告にうたわれているような恋愛や家族などを築けはしない。

恋愛や家族の理想像を描いたような映像が、そこら中にばらまかれる。人は無意識にそのメッセージを刷り込まれる。理想に一歩でも近づかなければならない。その衝動に駆られて、今日も人々は生きている。しかし、理想など、こんな理想など本当に必要なのだろうか?

古風な男女観

映画「三つ数えろ(原題:The Big Sleep)」を観た。

この映画は、1946年のアメリカ映画で、映画のジャンルはサスペンスだ。

この映画の主人公は、マーロウという私立探偵だ。マーロウは地方検事の元で働いていたが、ある時私立探偵として、スターンウッド将軍に雇われることになる。

スターンウッド将軍は、度々ゆすりにあっていた。スターンウッド将軍には2人の娘がいる。ビビアンとカルメンだ。映画ではこの2人の娘が問題児で、その弱みに付け込まれて、スターンウッド将軍は金を周囲の連中からせびられている。

スターンウッド将軍は、お金持ちの病身の父親だ。娘2人は不良娘。娘たちと付き合う男は、スターンウッド将軍の金目当ての男たちだけ。金の周囲には多くの人間がたかるというわけだ。

この映画では、不良娘カルメンの殺人を隠すがために、次々と殺人が起こる。映画を観ている者は、映画の筋書きよりも、映画のテンポに乗せられて映画を観終える。そして最後には、伏せんが回収されないままの部分を残して、映画は2人の美男と美女で終わる。

そうこの映画の命はテンポなのだ。つまり、主人公マーロウとヒロインのビビアン役の俳優は見栄えが良いので、2人を画面に常に登場させておき、そこに殺人が起こるとますます人目をひくというわけだ。

この映画の中では、2人の娘が登場するのだが、この2人はとにかくマーロウからぞんざいに扱われる。それに負けじと2人の娘も、マーロウに対して強気だ。特にカルメンに関しては、マーロウにビンタを数発くらわされる。

マーロウは口調からして女性を常に下に見ている。しかし、マーロウの態度は将軍に対しても、誰に対しても悪いと映画を観ているうちにわかってくる。つまり、ハードボイルドな男は態度がでかいやつに見えるのだ。

マーロウは常に自信に満ち溢れていて、震えながら銃に弾を込めるのだが、その時マーロウは「俺だって恐いんだ」と言う。しかし、このマーロウの姿は実に勇敢な男そのものだ。つまり、女のために命を張る男なのだ。

この映画の明確な筋はなかなか見つけられない。ただ、かろうじてわかるのは、カルメンが殺人を犯してしまったこと。それが世間で知られないようにマーロウが体を張っていることだ。

男女観も古いもので、物語が複雑な本作は難解な映画の部類に入ると思われる。古風な男女観は今を生きる人たちに多少わかりづらいだろう。そして本作のプロットは難解極まりない。

金と私情のもつれ、脅し。これらの要素が、この映画の中にはふんだんに取り込まれている。この映画は1946年が現在に蘇るといかに不思議な時代であったかを教えると同時に、この映画の通時性も示している。

独占欲

映画「ギルダ(原題:Gilda)」を観た。

この映画は、1946年のアメリカ映画で、犯罪サスペンスホラーとでもいうような、フィルム・ノワールの映画だ。

この映画の主人公はジョニー・ファーレンというばくち打ちの詐欺師だ。ジョニーはアメリカからアルゼンチンにやって来た、風来坊のばくち打ちの詐欺師だ。詐欺とはばくちでジョニーが行ういかさまのことだ。

サイコロを使った賭け事をして、その際使われるサイコロをジョニー自身が用意し、サイコロにジョニーが仕掛けをして、詐欺をはたらく。つまりいかさま詐欺師がジョニーだ。

ジョニーはアルゼンチンに来て、とある事件がきっかけで、賭博の経営者であるバリン・マンスンに雇われて働くことになる。そしてそこにはバリンの妻であるギルダ・マンスンが現れて、恋の三角関係が始まることになる。

この映画は不倫一歩手前の恋愛と、刑事事件と、経済的なことが並行して起こる映画だ。

バリンはタングステンという物質の独占をしようとしている人物だ。独占を生じさせるために、バリンは手段を選ばない。自身の野望のために他人の命を奪うことをいとわない。

バリンは会社の経営者をコントールしようとする。というかコントロールしている。「お前はA会社から物を買うな」「でもA会社がないと、われわれのB会社は潰れてしまいます」「そんなのは知っている。金をいくらかやるから、A会社とは取引するな」というように。

とにかくバリンは会社を持つこと、物質をコントロールすることで会社を持てるような力を手に入れることを目指している。

そんなバリンが妻にする相手が、この映画のタイトルにもあるギルダという女性だ。しかしこのギルダには過去があった。ギルダとジョニーは付き合っていた仲だったのだ。この事実をバリンはつかんでいたが、ジョニーとギルダはその事実をバリンが知らないと思い、2人の過去を表面に出そうとはしない。

この映画の中に出て来る男はジョニーといい、バリンといい独占欲が強い。世界中の物質をコントロールしようとするバリンだが、ギルダも同じように独占しようとする。

そしてそれに劣らずジョニーもギルダを自身のものだけにしようとする。

夫以外の男のキスもセックスも許さないのが、ジョニーとバリンだ。ここで現在の社会を見てみよう。夫婦の間ではセックスするのは当然とされる。付き合っている2人も当然セックスするだろう。不倫のセックス?それも多分ありえるのだろう。

しかし、形式的に不倫は悪いものとして扱われる。人間の性と、結婚制度は両立するものなのだろうか?こうも思う。夫婦間以外のセックスは法律上で禁止されると一体誰が主張しているのか?なぜ結婚は神聖視されるのかと。