結婚って何?

映画「飾窓の女(原題:The Woman in the Window)」を観た。

この映画は1944年のアメリカ映画で、犯罪スリラーとでもいえるフィルム・ノワールのくくりに入る映画だ。この映画を観終わった後に得られる教訓はこうだ。「浮気なんかすると、ろくでもないことになるぞ」だ。

この映画の主人公は、リチャード・ウォーリーという大学教授で、大学で殺人の心理学的側面を研究している。ウォーリーには娘と息子と妻がいる。

ある時ウォーリーは男友達と家族なしで会うことになる。ここでポイントなのは家族から解放されたというところだ。この映画の中で家族から離れた男は何をするのか?それは普段できないことだ。

男の場合それは、酒を飲んだり、妻以外の女性を口説いたりすることになる。ウォーリーの友達は、ウォーリーを残して夜の街へ女性を探しに出かけて行く。ウォーリーは堅物とみられていたためか、その誘いを拒否する。

ウォーリーが10時半に起こしてくれと、ホテルの給仕に言い、眠りから目を覚ますと、目の前に絵画のモデルになるほどの美人が登場し、ウォーリーを自分の部屋に誘う。

ウォーリーは堅物の態度をとりつつも、美女の誘惑に負けてしまい、ウォーリーは美女の家に行く。美女の家でウォーリーは、美女の愛人を殺してしまう。美女の愛人は、有名な大企業の社長だった。

犯罪を犯してしまったウォーリーは、どうなってしまうのか?つまり罪を犯していながらも罪から逃げ出すことは可能か?それがこの映画の焦点になっている。

はっきり言ってしまうとこの映画はいわゆる夢オチだ。つまり犯罪を犯してしまったのは実は現実ではなく夢の世界でしたというものだ。

この映画は「ウォーリーは殺人なんかしていませんでした。もし浮気なんかするとろくなことにならないぞ」と主張する映画だ。

警察の捜査をかわしたり、ゴロツキのゆすりを断ち切ろうとしたり。この映画は、理想的な中流階級の堕落してく様を人々に見せている。

しかし、この映画は映画を観る者の多くに共通前提となっている幸せな家庭を否定するものではなく、幸せな家庭以外に他に道はないことを示す。家庭というものと相性がいい人間がいるとする。

相性が良くても別の時期になったら急に家族が疎ましく思える時がやってくるのかもしれない。

アメリカで1950年代に誕生したと言われている良き家庭像はあらゆる国に広がっているようだ。特に先進国と言われるアメリカやヨーロッパなどでは、幸せな家庭という像が普及している。

頼りになる父と、優しい家事をこなす母と、遊びと勉強に忙しい子供たち。果たしてこの像はどこまで実現可能で、どこからがただの負担なのだろうか?

教養と愛情

映画「ローラ殺人事件(原題:Laura)」を観た。

この映画は1944年のアメリカ映画で、ある女性の殺人事件をめぐるミステリー映画だ。

この映画で主人公となるのはマーク・マクファーソンという刑事だ。そしてマークが担当することになるのが、ローラという女性の殺人事件だ。そうこの映画の邦題にも原題にもあるローラのことだ。

最初に結論を言ってしまうと、ローラは殺されてはなかったということだ。ローラは殺されたと思われていたが、実は別の女性がローラと間違われて殺されたのだ。

そのローラと誤認されて殺された女性の名前はダイアンという。ダイアンはローラの婚約相手の交際相手だ。ローラの婚約相手はローラ以外にも女性と付き合っていた。

この映画の始まりの方で、いかにローラが上流階級の人間あるウォルド・ライデッカーにより淑女に作り上げられていたかが物語られる。ウォルドは要は知識人で、ラジオの番組を持っているような大衆に人気の上流知識人だ。

ただし、上流といっただけでその人間の人間性までもが保証されているわけではない。知識人を人は信用するが、知識と人間性とは別のものだ。かつてナチス・ドイツの上位の者たちが高い教養を持っていたことからもわかるように、知識と人間性は比例しない。

この映画をザックリと言ってしまえば、マーク・マクファーソンという常識的でまともな人と、ウォルト・ライデッカーという偏執的な人物、そしてローラ・ハントという博愛の人物が織りなす人間劇だ。

マークの視線は映画の観客の視線と重なる。ウォルドの視線に人々はおぞましさを感じる。そしてローラ・ハントの博愛さに人は魅了される。

ナチスを例に出したが、日本でも勝ち目のない戦争に人々を引きずり込んでいったのは、日本のエリートたちだ。戦争に高揚して人々を戦場へ送り込み、飢え死にさせる。それが日本の1900年代初期から半ばにかけてエリートたちが行ったことだ。

ローラはウォルドを愛し、ジャコビーを愛し、シェルビーを愛する。ローラは愛する気持ちに正直に生きようとするが、なかなかウォルドの洗脳的な愛し方から脱することができない。

ローラの求める愛は必ずどこかに欠乏があり、その欠乏を見せつけられるとローラは恋を諦めざるえなくなる。よく知られていることだが、この世に完全なものなどない。当然人間の愛についてもそう言える。

完全な愛などはない。しかも愛の形も不定形だ。人はただ、愛していると言えるような状態を続けたり断ったりしているだけだ。

愛欲は規定はできない

映画「深夜の告白(原題:Double Indemnity)」を観た。

この映画は1944年のアメリカ映画で、クライム・サスペンス映画だ。

この映画の主人公はウォルター・ネフという保険会社のセールスマンだ。ネフはとある大きな家に自動車保険の更新に行き、その家の美人な女性、つまりその家の家長の妻であるフィリスと出会う。

ネフはフィリスに1目観た時から恋をする。恋をするというと肉欲から遠い印象が与えられるかもしれないが、このネフのフィリスに対する恋とは、簡単に言ってしまえば恋から遠いはずの肉欲だ。

ネフと初めて会う時のフィリスは裸にタオルを覆っているだけの姿だ。恋をするというよりも肉欲を感じたと言う方が合っている。

ネフは保険のセールスマンであり、保険に詳しい。もちろんどのような条件で、保険がいくらおりるかまで詳しく知っている。

そしてネフに欲情されたフィリスは、夫を愛してはおらず、お金が欲しいと思っている。フィリスの夫、ディトリクスンの存在は、ネフとフィリスの両者にとって好ましくないものだ。2人の利害はここに一致する。

つまり、この映画は保険金詐欺と愛欲のもつれを描いた物語だ。

この映画で印象的なのは、ネフが煙草を吸う時に、マッチ棒に片手で火を点けるシーンだ。

ネフの同僚にキーズという人物がいる。キーズは保険調査の仕事をしており、保険会社が保険金詐欺に遭わないか見張っている。

キーズが煙草に火を点けようとすると、ネフが片手でマッチに火を点けて、キーズの煙草に火を点ける。その着火のシーンが印象的だ。そして映画中ネフは何度かキーズにこう言う。「I Love You」と。

そうネフはキーズに対して愛していると何度か口にする。ネフが、キーズが、煙草を吸うシーンと、この愛しているという言葉は、まるでセックスの比喩がここで描かれているのかのようだ。

そうならば、その比喩が実際の行為の代替ならば、この映画の中で描かれる性的表現は豊かなものになる。

こう勘ぐっていると、映画を観ているものはこう思う。ネフはキーズを愛していて、フィリスとの愛欲に溺れたいと思っていると。

この映画の中心として描かれるのは、ネフとフィリスという策士による保険金詐欺の展開とその顛末だ。

しかし、主人公のネフの愛欲のようなものは、フィリスにも、キーズにもそして殺されるディトリクスンの娘であるローラに対しても存在する。

通俗的に愛情とは男と女の間の1対1の関係として描かれる。それが世の中の通説になっている。しかし、現実の性愛というのはどういったものか?それはこの映画のネフの人間相関図に現れているように単純に言い切ってしまえるものではないのだ。

真実を語る

映画「ハーフ・オブ・イット 面白いのはこれから(原題:Half of It)」を観た。

この映画は2020年のアメリカ映画で、映画のジャンルはロマンティック・コメディだ。

この映画には主に3人のメインの登場人物がいる。エリー・チュウとポールとアスターがそのメインの登場人物だ。

エリーは中国系のクイアの女の子だ。エリーの母親はエリーが幼い頃に死んで、駅の関係の仕事をしている父親とエリーは暮らしている。その父親は英語が不得意でそのせいで移住先のアメリカで希望のエンジニア系の仕事に就くことができなかった。

エリーは毎日、自転車で学校に通っている。同年代の学生は車に乗って通学してくる中で。エリーの父親は高給の仕事に就いているわけではない。だからエリーの家は電気代の支払いが遅れて電気代を止められそうになっている。

そんな貧困の中で、エリーは少しもめげていない。エリーは同級生のエッセイの宿題を代筆して生活費を稼いでる。一つのエッセイにつき20ドルから25ドルの代金をとって。電気代もこの方法で支払うことになる。

エリーの家の電気代の支払いの収入源になるのが、ポールからの仕事だ。ポールは体育会系の男子で英語には弱いが、気のいい青年だ。電気代の支払いに困ったエリーは、ポールからの仕事を渋々受け入れる。

なぜ渋々なのか?それは、ポールの依頼が原因だ。ポールはアスターという学校の中のイケてる女の子に恋をしていた。アスターを好きだったのはポールだけではない。エリーもアスターが好きだった。それをエリーは周囲に告白できない。

エリーの住んでいるのはアメリカのコテコテの白人社会の田舎の街だ。その保守的な風土の中でカミングアウトすることは簡単なことではない。ただでさえ中国系という点で疎外感を抱いているエリーだ。カミングアウトは無理だ。

ポールはそんなエリーにラブレターの代筆を頼んできた。ポールは英語が苦手なので、エリーにアスターへのラブレターの代筆を頼んできたのだ。エリー渋々ラブレターを書くのだが、その代筆業はずるずると続いてしまうことになる。

映画中、アスターの父はプロテスタント系の教会の牧師であることが明らかになる。アスターは神に常に問いかける女性だ。真実を内に秘めて。アスターには学校の人気者の彼氏がいたが、そこにポールからの手紙が来る。

アスターはポールの手紙の内容をいたく気に入って、メールのやり取りをするようになる。もちろんアスターの手紙とメールの相手はエリーだ。エリーは代筆で、自分のアスターへの気持ちを表現していた。しかし、その手紙やメールは偽りなのだが。

アスターへの手紙とメールは詐欺だ。相手を欺いてポールとエリーはアスターと交流している。明らかにラブレターの代筆は悪質だ。なぜなら、ラブレターとは赤裸々な内心の告白であり、その行為には大きな代償が支払われるからだ。

ラブレターの大きな代償とは真実の告白だ。人には自分の内面を隠して生きる人もいる。アスターは内心では、イケてるグループを疎んじていて、そのグループに対して好感を持っていない。

そのアスターの内心が周囲にばれてしまったら、アスター島国根性の田舎でのけ者にされるだろう。アスターが本当の気持ちを書くことには代償が伴うというのはそういうことだ。エリーとポールはアスターを罠にはめている。

この映画では、プラトンサルトルカミュオスカー・ワイルドなどの文学者や、ヴィム・ヴェンダースやヘップ・バーンやフィラデルフィア物語のような映画監督や映画俳優そして映画作品への言及がされる。

それはアスターが文学的な女性だという設定によるものだが、その中でもサルトルの言葉が良く響く。それは「地獄とは他人のことだ」という、「出口なし」という戯曲の一節だ。まさにアスターやエリーに当てはまることだ。そして、ポールにも。

恋人を見つけるとは、人生の真実を語ることができる相手を見つけることだとこの映画は語っているようだ。他人が地獄ならば恋人は他人ではないというわけだ。だからこの映画のラブレターの代筆は重く響く。

人は真実を語りたがる。それはエリーの父親もそうだ。エリーの父親は語学力が原因で仕事の採用に失敗した。エリーの父は愛する妻を失い、職場も断たれ、自分自身というものを表現する機会を奪い取られた人間だ。

エリーの父は、真実の告白をはく奪された人間だと言っていいかもしれない。そんなエリーの父の心のよりどころはエリーだ。真実をすべて話せるわけではないかもしれないが、エリーは父の心の支えだ。

果たして人はどこまで真実を話すことができるのだろうか?黒澤明監督の映画「羅生門」のように、真実とは人の数だけあるのかもしれない。真実は何かと特定することは実は難しいのかもしれない。

恋人は真実を話せるという思いを、ただの思い込みの一種としてしまうこともできる。真実を語るロマンスと、ロマンスを語る手紙やメール自体が詐欺だという映画の中の真実。

ロマンスを利用した信用詐欺それがこの映画の大体の流れだろう。しかし、その詐欺行為の中で、アスターを傷つけた代償としてエリーとポールは大切なものを得る。それは真実を語るべきだという純然たる事実だ。真実が人の数だけあるとしても。

自分がそれを愛している、好きだと思ったら、もしそこに行為の公共的利益があるのならば、その気持ちを曲げてはいけない。エリーのカミングアウトは、それに続く人たちを勇気づけるのだから。真実は人の数だけあるのだから。

戦争で金儲け

映画「拳銃貸します(原題:This Gun for Hire)」を観た。

この映画は1942年のアメリカ映画で、犯罪サスペンス映画だ。

この映画には2人の中心人物が存在する。1人はレヴンという殺し屋で、レヴンがこの映画の表面上の主人公ということができるかもしれない。もう1人の主人公は実験的な主人公で、エレン・グラハムという女性だ。

この映画の舞台設定は映画公開時と同時代の1942年頃だ。時は第2次大戦の真っ最中だ。アメリカは当時日本と戦争をしていた。

この映画の中に登場する黒幕は2人いる。1人はブルースターという化学会社の社長だ。もう1人はバーネットというアメリカの上院議員だ。前者の化学会社の社長のブルースターは戦争を商売の道具としている。

映画中でそれはこう描かれる。ブルースターは毒ガスを作ってそれを日本に売り、アメリカ国内では対毒ガスマスクを売り出すといった形だ。要は、ブルースター軍産複合体の一部だ。

戦争はブルースターにとってはお金儲けの手段だ。

もう一方のバーネット上院議員の差し迫った問題は、国防だ。アメリカが戦争で負けることが、バーネット上院議員にとっての問題なのだ。そしてこの映画の中でバーネット上院議員ブルースターの持つ化学会社を敵視している。

上院議員にとっては戦争が長引いて、アメリカが戦争に負けることは最も避けたいことだ。それに対してブルースターは、戦争が続けば続くほど儲かる。バーネット上院議員ブルースターに対抗するために、女性を雇うことになる。

その女性が実質的な主人公のエレン・グラハムだ。グラハムは殺し屋であるレヴンや、恋人の内の1人の警官であるマイケルや、アメリカのスパイだが今はブルースターの手下であるゲイツといった人物の間を飛び交う。

そしてグラハムは最終的に、バーネット上院議員からの依頼を達成することになる。つまり、グラハムの活躍によって、戦争を金儲けの手段とする軍産複合体の社長ブルースターを倒すことに成功するのだ。

一方で表面上の主人公であるレヴンは、表面上はグラハムを支配して、レヴンの生存維持のために利用しているように見えるのだが、実はレヴンがコントロールされていることに、この映画ではなっている。

つまり表面上の支配者はレヴンであり、マイケルなのだが、実質的な支配者はエレン・グラハムだ。この映画の中で描かる女性スパイはあまりにも鮮やかに人を魅了する。

我々は王だ

映画「へレディタリー/継承(原題:Hereditary)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、ある家族を描いたホラー映画だ。

この映画の中心となるのはリー一家だ。リー家は、父スティーブ・グラハム、母アニー、長男ピーター、妹チャーリーから成る4人家族だ。この4人が映画が進むにつれて、どんどん悲惨なことになっていくのがこの映画の筋だ。

家族というのは集団だ。家族は1人だけでは生きてくのが困難な人間という生命が、生き抜いていくために選び出した形式だ。よく言われることだが、人は1人で生きて行けるわけではない。

もしかしたら、アラスカの奥地で自給自足の生活を送っている人もいるかもしれないが。しかし、そのアラスカの住人でさえも、生まれた時は母親から生まれてくるはずだ。そしてその子供が生まれるためには父親も必要だ。つまり人は生まれた時から誰かと一緒だ。

集団を成り立たせているのは規則だ。規則がなければ集団は存在しないし、規則がなければ人は生き抜いていくことが困難だと考えられる。少なくとも人は、規則がなければ生きて行けないと思い込んでいる。

もしかしたら生きていくのに規則は必要ないのかもしれないが、ここでは生き抜くために規則は必要だと考えることにしたい。

規則というものはいつの時もその時の状態で万事オーケーというわけではない。規則は時に緩み、時にさらに進んで崩壊する。つまり規則はいつの時代も万能であるわけではない。規則を再構成する必要はいつの時もあるのだ。

そして規則を再構成するために行われるのが儀式だ。この映画でその儀式を行うのは家族だ。リー家の長男のピーターを王として最終的に仕立てることで、この家族はとある宗教のための規範の再構築を行う。

そしてこの家族の反社会的な儀式によって、規範を再確認しているのは、映画を観ている観客なのだろう。

映画の中で、ピーターの妹、父、母が犠牲にされる。とある宗教つまりそれは現実の観客の生きる世界のために彼女たちは犠牲にされる。

王を必要としているのは、この現代という混沌とした時代に生きる我々であるとこの映画は言っているように思える。

王は必要か否か?きっと王は必要ないのだろう。

この映画は我々1人1人に向けられていて、ピーターと同時に観客も主体性を確立していくことになる。つまり我々1人1人が王であるということだ。我々1人1人が王である以上、その上に立つ王の主など必要とされないのではないだろうか?

女性の前にある壁と、女性の頭上にある天井

映画「パッドマン 5億人の女性を救った男(原題:Pad Man)」を観た。

この映画は2018年のインド映画で、ラクシュミカント・チャウハンというインドに住む男性についての伝記映画だ。

ラクシュミ=パッドマンであるが、ラクシュミはいかにして5億人の女性を救ったのか?

まずこの5億人という数字だが、これは映画の舞台となっている2001年当時のインド人女性の人口5億1805万4941人とみることができる。つまり、ラクシュミは、インドの全女性を救ったのだということになる。

ではラクシュミは何からインド人女性を救ったのか?それは、ラクシュミは衛生的な生理ナプキンを作って、生理ナプキンが使用できないがために起こる女性の命の危険から、女性たちを抜け出させることに成功したのだ。

2001年当時のインドでは、女性は整理が来ても、生理用ナプキンを使うことはなかった。布や灰などで生理の経血を隠していた。その布や灰が原因となって、女性が妊娠できなくなったり、時には死に至ることもあるのだ。とこの映画の中に登場する医者が説明する。

この医者の説明を聞くまで、ラクシュミは女性の生理の現実を知ることがなかった。多くの男性がそうであるように、生理についての理解は男性にないことは珍しくない。学校教育で、生理について教えられるか、家庭がオープンでない限り、男性が女性の生理について知る機会は少ない。

ましてや生理の状態について知っているのは女性なのだ。なぜなら女性は言うまでもなく生理の当事者なのだから。

しかし、なぜ女性の間に、インドの女性の間に生理ナプキンは普及してなかったのか?それは、生理ナプキンの価格が高額だったことにある。

最終的にラクシュミが発明した方法で作られた生理ナプキンは、2ルピーで売られることになる。しかし、このラクシュミが売り出した2ルピーのナプキン以前にインドで売られていた生理ナプキンの値段は55ルピーだ。

2ルピーの生理ナプキンは一般の家庭でも買える価格なのだが、55ルピーはその25倍であったのだから、一般の家庭で生理ナプキンが買えないのも無理はない話だ。生理ナプキンに出しても良いと思える価格が55ルピーの25分の1だったのだ。

封建的な国では男尊女卑の態度がとられることが多いのだろう。日本でも、中国でも、アメリカも、イギリスも、どこの国でも男性を優位とする体制が残存しているところは多い。

ガラスの天井という言葉があるが、それは女性が今以上の地位に就こうとすると強い抵抗に遭うという言葉だ。女性を抑圧する精神構造、社会構造は変わりつつあるとしても。