格差社会の縮図

映画「上海から来た女(原題:The Lady from Shanghai)」を観た。

この映画は1947年のアメリカ映画で、映画のジャンルはサスペンスだ。

この映画の主人公は、マイケル・オハラというアイルランド人の船乗りだ。この映画は、マイケルが、アーサー・バニスターという刑事弁護士と、その妻のエルザに拾われるところから話は始まる。

簡単に結論を言ってしまえば、この映画は、お金持ちが貧乏人を利用して楽して生きようとする話だ。ここで気付くことはないだろうか?そう、いつの時代も人間は考えることが変わらないということだ。

楽して生活したいが、人間の目標になるのだ。お金持ちが貧乏人を利用して楽して生活をする。この事実は、まさに我々が生きている現実そのものだ。世界の上位数パーセントが、世界の最も貧しい50パーセントの人口の財と同じだけを持つというオックスファムの調査は今や有名な話だ。

世界の上位者が、世界の富を独占しているという事実を、数値を通じて明瞭に示した人物にフランスの経済学者トマ・ピケティがいる。トマ・ピケティの著書「21世紀の資本」は、まさに金持ちが富を独占している状況を示したものだ。

ピケティは労働による所得よりも、資本による収益、つまり不労所得の方が多くなることを示した。労働して稼がれたお金よりも、労働せずに金融などの資産運用で、体を使って労働したものでない場合よりも多くを手に入れる。

この事実に何かふと行き過ぎたものを感じるのではないだろうか?金が金を生み出す。数字が数字を動かす。物は生じないのにお金が生じる不思議さがここにある。

この映画から導き出される教訓の1つに、人は自分の思うように自分の周囲の人をコントロールすることはできないというものがある。アーサーとエルザは、自分の思うとおりに人を、例えばこの映画の主人公マイケルをコントロールしようとする。

マイケルをコントロールしようとすればするほど、登場人物は困難な局面に追い詰められていくようだ。少なくともこの映画を観ているとそう感じられる。コントロールすることにより自分を中心とした帝国を誕生させる。それは、この映画の中と外の世界つまり現実の世界で現に今起こっていることだ。

世界の富の多くを上位数パーセントが握っているこの現実が、我々の前にはある。この映画も現実も同じだ。コントロールすること、支配することにより自らの安寧を得ようとする。支配するものはますます富み、支配されるものはどんどん貧しくなっていく。

世界を見渡す富める数パーセントと、自分の足元すらおぼつかない貧しい人々。この2つに世界は2分されているのか?格差社会という言葉は、最近既に定着した感があるが、この映画では格差の縮図が描かれている。