パラノイアと知性

映画「アンダー・ザ・シルバー・レイク(原題:Under the Silver Lake)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、映画のジャンルはコメディだ。

この映画の主人公はサムという青年で、職に就かずに、家賃の滞納で、住んでいるアパートから追い出されそうになっている頼りない男だ。

このサムという青年が、サラという女性が失踪したために、サムがサラを探すというのが、この映画の筋だ。

この映画のジャンルはコメディであると書いたが、この映画の内容がとても奇妙なのがこの映画の実際のところだ。

サムという男性は、パラノイアにかかっているように思われる。パラノイアとは妄想癖のことだが、しかし映画の中の事実が、つまり映画の映像が、サムの考えていた通りに進む。そこがこの映画の奇妙な点の理由だといえる。

つまりサムはサラを見つけだすために様々な推理を立てるのだが、その推理がとても非現実的な根拠に基づいているのだ。例えばサラが失踪した部屋の玄関のドアに示された記号には意味があると、突然思いついたように言い出したかと思うと、その記号の解読が原因となって映画の話が進展してく。

その他にもこの映画を繋ぎ合わせている各要素が、現実で生活していくためには使えないようなパラノイアに陥った精神状態により、次々に繋ぎ合わされ展開していく。

サムはなぜサラを探すのか?それはサラが自分の失ったもの、つまりサムの元恋人を連想させるものだったからだ。サムは失恋をしていて、その理由を探しているのだ。サムのパラノイアの引き金になったものはサムの失恋だ。

サムがどうしても見つけなければならないもの。それはサムの失恋の理由だ。しかし、人は失恋の理由など、実際にはっきりと見つけることができるだろうか?僕が失恋した理由はこれで、これは必然だったのだと言い切ることができるのか?

人生は数多くの偶発性により成り立っている。人生には、もしもがあり得る。つまり、人は将来を考える時に、過去を考察する。その時人は、もしもを考えることができる。そして人は、もしもを考えれば考えるほど、人生の偶発性に開かれればならなくなる。

こうも言える。人は、人生が偶発的であることを考えられるほど知的であるのかもしれないと。偶発性とは予想不可能性なのではない。偶発性とは、予想することにより生じる知性のなせる業だ。

サムは失恋に出会うことにより、人生の偶発性に触れることになる。失恋が偶発的であることを受け入れると言う知的な作業にサムは戸惑いながらも、物語の終わりまで人生を繋ぐことに成功する。サムは偶発性を馴致し癒されるのだ。

既存から未知へ

映画「サバ―ビコン 仮面を被った街(原題:Suburbicon)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、とある白人至上主義の街に住む家族を描いた物語だ。

この映画の日本語タイトルの副題には「仮面を被った街」とある。この仮面を被った街というのは映画の舞台となっているサバ―ビコンという白人至上主義の白人から構成される街だ。

仮面とは白人至上主義の上での正義という偽善のことを指していると考えられる。つまり、サバ―ビコンとは名目上は楽しい豊かな街という建前を持っているが、裏を返せば、白人以外の人種を排除しようとするダークな面が見える。

この映画の中心となる家族は、ガードナー・ロッジを家長とする一家だ。そして、この一家の隣に引っ越して来るマイヤーズ家もこの映画の一側面を描く題材となっている。

この映画の筋を簡単に言ってしまうとこうだ。

この映画は保険金詐欺を描いた映画で、その保険金詐欺をしている白人の家の隣には、黒人のマイヤーズ家が引っ越して来ると。つまり白人を象徴するのがガードナーを家長とする家族で、黒人の勇気を象徴するのがマイヤーズ家だ。

この映画の中で信頼できる大人は出て来ない。信頼できそうなのは、ガードナーの息子のニッキーと、隣のマイヤーズ家の息子アンディだけだ。後の大人は、みんな大人の世界、つまり白人至上主義が支配する矛盾に満ちた世界の住人だ。

ただ子供たちだけが、この大人の世界に入る手前にいて、まだこの腐った世界から救出可能のように見える。

この映画は単純な家族映画に見せかけて、セックス、ドラッグ、バイオレンスに満ちた映画でもある。子供が銃を構え、父親がバールを振り回し、叔母は食事に薬を混ぜる。崩壊した家庭の建前上の成立がこの映画では描かれている。

ただ腐敗した大人の世界を変えてくれそうな存在もいる。それは、黒人一家だ。ただこの映画の両親は、差別という抑圧のために感情を押し殺してはいるが。

子供は純粋で、大人は汚れているというのは非常に単純でありふれた図式だ。子供が罪を持たないというのは、時と場合によっては例外もあり得る。しかし、差別を実際に能動的に主体的に強く押し出すのは、子供ではなく大人だ。

大人の世界にこそ変化が必要とされているのが、この映画の中で描かれている世界だ。善良なアメリカ人のイメージは、白人至上主義のアメリカと完全に重なってはいないか?その重なりをずらしていくのが、これからの時代に生きる人々の役割だ。

信じることが当たり前?

映画「イット・カムズ・アット・ナイト(原題:It Comes at Night)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、映画のジャンルはホラーだ。

この映画には2つの家族が登場する。この映画の世界は、異常な事態が発生している。この映画の中で描かれる世界では、ある病気が発生していて、その病気とは感染症だ。

映画の冒頭で、ポールを家主とする家族のポールの義理の父親が火葬される。ポールの義理の父バドは、皮膚にふきでものができており、何らかの病気に感染している様子が描かれる。

バドを葬った後に残された家族は、ポールと、その妻サラ、そして2人の息子のトラヴィスだ。

ある時、ポールたちが住んでいる家に、ウィルと言う男がやって来る。ウィルは手荒い扱いを受けるが、ポールの元へ家族連れでやって来ることになる。

ウィルの妻はキムと言い、2人の息子はアンドリューと言う。

この映画の中で描かれる世界では、ポール一家は懐疑的な人たちとしても描かれている。それに対してウィルの一家は温和な家族だ。

ポールもサラもトラヴィスも警戒心がとても強い。ポールはトラヴィスに言う。「親切そうに見えても心を許してはダメだ」と。ポールの考えは、人は性悪であるから、信じるなというものだ。信じていいのは家族だけなのだと。

ホッブスリヴァイアサンという著書の中で、人は放っておくと争いを始めると言っている。人はすべての人が仲良く暮らすほどができるほど善良ではないのだと。

この考え方で、人間が生き延びる方法は、他人を常に疑いの目で見て、守りの態勢を崩さないあり方か、仲介者となるものを人と人との間に置くかだ。後者の仲介者として登場するのが国だ。時によっては王様であったかもしれないが。

要するにお互いが便益を得るための仲介役を契約により作り上げるのだ。

これに対して、国など必要ないという考え方もある。それは人の性が善であることを信じている人々が好む考え方だ。それをアナキズムという。

人は人を信じているし、人は人を殺すほど悪ではない。人と人との仲介役として登場した国家というものが、実は人と人との戦いの原因なのだ。そうアナキストたちは言うだろう。権力は腐敗する。

人は善なのに国家は悪だ。それがアナキズムだ。人は性悪か?この問いはなかなか解けないもののように思われる。しかし、先の大戦を思い出してもわかるように、戦争を始めたのは国という崇高な共同体だ。だとしたらアナキズムに希望を見い出すことはできないのか?

コントロールする人がコントロールされる

映画「女王陛下のお気に入り(原題:The Favourite)」を観た。

この映画は、2018年のアイルランドアメリカ・イギリス合作映画で、この映画の舞台は18世紀のイングランド王国(後にグレートブリテン王国になる)だ。

この映画の主要な登場人物は3人の女性だ。王国の直接的な支配者であるアン女王。アン女王に政治的なアドバイスをするサラ。没落貴族の娘で、経済的安定を求めているアビゲイル

この3者の間に存在するのはコントロールだ。サラは、アンをコントロールする。アビゲイルもアンをコントロールする。サラのアンへ対するコントロールは、サド的サドコトロールと言えるかもしれない。

要は、サラはアンを上から目線で支配するのに対して、アビゲイルは、アンをアビゲイル自身を押し殺すかのようにして、実はコントロールしている。

前者を支配的サドと呼んでもいいかもしれないし、後者を自滅的サドと呼んでもいいかもしれない。サラもアビゲイルも、アンをコントロールすることに対しては等しい。しかし、そのコントロールする仕方が異なる。

サラは強引に愛して、アビゲイルは優しく愛する。しかし、そのどちらかがアンにとって良いのかは不明だ。

そもそもこの映画の中で、一番強力なコントロールの力を手にしているのはアンだ。しかし、強力なコントロールほど、強力な自己滅却を指向し、その強力なコントロールを持つ人間は孤独だ。

なぜなら、他人を支配しようとする人間に好んで近づいていく人間は、多くはいないし、いたとしても、その友人の目的はコントロールを持つ人間をコントロールすることだからだ。

この映画の中で、アンは情緒不安定で、過食症で、神経質で、痛風持ちで…というように重複する病状を持つ人物として描かれている。アンは支配すればするほど、気を病み、増々コントロールし、コントロールされる人間になっていく。

コントロールが生み出すものは、虚しい報酬と孤独だけだ。孤独は人の心の中に猜疑心を生み出す。よってますます孤独になり、増々コントロール過剰になる。

この映画には、宮殿が登場する。宮殿というのは、主が支配するために作り出した管理社会だ。決められた時間に、決められた服装で、決められた範囲内で活動する。そこにあるのは管理で自由ではない。

この映画で描き出される宮殿とは、まるでひとつのディストピアのようだ。何もかもが、規範に沿って作られている。服もスカートもボタンも。すべてが規格された管理の賜物だ。その機械的な反復に人は魅せられている。

優しい視線

映画「夜の人々(原題:They Live by Night)」を観た。

この映画は1948年のアメリカ映画で、映画のジャンルはフィルム・ノワールだ。

この映画の監督は、1911年生まれで1979年に没したアメリカ人映画監督のニコラス・レイだ。ニコラス・レイ監督はジェームス・ディーン主演映画「理由なき反抗(原題:Rebel Without a Cause)」を撮った映画監督として有名だ。この作品「理由なき反抗」はオスカーにノミネートされたニコラス・レイ監督の唯一の作品だ。

映画「理由なき反抗」でニコラス・レイはジェームス・ディーンの即興の演技を取り入れた。この時44歳のニコラス・レイは、24歳の若き俳優の実力を認めていた。ニコラス・レイは若者に対して非常に理解のある監督だ。

若者への理解という点では、この映画「夜の人々」でも共通している点だ。映画「夜の人々」では、ボウイとキーチーという若い2人の男女が中心となって話が進んで行く。この映画「夜の人々」の製作当時、ニコラス・レイ監督は37歳で、ボウイの年齢が23歳に設定されている。

映画の製作には大体2年かかるという話だから、ニコラスが35歳の頃には、この「夜の人々」という映画は製作が開始されていただろう。ニコラスも35歳だったという点で、ニコラスは若者に感情移入しやすい年齢ということもあったのかもしれない。

若者への理解という点では、自らの苦労した若い時代の日々が、ニコラスの若者への共感、特に若い俳優への共感や信頼といったものに反映されているのかもしれない。

映画「夜の人々」はニコラス・レイにとって初の監督作品だったが、この映画「夜の人々」は当時アメリカでは公開されずに、イギリスで先に上映され、イギリスで高い評価を得ている。若き才能はアメリカでは、すぐには理解されなかった。

ちなみにニコラス・レイは若い頃に、建築の巨匠であるフランク・ロイド・ライドに学んだ。ニコラスはフランク・ロイド・ライドに学んだ後、CBSに雇われたり、大量の脚本の仕事をしたりしている。

また、ニコラスはその当時に既に子供を養っていた。1937年にはニコラスは子供をジョアン・エヴァンスという女性との間にもうけていた。

この事実からもわかるようにニコラスは苦労人だ。その体験が、この映画「夜の人々」にも役立っているように思われる。「夜の人々」に登場するのは、犯罪者、犯罪者の妻、そして父子家庭というものだ。

苦労人といえるニコラスの生き方が、社会的に追い詰められてしまうような人たちへの共感を含む視線を育てたのだろう。

この映画「夜の人々」は、エドワード・アンダーソンという人の小説「Thieves Like Us(直訳すると“私たちみたいな泥棒”)」が元となってできている。この小説をニコラスに教えたのはジョン・ハウスマンというニコラスの親友だ。

ニコラス・レイはジョンに、この小説の存在を教えられた時から、この小説のとりこになった。この小説にはアメリカの南部の不況に苦しむ人たちの生活が描かれている。そこには当然のように、黒人差別も登場する。黒人がつく仕事は、白人男性のトイレのキーパーだ。ニコラスは、当時、誰よりも先駆けてこの映画「夜の人々」の撮影にヘリコプターを利用したが、同時にニコラスは当時の社会の現実をも鋭くとらえている。

孤独な無保険者

映画「ある女流作家の罪と罰(原題:Can You Ever Forgive Me?)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、レオノア・C・イスラエルという女性作家の半生を描いた映画だ。レオノア・C・イスラエル、通称リー・イスラエルは、ニューヨークに住む、現在は売れない元ベストセラー作家として映画に登場する。

リー・イスラエルは実際に存在したアメリカ人作家で、1936年に生まれ2014年にこの世を去っている。

この映画の舞台となるのは1990年代前半のアメリカのニューヨークだ。

この映画は様々な視点を持つ映画だ。友情、恋愛、同性愛、小説、スター、本物と偽物、成功などというキーワードが、この映画を観ている間や観終わった後に浮かんでくる。

リー・イスラエルは同性愛者で、ベストセラー作家で、成功した後に落ちぶれて、有名人が書いた手紙を偽造してコレクターのためのお店に、その偽の手紙を売って生活している。

リーは孤独だが、ほんの少しの知人がいて、その内の1人のジャック・ホックというゲイの男性とは友情で結ばれている。リーは1匹の猫を飼っている。リーは映画の中で、人間よりも猫を愛していると言うほど猫をかわいがっている。

ある時、その猫が病気になる。病気?そう病気だ。ここで思い出して欲しいのは、アメリカには1990年代前半当時、国民皆保険制度というものが無かったということだ。人間だけでなく、動物にも皆保険は無かった。

映画でリーは猫の治療のための高い医療費に困り果てる。当然のように人の皆保険と猫の保険は別だ。人に保険が無いから、猫にも保険が無いと言いたいわけではない。ただここで考えて欲しいのは、もし猫が人間で国民皆保険制度が無かったとしたら?ということだ。

当然のように高い医療費を支払うことができない人が存在するということだ。人間よりも大切な猫のために、リーは有名人が書いたと偽った手紙を数百ドルの値で売る。猫のためだけではない、自分のためでもある。生活していくためにはお金が必要なのだから。

リーは孤独な女性だった。家族とも縁遠い。同性愛のパートナーを持つことにも失敗している。アメリカは国民皆保険が無い代わりとして、家族という繋がりが、社会のセーフティーネットの役割をしていると言われていた。

リーは明らかにこの範囲の外にいる女性だ。リーには生活を養ってくれる親族はいない。だが当時のアメリカには国民皆保険制度は無い。リーはどうなってしまうのか?

ここで登場するのが友情だ。ジャックとリーは、お互いに協力し合いながら、ニューヨークという都会で、何とか命を繋いでいく。

社会の範疇から外れた孤独な人々を包摂するものは何か?その答えの1つとして、友情がこの映画では描かれる。孤独では生きてゆけないが、人の隣には人がいるものかもしれない。

愛と憎しみ

映画「シュガー・ラッシュ:オンライン(原題:Ralph Breaks the Internet)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、コンピュータ・アニメーション・エンターテイメント・アドベンチャー映画だ。

この映画の主人公は2人いる。1人は女の子だ。女の子の名前はヴェネロペという。ヴェネロペはレース・ゲームの「シュガー・ラッシュ」のメイン・キャラクターだ。ヴェネロペは言うならばヒロインだ。

もう1人の主人公は、成人しているような体の大きな男で、名前はラルフという。ラルフは「フィックス・イット・フェリックス」というアーケード・ゲームの敵役だ。

ラルフは敵役だが気は優しい。一方、ヴェネロペはダミ声の勝気な女の子だ。

2人は、ロス・アバリドスという店の中のゲーム機の中に住んでいる。そう2人は人間が作ったゲームのキャラクターだ。

今回はシュガー・ラッシュという映画の第2作目で前作同様、コンピュータ・アニメーションによる映画だ。前回のシュガー・ラッシュの第1弾では、2人の活躍する世界は、ゲーム店の中だけのことだったが、今回の第2作では、2人はゲームの外の世界に出る。

そう2人はインターネットの世界に進出する。

この映画の背景にある主な感情は、愛と憎しみだ。愛とはいいねボタンのことだ。一方憎しみとは、ネット上にある悪口を書いたコメントのことだ。

今作でヴェネロペは、自分の居場所をインターネットの世界の中に見つける。それはスローター・レースというゲームだ。このゲームのレースは非常に危険なレースなので、ラルフはヴェネロペにこのゲームに近づかないように言う。

しかし、ラルフの忠告よりも、ヴェネロペは自分のいたい場所に居ることを選ぶ。そのヴェネロペの判断にラルフは激怒する。「2人はいつも一緒でなきゃダメなんだ」と。ラルフのヴェネロペに対する友愛の気持ちは憎しみに変わる。

ラルフは、インターネットにある負の面と、自分の心情の一致を計らずとも引き起こすことになる。インターネット上には、たくさんのコメントが溢れている。賛同や非難、中傷など、その在り方は様々だ。

インターネットの中だけが、自分の居場所という人もいるかもしれない。その人のアイデンティティは、インターネントの世界により支えられているということも考えられる。インターネットの外の世界に拠り所のない人が、インターネットで悪口を書かれたらどうなるか?

もしくは、インターネットのコミュニケーションが、日常を覆うようになった時に、ある人がそこで非難を受けたらどうなるのか?世界は愛に満ちている方が良い。憎しみに包まれている世界など生きていて快いものではないのだから。