戦争大国アメリカ

映画「サルバドル/遥かなる日々(原題:Sal vador)」を観た。

この映画は1986年のアメリカ映画で、エルサルバドルでの内戦を描いた戦争伝記映画だ。

この映画の主人公はリチャード・ボイスというジャーナリストだ。リチャードが取材をするのは戦争だ。それも特にアメリカが関係している戦争についてだ。

1980~1981年当時の様子を描いたのがこの映画だ。当時のエルサルバドルは国が右と左に別れて戦っている状況だった。この場合の右とはアメリカが支援する政府軍部のことで、左というのはその軍部に対抗する民衆ゲリラのことだ。

リチャードはこの右と左の間を行ったり来たりしながら取材活動を続けている。リチャードは右でも左でもない第3の道を行く人に見える。建前上は、アメリカは民主主義国家という体制をとっていて、いかにも人々の力を信じ平和と愛を推し進めているように見えるが、この映画の中でアメリカが味方するのは軍部独裁政権だ。

このエルサルバドルの右の軍部は、目的のためになら民衆を殺す非人道的な集団だ。人々のための国なのではない。軍部のための国がこの映画の中で描かれるエルサルバドルの姿だ。

アメリカはエルサルバドルを軍事的に支持している。その建前上の理由は、世界にアカが広がらないようにするためだ。アカとは共産主義であり、共産主義を進めようとするソ連側の世界のことだ。

我々アメリカは世界をアカによる侵略から守っていると言うのがアメリカの正義の面だ。しかし、実際は、戦争は利権のための手段に過ぎないだろう。そこには大義はない。あるのは企業や私人の収益だけだ。

例えば戦争が起こると潤うのは誰か?それは、兵器を作っている企業だ。アメリカの軍産複合体は自らの利益のために戦争を必要としている。日本も過去に朝鮮戦争による特需で金を儲けた過去がある。

戦争は金になる。しかし、戦争が終わった後はどうなるのか?戦争の後にはきっと企業が安い労働力を求めてやってきて、現地の人々を搾取する。農業をする土地を奪い、そこに工場を建てて汚染された排水を出す。

戦争をして金を儲けて、戦争が終わった後も金を儲ける。そこで行われるのは人々の搾取だ。

このような戦争の例は、ベトナム戦争がそうなのかもしれない。ベトナム戦争で負けたのはアメリカだったが、北をソ連が、南をアメリカが先導して戦争を起こし、現地の人々を枯れ葉剤で傷つける。アメリカはそう犯罪大国だ。

連帯

映画「ノーマ・レイ(原題:Norma rae)」を観た。

この映画は1979年のアメリカ映画で、労働組合の設立を描いた社会はドラマだ。

この映画の主人公は、映画のタイトルにあるようにノーマ・レイだ。ノーマ・レイアメリカ南部のO・P・ヘンリー紡績工場に勤めている子持ちの母だ。ノーマ・レイの勤めている紡績工場の労働環境は整ったものではない。

ノーマの母親は、紡績工場の機会の騒音で耳が一時的に聞こえない状態になる。それを工場の中にいる医者に診せても、医者は誰にでもあることだから早退届を書くからねと済ませてしまう。それに対してノーマは激怒する。医者は労災の診断を書くのが嫌なのだ。

ノーマは以前から休憩時間を長くするようにとか、紙ナプキンのマシンを職場に置くべきだという申し出をしていた。ノーマは労働環境の改善に意欲的な女性だった。

ノーマが住んでいる町は、働く場所がノーマの勤めている紡績工場しかないような土地なのだが、そこにニュー・ヨークからルーベン・ワショフスキーという男がやって来る。ワショフスキーは全米繊維労働組合の組合員で、ノーマの勤めている紡績工場に労働組合を作ろうとして南部の田舎町までやって来たのだ。

はっきり言ってしまえば、ノーマと違いワショフスキーはインテリで都会の洗練された男性だ。英語のイントネーションもノーマとは違う。きっと大学を出た男だ。

しかし、ワショフスキーは労働組合を作るのにノーマが必要だと、ノーマを労働組合の組織化に参加するように促す。つまり、インテリジェンスだけでは労働組合は作ることができないのだ。

工場内部に入ることができ、工場の従業員とも交流があり、なおかつ行動的で意志が強い人。それをワショフスキーは必要としていた。

南部にも、黒人差別や女性差別等がある。南部と言えば荒々しい人たちが住んでいるイメージがある。この映画の中で描かれる南部もそういった場所だ。

白人が黒人をリンチするシーンや、ノーマと不倫関係にあった白人男性が交際をやめたいと言ったノーマを殴るシーンがある。

洗練された人間というのははたから見ると鼻持ちならないやつに時として映るが、その逆の洗練されていない状況というものも大して良いものではない。

この映画では組合のことをユニオン(union)と言っている。ノーマがユニオンと書いた段ボール紙を高々と掲げると、工場の中にいる労働者たちが、その言葉に吸い寄せられるようにノーマを見上げる。必要なのはユニオン(union)つまり連帯なのだ。

対価なき無償の労働

映画「菊とギロチン」を観た。

この映画は2018年の日本映画で、女相撲無政府主義者たちを描いた映画だ。

この映画のタイトルにある「菊とギロチン」とは、一体どういう意味なのか?それはこういう意味だ。菊とは女相撲の力士である花菊のことだ。そしてギロチンとは、ギロチン社というアナキスト団体の一人である、古田大次郎のことだ。

映画の舞台は関東大震災後の日本で、時代的には大正12年、13年辺りだ。西暦にすると1923年、1924年辺りということになる。

当時の世相というのは保守的な傾向が強かった。統治権力は国を国たらしめることに必死で、国の存続に障害となるようなものは、徹底的に弾圧をして抑え込んでいた時代だ。

この映画の中に登場するアナキストである、古田大次郎、中濱鐵、木村源次郎、和田久太郎も国家ににらまれていた存在だ。いずれの人物も国によって捕えられており、古田は25歳で、中濱は29歳で刑死しており、村木も刑を受けて肺病で亡くなっている。

この映画の冒頭でアナキズムに対して簡単な定義が与えられる。それは「既成の国家や権威の存在を望ましくない有害であると考え、調和的な社会結合を目指す政治思想」というものだ。

しかし、現実と理想は違うもので、中濱においては、自分が無政府主義の活動を行い食べていくために、資本家をゆすってお金を巻き上げている。また古田は、1人、人を殺している。

ただアナキストたちは映画の中で、自由と平等を信じる人たちとして描かれている。

一方、女相撲の方であるが、女相撲の在り方は、花菊や十勝川という人物に象徴的に描かれている。花菊は、DVの被害者であり、十勝川は人種差別の被害者だ。

花菊は、家事労働、子守り、夫のセックスの相手、夫からの暴力という日常からの脱出口を女相撲の中に見い出す。「女相撲は強ければ良くなる。日常ではいつも負ける」と花菊は言う。

体制側というのは女性を無償の労働者として扱う。ある時は料理を作り、子供を育て、年老いた両親の面倒をみて、セックスワークもこなし、家庭を支える。

これらの一切の労働を国は女性に対して無言のコントロールにより、男性側に無償で提供させる。専業主婦という言葉はこの無償の労働を表す言葉だ。

封建的な社会を支配する側と、支配される側。その2つの下位への分化。人はもう気付いているはずだ。自分のことは自分で決めていいと。命令に従う?そんな必要はないと。ただそこにある程度の限度はあるかもしれないが。

連載 アナーキー 参照文献

参照文献

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ウィキペティア. (2018年5月14日). 食品ロス. 参照先: ウィキペティア: https://ja.wikipedia.org/wiki/食品ロス

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ノーム・チョムスキー 訳/大地舜・榊原美奈子. (2018). 誰が世界を支配しているのか? 新宿区東五軒町3-28: 双葉社.

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ドガー・ブレグマン 訳/野中香方子. (2017). 隷属なき道 ベーシックインカムと一日三時間労働. 千代田区紀尾井町3-23: 文藝春秋.

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町山智浩. (2014). 99%対1% アメリカ格差ウォーズ. 文京区音羽2-12-21: 講談社.

 

 

連載 アナーキー 第31回

アナキズムを高らかに宣言することなしに、実は国民は内発的にアナキズム的なのである。アナキズムではないアナキズム的な国民。どうだろう?この存在は、国家対アナキズムという対立を乗り越えるのではないか?

アナキズム的国民というどっちつかずの表現は、この先の人々の展開を示してはいないだろうか?

アナキズムを唱えることなく既にアナキズム的な国民。

国家かアナキズムなのかどっちなのか?という疑問が生じるかもしれない。多分そのどちらでもなく、そのどちらでもあるような存在が、アナキズム的国民なのである。

アナキズム的国民は、アナキストでも国民でもある必要がない存在である。つまりアナキズムと国民をはみ出している存在である。それはアナキスト的国民という名で呼ぶのもはばかれるような存在である。

人は何も考えていないという人がいるかもしれない。しかし個々の人々の中には必ず内的な葛藤がある。人々の内面は常に揺れ動いている。この揺れ動きを無視するわけにはいかない。

国民として生きながら国の判断に疑問を感じる態度。それは人々を次のステップに移行させるのではないのか?ダダもピストルズレベッカ・ソルニットも人々の内面の揺れ動きの現れではないのか?

人は互いに影響を与え合いながら生きている。つまり人と人が繋がっている限り、人の精神から精神へと伝播するものがある限り、人の生き方は変わる。Aという人間は、Bという人間や、Cという人間と繋がっている。Aの中にBの部分がありCの部分がある。

人の連鎖は終わらない。それは人の生成変化(ここでは人と人が混ざり合って常に変わりうまれることというぐらいの意)と言っていいのではないか?人は常に変わるという点において変わらない [宮台真司, 2003]。常に人は生成変化している(ドゥルーズというフランスの思想家が言っているように)。人は変わる。国民がやがてアナキズム的国民となり、いずれ今の段階では名付けられない何かになる。その変化に我々は期待して良いのではないだろうか?

 

 

腐敗した権力

映画「華氏119(原題:Fahrenheit 11/9)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画ではドナルド・J・トランプの大統領就任までの状況を振り返っている。

アメリカで従来からあるのは2大政党というものだ。民主党共和党という2大政党が、アメリカの国政のリーダーシップを奪い合って、アメリカの政治の歴史は成り立ってきた。

2016年のアメリカの大統領選挙では、民主党ヒラリー・クリントン共和党のドナルド・J・トランプが戦った。大統領選の勝者は周知の通りトランプだ。

下品で下劣でずるいドナルド・J・トランプは、選挙で勝つことはないと、誰もが予想していたが、実際はトランプが勝った。その要因としては、ヒラリーが富裕層からの資金を集めて、富裕層からの支持を重要視していたのに対して、トランプはアメリカの労働者階級を自らに票を入れるように囲い込んだことがあげられる。

民主党からは労働者の声を聴く人としてバーニー・サンダースが支持されていたが、サンダースは多くの人の支持とは逆に、落選してヒラリーが民主党を代表する大統領候補になった。

ヒラリーよりもトランプの方がラストベルトと言われる、見捨てられた貧しい人々の支持を集めた。

トランプは口も政策も最低なこまった大統領なのだが、人々の支持を集めるに至った。その要因は民主党オバマ大統領がとった行動にも原因があるとこの映画では示される。

ミシガン州のフリントでは、スナイダーという知事の下で、近くの湖から水のパイプラインをフリントにつなぐ事業を行っていた。この工事のためにフリント市民は清潔な水を使うことができなくなった。

工事が始まってから、フリントの水道水は茶色く濁った。そしてその水は汚染されており、人体に悪影響を及ぼす量の鉛が含まれていた。

スナイダー知事は市民からの抗議の声にも関わらず、1年半以上水道に汚染された水を使った。そこでアメリカ大統領のバラク・オバマがやってきて、水を飲むというアピールをする。

要はオバマの行為は、汚染水でも黙って飲めと言ったのと同じだ。オバマは、大手証券会社を政治資金の母体としている。つまり、オバマは労働者を優先するとは限らない、富裕層のための大統領だったということになる。

権力は腐敗する。重要なのは人々の視線が常に政府の本性に向いていることだ。

連載 アナーキー 第30回

警察が暴力的であるがゆえに彼らも暴力的な態度をして行動に移る他ないのである。暴力はパーカーを着た集団(ブラック・ブロックという)よりも警察の方が得意分野である。ブラック・ブロックよりも先に暴力的なのは当然警察、国家である。

アナキズム=暴力的集団というイメージがあるようである。フランス映画「アナーキスト 愛と革命の時代」もアナキストは盗みをして、建築物を爆破し、警官を撃ち殺すというように描かれている。

確かにアナキストにもそのような闇の時代(映画の舞台は19世紀のパリ)があったのかもしれないが現在は違う。むしろ暴力的なのは国家である。

国家が暴力的でない?じゃあなぜ軍は戦闘機、戦車、戦艦、機関銃や拳銃を所有しているのか?実際にそれを使っていない?だが国家は確実に弾薬を所有している。その所有によって、国家は人々を服従の元に置く。少なくとも国民の服従の要因にはなっている。それが自発的服従でも、自発的服従でなくとも。つまり国家は暴力装置なのである。

国家が圧倒的に暴力的であり、アナキストの暴力など国家の前には無きに等しい。しかし国家はアナキストを恐れている。なぜか?アナキストの思想は人々を内部から変化させ、国家の支配を無き者にしようとしていると国家には映るからである。

国家は1人1人の心変わりが恐ろしいのである。国民が自発的に服従しなくなったら、国家は非自発的な服従を作り上げるために、様々な仕組みを作り上げるだろう。自動的に国家に国民が服従するような仕組みを。

しかし、内発的に自立した国民がそれに従うことはないだろう。内発的な国民は、国民であることを辞めるかもしれない。内発的自立を求める国民はアナキストたちが言うような連合主義的な態度をとり、相互扶助的な精神を意識するまでもなく、内発的に相互扶助するだろう。

それぞれの国民の中に今現在、国家対アナキズムの対立など存在しないのかもしれない。アナキズムを意識している国民はいないかもしれないが、しかしアナキズム的な国民はいる。フードバンクに参加する人たちがそうであるし、日々の互助的な活動もそうである。