コントロールする人がコントロールされる

映画「女王陛下のお気に入り(原題:The Favourite)」を観た。

この映画は、2018年のアイルランドアメリカ・イギリス合作映画で、この映画の舞台は18世紀のイングランド王国(後にグレートブリテン王国になる)だ。

この映画の主要な登場人物は3人の女性だ。王国の直接的な支配者であるアン女王。アン女王に政治的なアドバイスをするサラ。没落貴族の娘で、経済的安定を求めているアビゲイル

この3者の間に存在するのはコントロールだ。サラは、アンをコントロールする。アビゲイルもアンをコントロールする。サラのアンへ対するコントロールは、サド的サドコトロールと言えるかもしれない。

要は、サラはアンを上から目線で支配するのに対して、アビゲイルは、アンをアビゲイル自身を押し殺すかのようにして、実はコントロールしている。

前者を支配的サドと呼んでもいいかもしれないし、後者を自滅的サドと呼んでもいいかもしれない。サラもアビゲイルも、アンをコントロールすることに対しては等しい。しかし、そのコントロールする仕方が異なる。

サラは強引に愛して、アビゲイルは優しく愛する。しかし、そのどちらかがアンにとって良いのかは不明だ。

そもそもこの映画の中で、一番強力なコントロールの力を手にしているのはアンだ。しかし、強力なコントロールほど、強力な自己滅却を指向し、その強力なコントロールを持つ人間は孤独だ。

なぜなら、他人を支配しようとする人間に好んで近づいていく人間は、多くはいないし、いたとしても、その友人の目的はコントロールを持つ人間をコントロールすることだからだ。

この映画の中で、アンは情緒不安定で、過食症で、神経質で、痛風持ちで…というように重複する病状を持つ人物として描かれている。アンは支配すればするほど、気を病み、増々コントロールし、コントロールされる人間になっていく。

コントロールが生み出すものは、虚しい報酬と孤独だけだ。孤独は人の心の中に猜疑心を生み出す。よってますます孤独になり、増々コントロール過剰になる。

この映画には、宮殿が登場する。宮殿というのは、主が支配するために作り出した管理社会だ。決められた時間に、決められた服装で、決められた範囲内で活動する。そこにあるのは管理で自由ではない。

この映画で描き出される宮殿とは、まるでひとつのディストピアのようだ。何もかもが、規範に沿って作られている。服もスカートもボタンも。すべてが規格された管理の賜物だ。その機械的な反復に人は魅せられている。