排除する社会

映画「絞殺魔(原題:The Boston Stranger)」を観た。

この映画は1968年のアメリカ映画で、映画のジャンルは実録犯罪サスペンスだ。

この映画は、アメリカのマサチューセッツ州のボストンの街で、連続殺人が発生して、それを追う警察と州、そして一般市民の不安な表情が映し出される。そして映画の後半部では、ボストン絞殺魔の生活が描かれる。

この映画の前半は、警察が正体のわからない犯人を追う様子が描き出される。最初は警察単独で事件の捜査が行われているが、その後、州の介入があって、警察と州が合同で、次々に発生する連続絞殺の捜査が行われる。

絞殺魔の殺害には、共通点があり、女性を襲って殺していること、レイプはしていないこと、外科結びをしていることだ。この、共通点から、警察と州は、犯人を特定する。この殺人の自己同一性は、女性を襲い、外科結びをしていて、レイプはしていないことだ。

警察が、怪しいと通報があったり、捜査で絞り込んでいく被疑者には、同性愛者の男性と、精神障害がある人物がいる。後は、女性の家に大佐と名乗って上がり込み、女性とセックスをする男なども、捜査の対象になる。

この映画の最後には、「事件を起こす可能性がある人物を発見して治療することは現在行われていない」と出る。これは、1968年当時の映画だ。この行為は、警察による犯人の事前逮捕につながることはないのだろうか?

警察による、事前の逮捕とは、犯人になると推定して、その被疑者を逮捕するということだろう。

これは、明らかに警察の権力の肥大を招く思考だ。なぜなら被疑者を推定して、片っ端から捕まえていくことができるからだ。仮に精神科医が、被疑者の判定に関与するとするならば、警察と医者は過剰な権力を持つことになる。

そこでは恣意的な逮捕が可能になってくる。確固とした犯罪の証拠がないのに、事前に犯罪を予知して、被疑者となった人を捕まえていくのは、権力の暴走を招きかねない方法だ。この事前の逮捕は明らかに危険だ。

しかし、これは映画の最後の字幕からの、推測にしか過ぎない。医者が事件を起こしそうな人物を特定して、その患者を治療するというのが、この映画の字幕から、直接連想できることだ。しかし、これは医者の力の絶対視に繋がりかねない。

医者は、犯人となる人物をどのように扱うのだろうか? 周囲に犯人になりそうな人物の存在を明らかにせずに、犯罪者になるという疑いを持って、その患者に対応していくのだろうか? 犯罪を犯していないのに?

医者は、医学はそこまで万能なのだろうか? これは、医者の権力の肥大に繋がらないのだろうか? 医者の善性をそこまで信じていいのだろうか? 白衣を着た権力者。それが医者の正体ではないのだろうか?

患者を犯罪者の巣窟と見るこの思考法は、医者の能力を過信しすぎている。医者も人間に過ぎない。その医者に、犯罪の防止という権力を与えていいのかは、甚だ疑問が残る。立身出世のために、どんどん犯罪者候補を作り出すのが、医者のすることの結末ではないのだろうか?

権力を懐疑する力。これは、すべての人に必要なものだ。この映画で、警察の犯罪の捜査に介入する州側のジャック・ボトムリーというヘンリー・フォンダが演じる人物がいる。この人物は最初、州が警察に介入するのは良くないと考えている。

それは、州権力の肥大に繋がるからだ。しかし、捜査に州が介入して、捜査の規模は拡大し、人々にメディアにより不安が植え付けられて、警察と州はあらゆる手段を尽くして犯人を捕まえようとする。

警察と州やボストン市民は、ゲイや精神病者の人を、犯人に結びつけようとする。ゲイが犯罪者に繋がりやすいというのは、明らかな差別だ。そして、精神病者が犯罪者に繋がるというのも、明らかに偏った見方だ。

この映画では絞殺魔の正体は2重人格を持った、アルバート・デサルボという人物とされる。ただ疑いが強いというだけで、デサルボは逮捕はされないというのが、この映画の最後では示される。

デサルボは、他のゲイや精神病者とは違って、落ち着いたように見える人物で、家庭を持っており、妻と2人の子供がいる。明らかに犯罪者として偏見を持たれないような人物像だ。理想的な家庭的な人物が、最有力被疑者の候補に上がる。

人は時折、「普通」という言葉を使う。普通とは「理想までとはいかないが常識的な人生を歩む人」という具合のものだろう。普通は異常を作り出し、異常なものを排除しようとする。そのため人は普通を維持するのに必死になる。

英語で言うなら、includeしていくのではなく、excludeしていくことが、この普通という言葉がもたらす行為の結果だ。そしてこのincludeとexcludeを用いて維持されているのが、現在の組織というものだ。

組織というは、例えば職場だ。職場では、様々なincludeとexcludeが、excludeすることによって行われる。例えば給料の差だ。職場には給料の差がある。それは役職に基づくもので、その役職は性別に基づくものである。

高給とは、高給を貰えない人がいるから存在するものだ。皆が高給だったら、そこには何の除外もない。それは平等な社会だ。しかし、世の中には、高給を正当化するものがある。それが能力主義による競争だ。

「私が高給なのは、私の能力が高いからだ」というのが、この能力主義の思考だ。しかし、これは実は何の根拠もない。ただ特定の環境に置かれた人物は、特定の能力に置いて高くなるという事実の反映にすぎない。

つまり、すべての人は特定の状況に置かれている。そして、その場所が、医療の場所であるから尊敬される。ただ、医療がそこまで尊敬されることをしているのかどうか? は実はブラックボックスの中だ。

西洋医学以外にも、様々な漢方薬や、現地民の特有の治療法があり、西洋式の医療がそこまで尊敬されるのは、他の医療行為をexcludeしてきたからに過ぎない、という可能性も否定できない。

西洋医学が万能というのは、excludeが生み出した幻想かもしれない。

確かに西洋医学は、薬や治療によって、人を病気から救うこともあるのかもしれない。ただ、西洋医療が他の医療行為をexcludeすることによって成り立っているのは否定できない。ここでは医療行為の非合理性よりも、医療行為の排他性と特権性に問題があるのだと言いたい。

除外はアメリカの社会学者のチャールズ・ティリーが言ったように、不平等な社会を作り出す。もっと正確に言うのならば、日々の何気ない行為が不平等なカテゴリーを作り出し、社会は除外によって、不平等を維持する。

その除外、excludeな人間社会の状況が見て取れるのが、この映画「絞殺魔」だと言える。