映画の展開と、世の中のルール

映画「アスファルト・ジャングル(原題:The Asphalt Jungle)」を観た。

この映画は1950年のアメリカ映画で、映画のジャンルは犯罪劇だ。

この映画の主人公を、この人物だとあげることは難しい。この映画の主人公を一人に選ぶことはできない。この映画は映画「マグノリア」のような群像劇だ。そして映画の最後に空から降るのはカエルではなく、法社会からの審判だ。

この映画を一言で言ってしまうのならば、この映画は宝石の泥棒を巡る群像劇だというものだ。

この映画メインとなるのは、宝石の強盗だ。強盗には、計画者、資金調達者、実行犯である金庫破りと、運転手と、用心棒が必要だ。そして強盗が起こればおのずと警察も登場してくる。

この映画の強盗実行者に、強盗計画の全貌は知らされない。映画「ダークナイト」のように、強盗の実行犯はただの手足に過ぎない。彼らは脳の役割を他に必要とする。

強盗したものは売り先がないと金にならない。この強盗の資金提供者はこう言う。「故買屋に売るならば、半分はとられる」と。映画「ロスト・ハイウェイ」の中の故買屋は超越的な存在として出てくる。

そして映画「アスファルト・ジャングル」でも、故買屋は、犯罪で盗まれた宝石をきれいな金に代えてくれる、超越的な働きをするものとしてとらえている。

しかし、「アスファルト・ジャングル」には最後まで故買屋は登場しない。それは、なぜなら犯罪は失敗に終わるからだ。

この映画の中では宝石泥棒に関わった人間は、罪から逃げることはできずに、傷ついていく。肉体的に、そして精神的に。

しかし、映画のクライマックスのその様子とは対照的に、この映画の途中では犯罪を犯す人たちが堂々としてまるで彼らが正義であるかのように見える。この犯罪の計画者があたかも全能の神であるかのように犯罪は順調に進んでいく。

犯罪劇を面白く描くには、犯罪が描かれなければならない。だから途中で犯罪がとん挫してしまっては映画が成り立たなくなる。よって必然的に犯罪はスムーズに進行する。そして犯罪がうまく進行するのと同様に、最終的に映画は世の中の秩序に寄り添うことになる。

つまり犯罪者は、誰一人として成功してはならない。犯罪者は必ず罰せられなければならない。そうならないと不安がる人たちがいるからだ。しかし、現実は映画のように警察がすべてを解決するわけではない。世の中は不条理で、条理で覆いつくすことはできない。