ゲイよりストレートの方が優位?

映画「胸騒ぎの恋人(原題:Les Amours imaginaires)」を観た。

この映画は2010年のカナダ映画で、内容は恋愛映画で、この映画のクザヴィエ・ドランは自らがゲイであることを公言している。

この映画はニコラとマリー・カミーユとフランシス・リヴェレキンとの三角関係を描いた映画であるが、この3人のうちマリーとフランシスは元々友達であり、後からこの2人の間にニコラという男性が入って来る。

マリーは女性で異性愛者、つまり男が好き。フランシスは男性で同性愛者、つまり男が好き。そしてこの2人の愛の矢印が向かうのはニコラという男性である。

まずこの映画の中で中心となるのは3人の三角関係であるが、図式的にはニコラという美青年をマリーとフランシスが共に好きになり、ニコラは2人から何の告白も受けていないが、どうも2人は自分のことに好意を持っているらしいと感じていて、2人を翻弄させている。

この映画はシリアスな恋愛映画というよりは、笑いのある恋愛映画である。一番の笑い所は、ニコラの服の匂いを嗅ぎながらマスターベーションしているフランシスの元に、ニコラの母が家に帰って来るというシーンである。

フランシスはニコラの母の登場に驚き困惑する。フランシスは勃起しているが、ニコラの母が話しているので、それを何とか隠さなくてはならない。その苦労ぶりが笑える。

しかし、この映画の中であまり笑うことができないのは、フランシスのマイノリティとしての立場である。フランシスはゲイだが、ゲイは少数派なのであり、好きになった相手が同性愛者である確率は、相手が異性愛者である確率より低く、下手に告白したら、その相手が保守的ならゲイだといって差別される場合もあるだろう。

この映画の中で痛々しいのは、ストレートのマリーのニコラへの恋を同性愛者のフランシスが応援するシーンである。ここには日常的には可視化されない言葉が連想される。「ゲイはストレートより劣る」と。

もしゲイという性的マイノリティの立場が今と違っていたら、フランシスはマリーに負い目を感じることはなかったのではないかと思わせる。ゲイが性的マジョリティーであればフランシスは生きやすくなるのかもしれない(マイノリティを認める社会であれば別だが)。

しかし、自分が好きになる相手が同性愛者か異性愛者なんて、自分では決めることはできないのである(例えばゲイバーで恋人を作る場合は別かもしれないが)。一見恋愛のあるあるネタを取り扱っている笑える映画かもしれないが、背景の闇は深く暗いのである。