イメージを保ちつつ、革新的であること

映画「魂のゆくえ(原題:First Reformed)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。この映画の背景には、プロテスタント系の教会とエネルギー事業会社との癒着があり、一方には牧師と信者との間の恋愛が描かれる。

まず第1のプロテスタント系の教会と企業との癒着は、教会の運営の財源として企業からの献金があると言うことだ。教会が支持を得るためには、美しい教会が必要で、美しく壮大な教会には、人件費等のお金がかかる。

一方企業の方は、自社のイメージアップのために教会に献金したがるし、教会の信者が自社製品の購入をしてくれればなおうれしい。企業と教会は持ちつ持たれつの関係で互いに離れることができない。

この映画に登場するような環境破壊を促進するような企業でも、財源となっている限り協会は友好関係を持ちたがる。つまり、教会は倫理を重んじているようなイメージを一般に持たれているのにも関わらず、その裏で地球環境を破壊する活動を支持しているとこの映画では描かれる。

教会の持つ聖のイメージがある。これは多くの人々の間に抱かれているイメージだ。しかし、このイメージに対する裏切りを行なっている教会を人々が教会は善だと信じいてるとするとどうだろう?

この時教会は自らに問い質しはしないのだろうか?「我々は正しいことをしているのか?」と。

教会の持つイメージには、性的に潔癖であるというものもある。教会に性欲は存在しないかのように世の中では振る舞われる。教会の牧師となれば、人と出会う機会も多い。その中で牧師は、自らの禁欲を保つことができるのか?

牧師となる人間は性的に穏やかであると生物学的に言えるのか?牧師となる人間は性的に禁欲することに目覚めている人たちなのだと。

教会は倫理的に間違っていてはいけない。この問題は映画中に常に問い続けられる。そして映画のクライマックスで、この問題にある答えが指し出される。それは教会の人間だって、ただの人間じゃないか!?というものだ。

教会から人々押し付けられるイメージには、例えばこの映画で描かれるように、環境に優しくなければならないとか、教会は禁欲しますというものもある。この教会の持つ、不整合な倫理は、どれもこれもが守らなければならないものではないし、また、破ってはならないものもある。

それを見定めるのは、一人一人の判断だ。そしてその判断の集結も必要になる。既存の枠組みにとらわれ過ぎないこと。常に革新的であること。それが必要なのだろう。