連載 アナーキー 第25回

交換の規範は贈与とは異なる。

交換は与えたものと等価とされるものをきっちりと要求する。そこには一方的な贈与はない。つまり持たない者は何も得ることができない。冷酷な現実である。

持てる者は言う。「交換できないなら働いてお金を稼げばいいじゃないか」。それは、しかし、持たざる者にとっては残酷な言い分である。

待たざる者は、物を持たないだけではない。持たざる者は、平等に雇用される機会がないのかもしれないし、技能を得るための教育を受けるだけの余力がないのかもしれない。また、教育の土台となる生活能力が欠如しているのかもしれない。

働かない者は持つことはできないが当然社会は、持たざる者を持たざる者のまま置き去りにする。

持つ者は、持たざる者の境遇を想像する想像力が欠けているのかもしれない。

相互扶助がある世の中ならば、持たざる者は、相互扶助により救済されるだろう。食べる物がない?じゃあ私の物を半分あげよう。貯金したくても貯金ができずに、子供を学校へ通学させることもできない?ならば地域の皆で援助しよう。教育は無料にすればいい。ならば国を君たちのために作り直そう。もし国が不要ならばなくせばいい。

相互扶助のある世の中では、国は存在しないかもしれない。

しかし、今しばらくは仲介者としての国の存在があるのだろう。

そして、国は企業と癒着するのではなく、国民のコントロール下に置かれるべきである。コントロール

コントロールという言葉は適切ではないかもしれない。なぜならコントロールは強い者が、弱い者を挫く時に使うものであるから。

すべての人がすべての人に対して心配りをして、すべての人のためにすべての人が個々に動く。そんな相互扶助があり得るのではないだろうか?

世の中には相互扶助を始める機会がいくつか存在する。そんななかで、食品ロスは相互扶助を始める良いきっかけなのではないだろうか?