連載 アナーキー 第24回

企業の寄附の行為と同じことを、私たち一人一人も当然のようにできる。それは多くを得てしまった時に、持たない人に、持たない人が欲しがるものを、無理のない範囲で与えることである。それができれば企業の存在など関係なくなる。

個人も与えるし、企業も与える。それが今のところベストな姿だと考えることができる。

こんな試算がある。「2011年に国連食料農業機関(FAO)が発表した資産によれば、世界中で人が消費するために生産されている食品の3割以上におよぶおよそ13億トンが毎年、失われるか廃棄されている。これは世界の飢餓人口10億人を十分に養えるほどの量に相当するものである」。 [ウィキペティア, 2018]

世界の中には食料が無くて、飢えている人が10億人も存在する。相当な数の人々が、食料がなくて飢えているのだ。

その問題を解決する可能性が食品ロスにはあるのかもしれない。

食べられずに捨てられている食品ロスが、飢えている人々の欠乏を埋めることができる量あるのだ。人間はそれだけの生産の能力を持っているのである。

ならばなぜそれを問題の解決に使用しないのだろうか?

世界には様々な国々があり、国境の範囲の中で一定の規範が働いている。憲法とその下にある法律だ。

その規範の存在のために、世界の他の国々に確かに存在する飢餓から人々を救い出せないでいる。

輸出や輸入はグローバルなビジネスである。ビジネスにはお金が必要である。金と物の交換だ。それは贈与ではない。

「ある国で食料が多量に余るのならば、他の国にゆずればいい」そう思われる。

しかし世の中はそうは動かない。

規範があるからだ。それはこんな規範である。「ものが欲しい人はお金を持って来い。さもなければお前に渡すものはない」。これが交換の規範である。