連載 アナーキー 第19回

現在一般に共同体として考えられるのは家族である。それは夫婦2人に子1人というような。もしくは夫婦のみとか、単独で住む人というような。

つまり、家族という言葉が示す共同体は、今でもかろうじて相互扶助的な活動をするのであるが、その単位自体が小さすぎて、自給力が小さいのである。

単独世帯、夫婦のみ世帯など集まりが、バラバラとなって、今日本では存在している。そのバラバラの存在だけでは人間は生きていくことが簡単ではない。

よって、そのバラバラの人々が病気や貧困等の問題に当たった時に、国の機関が呼び出されることになる。

しかし、今日本は多額の借金を抱えている。日本は借金大国である。いつまでも国からの補助を当てにはできない。

そこで必要とされるのが、家族よりももっと広い大きい範囲での相互扶助である。

身体が不自由な人の車いすを押したり、トイレの介助をしたり、食べ物に困った人に食事を届けたり。

バラバラになってしまった家族では支えきれないことを行うのが相互扶助による集まりである。

バラバラになっている世の中を相互扶助のために集結させることができるのか?そこで参考になるのがアナキストの人類学者デヴィッド・グレーバーや、同じくアナキストレベッカ・ソルニットの発想である。ここではデヴィッド・グレーバーの発想について述べたい。

デヴィッド・グレーバーによれば、人と人との関係はそもそも相互扶助的なものだというものである。例としてデヴィッド・グレーバーは仕事での人と人との関係を示す。 [デヴィッド・グレーバー 監訳/酒井隆史 訳/高祖岩三郎, 2017, ページ: 143-144,606]以下はその内容の筆者なりの要約である。

例えばオフィスで紙を挟むクリップが必要だとする。すると人はクリップの近くにいる人にクリップをとって欲しいと頼む。するとそれに対してその同僚は、クリップを相手に渡すだろう。つまりこれが相互扶助なのである。

ビジネスのような損得に支配された場でも相互扶助は存在するのである。人と人との簡単な助け合い。それが食べ物を与えるような関係性になるのには高いハードルがあるように感じられる。なぜなら人は、食料を買うお金の取得に困難を抱えることが多いからである。お金は自動的には手に入らないからである。