女性性の排除

映画「止められるか、俺たちを」を観た。

この映画は2018年の日本映画で、映画の内容は青春映画だ。

この映画の舞台は、1960年代末と1970年代の初期の東京だ。主人公のめぐみは、東京にある若松プロダクションという映画製作会社に入社して、若松孝二監督の元で助監督として働くことになる。

当時の日本で当たり前のことだったのが、女性が男性と同様に働くということは非常に難しいということだ。女性は家事を行い、子育てをするのが当然だというのが風潮の世間だ。その中でめぐみは女性を捨てて男の世界の中で働くことになる。

女性を捨てて働くことになっためぐみだが、女性を捨ているということをめぐみは自らの意思で行ったと考えているのか?それとも周囲からの外圧でやむなく女性性を捨てざるえなかったのか?

それは、この映画の中で具体的に述べられることはないが、当然当時の社会の在り方から考えれば、めぐみの判断はめぐみの本意ではなく、強制されたものという意味合いが強いだろう。

女性性を捨てて働くめぐみは、映画を観る者の目には清らしいものとして映る。女性性を理解しがたいものとして見ている者には余計にそのように映るだろう。しかし、これは女性性が好きなものに対してはどう映るか。きっとめぐみの姿は、抑圧された女性像としてしか映らないだろう。

やはりここで重要となってくるのは、めぐみ自身の選択がここで行われたかということで、それは否であると思われる。繰り返すが、映画業界で助監督として生きるには女性性は邪魔だったし、その女性性を排除するような風潮は、映画業界の男たちが作り出していたものだ。

そして、映画業界の外の世界も、男の世界だった。ジェームス・ブラウンの曲のタイトルにあるように。映画の中にジェームス・ブラウンは登場しないが、この映画の中には男による男の男のための映画業界が描かれている。

ならば何度も繰り返しているが、めぐみの女性性のなさは、強制による排除とみることができる。しかし、この映画の中で不思議な所は、めぐみの女性性のなさがみるものによって変わるという所だ。

めぐみの女性性の排除は、社会にある外圧からの強制排除とみることもできるし、女性性を超越した凄い人間とみることも可能だ。しかし、ここで浮足立ってはならない。女性性をめぐみから奪ったのは男社会であるということを。

めぐみはより多くの選択肢を選んだのではない。めぐみは通常からの逸脱者として生きたのだ。