貧困と死刑

映画「冷血(原題:In Cold Blood)」を観た。

この映画は1967年のアメリカ映画で、実際に起こった事件を元に書かれたトルーマン・カポーティの小説の「冷血(In Cold Blood)」を映画化したものだ。

2005年のアメリカ映画である「カポーティ(Capote)」は、トルーマン・カポーティが冷血という小説を書き上げるまでのようすを描いた伝記映画だ。ちなみにこの「カポーティ」の主役のカポーティ役を演じたのはフィリップ・シーモア・ホフマンだ。

この映画(「冷血」)で描かれる実際の事件とは何か?それはディック・ヒコックとペリー・スミスという若者によるクラター家の一家4人の惨殺という事件だ。そしてこの映画では、この事件を起こした2人の動機とはお金だと述べられる。

この殺人犯である2人の若者ディックとペリーは両者ともに貧困家庭の生まれだ。つまり2人はお金に困っている人たちだ。それはつまりは、社会の構造が2人を犯罪に追いやったということもできるということだ。

貧しいと学校に行けない。学校に行けないと職が見つからない。職がないとお金が入らない。お金がないと生活できない。生活できなければ学校に行く余裕などない。ここから脱するためには何ができるか?

それは社会福祉もしくは相互扶助で、またはその両方だ。社会福祉とは国に頼った貧困層への援助で、相互扶助とは人間関係から自発的に生じる肩と肩を寄せ合う助け合いのことだ。

この映画では、この社会福祉と相互扶助による弱者救済の面が欠落している。いや完全に欠落しているわけではない。ペリーはこう言う。「養護施設は最悪な所だ。尼僧(カトリック)が寝るまで僕を監視している」と。

つまり社会福祉の一環である養護施設も、弱者救済の役割を果たしていなかったのだ。

映画は2人の死刑執行へ向かって進んで行く。この映画は死刑制度の賛否についても問いを投げかける映画になっている。

国が合法的に人を殺す死刑を認めてもいいのか?という問いかけが、映画を観る者に投げかけられる。そしてこの問いを受け止めるかどうかで、視聴者が一体何者であるか問われる。この問いを受け取る場合と、問いを見過ごしてしまう場合とでは、視聴者が一体どのような人物なのかが変わってくるのだ。

つまり映画は人格を作り上げる一要因なのだ。映画は人々の中に何かを生じさせる。それはきっと視聴者が自分の外にある事柄を内面化するということなのだろう。何を内面化して一体いかなる人間に自分がなりたいのかがそこでは問題となってくるのだろう。それは国家内の主体的な人間か?それとも国家を越えるような人間なのか?それとも別の何かなのだろうか?