人間とは何か

映画「ゴースト・イン・ザ・シェル(原題:Ghost in the Shell)」を観た。

この映画は2017年のアメリカ映画で、映画のジャンルはSFである。

この映画の原作は日本人の漫画家、士郎正宗のマンガ攻殻機動隊である。マンガ攻殻機動隊をアニメ映画化したのが押井守GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊である。ちなみに士郎正宗にインスパイアを与えたのは、小説家であり哲学者でもあるアーサー・ケストラーのThe Ghost in the Machine 機械の中の幽霊である。

近未来、人と脳とネットが接続可能になり、人間の体が脳以外を除いて入れ替え可能になった時代が、この映画の時代設定である。人間の体が脳以外を除いて入れ替え可能になったというのは、人間の体を代替する義体化(サイボーグ化)が進んだということである。

この映画の主人公であるミラ・キリアン少佐は、脳以外はすべて人工物である。脳の中にあるのは記憶であるが、当初映画は人間の脳だけは人口に作られないものとして描かれている。

人間の脳とは、この映画の中でゴースト(幽霊)だと言われる。つまり脳の中には、人間が人間たる理由である精神、魂があるというのがこの映画がとる立場である。

しかし映画の終盤に近づくにつれて、この映画の人間性ともいえる脳の記憶が、人工的に作り上げられたものだということが明らかになる。脳だけは入れ替え不可能な人間性を証明するものであるといわれていたのが、脳の内容(記憶)も人口的であるということが明らかになる。

脳まで人工物ならそれは人間ではなく、人工人間であり、人間とは違うのではないか?そんな考えが頭をよぎる。この映画では脳は生きた人間の脳であったものが、サイボーグの体を与えられたという設定により、脳が人工物であるという事態は回避される。よって脳は人間性のシンボルであることが明確になる。

もしも、この映画で人間の脳が人工物であり、記憶もすべて人工物であるとなった時に、その存在は一体どういったものになるのだろうか?それは人間と同等か?それとも人間以上なのだろうか?

この映画は何が人間的なのかという問いをもたらすと同時に、その答えも用意している。何が人間的なのか。それはその人が何をなすかによって決まるとこの映画は言っているようである。つまり過去(記憶)のとらわれ過ぎずに未来に向かって生きる。その時々の決意こそが、その人の人間性または人間性以上のものをその人に生じさせるのである。