映像の説得力

映画「マッシュ(原題:M*A*S*H)」を観た。

この映画は1970年のアメリカ映画であり、1950年から1953年の間に起こった朝鮮戦争を背景とした軍医たちを中心とした物語である。

この映画は、朝鮮戦争のアメリカ軍の負傷兵が担ぎ込まれてくるマッシュ4077という移動米軍外科病院の軍医であるデューク・フォレストとホークアイ・ピアスそしてジョン・マッキンタイアたちが繰り広げるどんちゃん騒ぎを描いている。

ちなみにマッシュとは英語表記ではM.A.S.H.でMobile Army Surgical Hospitalの略であり、これは前述の移動野外病院を指す。

映画中に戦場で士気高揚のため兵士たちに映画を見せているが、タイトルが呼び出されるだけで映画の映像は流れない。映画のラストでナレーションがこう告げる。「今回上映する映画はマッシュです」。映画の外にあるものが、映画の中に存在する瞬間である。

映画は通常映画の中で語られない。この映画の中で観客が今観ている映画が示されることはない。しかしこの映画は違う。この映画では映画の中で、映画自身について言及されるのである。この時に映画を観ている人間は、映画が事実ではないことに改めて気付かされるのである。

「この映画は事実ではなくて映画という作り物であります」。なぜ人はこの表現に“はっ”とするのだろうか?それはきっと映画を観る人が、映像の説得力に負けているからであろう。人間はつぎはぎの映像に弱いのである。(つぎはぎではなくて“リアルタイム”で流れる映像を観ると、人はそれを現実であると、つぎはぎの映像よりも本当であると思い込み易いだろう。)

映画中、負傷兵の手術をする映像が何度も繰り返し登場する。これは映画であるから、この負傷も血も作り物であるだろうと人は予想することはできる。しかしそれはあまりにもリアルに作り込んであるから実際に人が負傷しているのではないかと考えてしまう。

つまり人は自身の予想を作り物のリアルさゆえに信じることができないのである。実際に負傷兵を見たことがない人も、映画の映像は実際だと思えるほどリアルであり、強い説得力持つのではないだろうか?

映像というにせものの作り出す現実に人は簡単に幸福してしまうのである。映画とは映像のトリックの集まりである。特殊メイクというリアルさの陳列である。

映画の映像はリアルであればあるほど評価されて、それにより映画はどんどん真実に近いにせものという逆説に満ちた表現手段となっていく。映画の前に人は一度はひれ伏すのである。