戦争の残酷

映画「娘は戦場で生まれた(原題:For Sama)」を観た。

この映画は2019年のイギリス映画で、映画のジャンルはドキュメンタリー映画だ。

この映画の舞台はシリアの東アレッポだ。この映画の主人公は、ドキュメンタリーを撮影している女性ワアドだ。ワアドには夫がいる、夫は医師のハムザという男性だ。そして、2人の間にはサマとタイマという子供がいる。

この映画では2012年の頃のシリアのアレッポの民衆蜂起から、シリア軍がアレッポを包囲して攻撃を始めてそこから主人公たちが抜け出すまでの期間をとらえた映画だ。この映画の撮影期間は5年間ほどだ。

シリアではアサド家の独裁が続いていて、それに市民は嫌気がさしていた。政府は腐敗し、不正が行われ、民衆を抑圧していた。そんな中、民衆の怒りが頂点に達して、民衆蜂起がおこった。

それに対して独裁政権のアサドは、武力で答えた。アサドは、シリアのアレッポという街を包囲して、攻撃を始めたのだ。攻撃はヘリコプターから落とされる爆弾や、ロシア軍の戦闘機からの空爆という形で行われた。

映画中に、監督であり撮影もしているワアドが女の子に質問をしていると、その女の子はクラスター爆弾という。まだ10代にもなっていないような幼い少女が、爆弾の名称をはっきりと述べるシーンに映画を観る者は寒気を感じるはずだ。

監督であるワアドは言う。「娘(サマ)が爆弾の音を聞いても何も反応しないのが悲しい」と。子供にとっては生まれてきてまだ世界の全体が見えているわけではない。子供にとっての世界は狭い。その狭い日常に爆弾が通常のものとして入り込んでいる。

この映画はイギリスの映画会社の下で完成をしている。そして空爆をするのはロシアの戦闘機だ。そう、この世界は西側と東側という対立構造を未だひきずっている。それが違うとしたらなぜ彼女の映画をイギリスが支援したのか?冷戦構造の名残りがみられるのでは?

世界を対局で見ると未だに冷戦時の構造が有効であるかのように見える。イギリス、アメリカ、フランスといった先進国の西側のリーダーたちと、ロシア、中国といった東側のリーダーたち。

世界は後進国の背景に未だに西側と東側の対立をひきずっている。まだ戦争は終わっていない。シリアにみられるように西側と東側の対立、言い換えれば、民主主義と独裁体制の戦いは続いている。

そして民主主義の中での戦いも今なお続いている。例えば大統領選挙で国が2分されるアメリカにみられるように。

この映画で描かれているのは地獄というにふさわしい映像だ。血が流れ多くの人たちがハムザの働く病院で死んでいく。その映像のリアルさにただ映画を観る者は圧倒されるのも事実だ。

人はなぜ戦うのか?土地のために戦うのか?人のために戦うのか?それとも妥協して生きていくのか?それとも妥協の限界点を越えてしまったのか?そんなことがこの映画を観ていると頭によぎる。ただ中道が戦争を回避する方法なのだろうか?疑問は多く募る。そして、戦争は良くないことだ。