古い共同体としてのアイルランドと新しい共同体であるアメリカ

映画「ブルックリン(原題:Brooklyn)」を観た。

この映画は2015年のアイルランド・イギリス・カナダ合作映画で、一人の移民の女性がアメリカ人としてのアイデンティティを得るまでの物語である。

この映画の主人公はエイリシュというアイルランドを移住前の国とする若い20代くらいの女性である。エイリシュは苗字をレイシーという。エイリシュ・レイシーがこの映画に登場する彼女の最初の名前である。

この映画の中でエイリシュはアメリカでイタリア系移民のトニー・フィオレロと結婚する。そしてエイリシュは、エイリシュ・フィオレロとなる。エイリシュ・レイシーからエイリシュ・フィオレロへ。この名前の変更が彼女の成長を表している。

映画の舞台は1940年代後半から1950年代の前半だと思われる。アイルランドでは不景気のためエイリシュにはしっかりとした職がなかった。しかもアイルランドは古くからの街である。

この場合の“古い”とはどういう意味か?“古い”というのは街中の人が街中の人のことについてよく知っているということである。そう街の人が、街の人について熟知しているのである。悪い所も、良い所も。

その点でアメリカはアイルランドとは大きく異なる。アメリカの人間関係は良く言えば新しく過去がない、悪く言えばお互いが無関心、疎遠である。この点でアメリカはアイルランドと異なっている。

エイリシュがアメリカの“新しさ”とアイルランドの“古さ”に気付く瞬間がある。それはアイルランド時代の近所の年老いた女が、エイリシュに「私はお前が夫を持っていながら、アメリカ人の夫を置き去りにして、アイルランドの身持ちのいい男と仲良くしているのを知っている」と告げた後である。

エイリシュはこの老婆(ミス・ケリー)の言葉によって自分が今身を傾けつつあったアイルランドという“古い街”の粘着質な悪い部分に気付くのである。

エイリシュはミス・ケリーという無思考な老婆にこう言い放つ。「私はエイリシュ・レイシーではない!!私はエイリシュ・フィオレロだ!!」と。エイリシュは自分の帰属先をアイルランドではなくアメリカであると言うのである。私は人の噂話を陰でひそひそとしているような場所では暮らせないと。

しかしこうも言える。他人についてひそひそ話をしているような場所は共同体的な結束が強く、社会の包容力もその方が良く、弱者やはぐれ者を生み出さないのだと。アメリカでは失業者は路上にあぶりだされる。アイルランドでろくな職がないエイリシュも家族とミス・ケリーの店に包摂されていた。

しかし、誰が陰口を囁かれるような共同体を好むのだろうか?人間が生きていくために共同体は必要なのだろう。しかし“古い”ままの共同体など一体誰のために存在するのだろうか?「意地悪い共同」は変化すべきである。