世俗を捨てて北で生きる

映画「ファイブ・イージー・ピーセズ(原題:Five Easy Pieces)」を観た。

この映画は1970年のアメリカ映画で、ある一人のアメリカ上流階級出身の青年の心の葛藤を描いた映画である。

映画のラストで主人公ボビー(=ロバート)は、自分の所有物をすべて捨てて北へ向かうトラックに、ヒッチハイクのようなことをして乗って旅立って行く所が、ジョン・クロカワーの「荒野へ」という本と、その映画化としてのアメリカ映画「イントゥ・ザ・ワイルド」を思わせる。

クロカワーの「荒野へ」とその映画版の「イントゥ・ザ・ワイルド」という一つの物語と、この「ファイブ・イージー・ピーセズ」は時系列的に前後関係にある。前が「ファイブ・イージー・ピーセズ」で、後が「荒野へ」である。

この2つの作品をとおしてみると一つの一貫した物語が見えてくるように思われる。

この2つの作品の時間経過を表すとこうだ。上流階級出身の青年が、その生後に持った特権を捨てて、上流階級とは異なる世界へ、もっと言うならこのクソな人間社会とは別の世界へ旅立って行くという時間経過だ。

「ファイブ・イージー・ピーセズ」の主人公は、上流階級の音楽家の家に生を受けるのだが、主人公ボビーは上流階級の社会を異常だと思っている。ゆえに自分自身を肯定的に見ることができない。

ボビーは心底上流階級が嫌いで、その生活が染みついている自分自身を愛することができない。人は自らを愛するように他者を愛するとよく言われる。自分から自分への愛を確認することにより、愛の在り方を知って、そこから「愛し方」を人は学ぶのである。

自分の中で愛を感じることができなければ、人はどう愛していいのかわからないのである。ボビーが映画中で愛するキャサリンという女性にボビーは「自分自身やその周りの環境を愛せない人は、他人を幸せにすることはできない」と交際を拒否される。

その後ボビーは死の間際で俳人のようになって何の反応もしない父にこう語りかける。「僕がいるとそこが悪くなる」と。ボビーはきっとどんな場所に居てもその場所の悪さが見えてしまうような鋭い視線を持っているのだろう。だからボビーにとって上流階級だけでなく社会そのものが、所属するのにあたらないものなのだろう。

人間社会のどの場所に居ても居心地が悪い。それがボビーの持つ本音であり、それを修正することはボビーの若さではまだ無理なのである。なぜならボビーは“どこかに住みやすい場所がある”という信念を生きているからである。

どこに居てもその場所の欠点が見えてしまい、心地悪い。そんなボビーが目指したのは“北”だったのである。つまりボビーは人間を見限ったのだろう。