自信を取り戻すこと

映画「ソウル・パワー(原題:Soul Power)」を観た。

この映画は2008年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドキュメンタリー音楽映画だ。

この映画の時代は、1974年だ。この映画の舞台は、少しだけアメリカのニュー・ヨークが出てくるものの、主な舞台は、アフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)だ。

1974年の9月20日から22日の3日間にかけて、アメリカとアフリカのミュージシャンを集めて、スタジアムのような大きな会場で、音楽祭を行う様子のドキュメンタリーを撮ったのがこの映画だ。

この映画に登場するアメリカのアーティストは、ジェームス・ブラウンB・B・キングミリアム・マケバ、ザ・クルセイダーズ、スピナーズ、ビル・ウィザーズなどだ。

一方、アフリカのアーティストは、フランコ・OKジャズ、ベンベ・ダンス・トゥルーブ、セニア・クルーズ&ファニア・オール・スターズ、ファニア・オール・スターズ、ダニー・ビッグ・ブラッグ・レイ、タブー・レイ・ロシェロー&アフリザ・アンテナシオナルなどだ。

最近(2023.1.28日時点)のアフリカのコンゴでは、政府とM23という反乱軍のグループが対立している。M23は少なくとも50人の市民を、キンシャサの東の町で殺している。この対立で、40万人の人たちが住んでいる場所からの移動を余儀なくされている(2022.11.5 Democracy Now! Headlineより)(1)。コンゴは、戦争が絶えない地域でもある。

コンゴキンシャサは、この音楽祭が行われた土地だ。この音楽祭はそもそも、世界的に有名なボクシング選手のモハメド・アリが、ジョージ・フォアマンとの世界ヘビー級王者決定戦に挑むのに関連して行われた音楽祭だ。

1974年の当時のザイール(現コンゴ共和国)は、政府と反逆グループとの目立った対立はなく、モブツ大統領のもとで、3日に渡る音楽祭の実行が決定された。ただ、モブツ大統領はこの音楽祭に出資はしておらず、出資は、リベリアの投資家が行っている。

この映画には、リベリアの出資者の代表が登場する。その代表者が、音楽祭の運営に厳しくチェックを入れている様子が映画の中で描かれるが、その代表者のキース・ブラッドショーという白人男性の存在がどうもうさんくさい。

ブラッドショーは、音楽祭の運営の状況を厳しく金銭面でチェックしている。音楽祭の日にちがずれると経費がかさむが、その金は一切出さない、などと厳しく、会場の設営の状況をチェックしている。

ただ、ブラックショーが、会場の設営の遅れに苦言を呈する様子が、いかにも作り物っぽい感じを映画を観る者に与える。ブラックショーは常ににやにやしていて、演技をしているかのようだ。まるで、音楽祭の開催に枷があるように。

音楽祭の進行がうまく運ばないというのは、この映画を盛り上げるために、映画撮影者が一芝居うっているかのように思えてしまう。こんなに都合よくカメラの前で、苦言を呈するものなのだろうか? そのあたりが気になる所だ。

この映画の背景には、アメリカの黒人奴隷制度の問題と、黒人の人種隔離政策の名残りの問題がある。アメリカでの黒人人種隔離政策は、1964年に公民権法が成立したことで一旦区切りがついたように見えるが、実際は黒人に対する差別は1974年当時も続いていた。

現在(2023.1.28)でも、黒人に対する暴力は続いている。2023年の1月で、カリフォルニアのロサンゼルスで警察の暴力により、黒人やラテン系の人が殺されている。

ブラック・ライブス・マターの共同設立者の黒人のパトリシー・コウラーズのいとこで英語教師でもある黒人のキーナン・アンダーソンが、警察のテザー銃で感電死させられている(2)。毎日Democracy Now!をチェックしていると、度々、警官による有色人種の殺害が耳に入る。

現在のアメリカでも、1974年にモハメド・アリが、この映画の中のザイールで語ったアメリカにおける黒人の状況は、完全には改善されていないことがわかる。アメリカ黒人を巡る状況が、そしてアメリカ社会自体の暴力が、現時点でも終わっていないことが、ニュースから伝わって来る。

この映画はジェームス・ブラウンが、ソウル・パワーを歌っているシーンから始まる。この歌を歌い「ソウル・パワー」とジェームス・ブラウンが発する度に、両腕を高く天井に向かってあげる。まるで、黒人の上にのしかかる人種差別という天井に対して拳を突き上げるように。

この映画では「ブラックネス」という言葉が使われる。ブラックネスとは、“黒人であること”という意味だ。この映画に登場するモハメド・アリや、ジェームス・ブラウンは、「黒人であることに誇りを持て!!」と映画を観る者を鼓舞する。そして、その鼓舞は、映画を観るすべての虐げられている人たちにもそう語りかける。

「Damn right on somebody!!」と、映画のクライマックスで言っているのだろうか? 筆者の英語力では、何とジェームス・ブラウンが映画の最後で言っているかはわからないが、字幕ではこう訳される。「俺はれっきとした人間だ!!」と。

すべての黒人だけではない。ラテン系や、アジア系、中東系、インド系などのすべての、優越者と自分を考えている人たちに虐げられる人たちに対して、この映画は強いメッセージを放つ。「自信を持て、君は素晴らしい」。そうこの映画は、映画を観ている者に語り掛ける。

黒人はアフリカ大陸から、アメリカ大陸に奴隷船で、足かせや手錠でつながれて、糞尿まみれになるような過酷な環境で、連れてこられた。1492年にコロンブスがインドと間違えて到着したアメリカ大陸に、黒人は無理やり入植させられた。

黒人に人権はなく、綿花畑での日々の労働は過酷だった。白人の奴隷主の家で、家事手伝いとして働かされた人もいた。黒人奴隷の女性は、白人の主人にレイプされ、妊娠させられた。その子供は奴隷として売り払われ、親子は離れ離れになった。

黒人奴隷は、奴隷だ。小屋に住まわされ、食事も粗末なもので、1つの部屋に数人が雑魚寝した。逆らうと鞭で打たれた。時には、リンチされて殺されて、死体が木につるされることもあった。

アメリカの南部に行くと今でも、黒人がつるされたような木がある。アメリカの歴史に、黒人奴隷の存在は重くのしかかる。その罪を犯したのは、白人の奴隷主だ。黒人奴隷と奴隷船と奴隷主と黒人の現在を描いた映画に、「クロティルダの子孫たち―最後の奴隷船を探して」というドキュメンタリー映画がある。奴隷船が違法であることを知りながら、最後のアメリカへの奴隷貿易を行い、その船は事実を隠すために、燃やされてその残骸は川の底に今でも残っている。

奴隷であった歴史に、公然と立ち向かい、黒人であることの誇りを鼓舞した人物たちがいた。マーティン・ルーサー・キングやマルコムX、ストークリー・カーマイケル、フレッド・ハンプトン。まだまだたくさんの人がいる。

その人たちはこうも言っているように、感じられる。「すべての人々よ、自信を、誇りを、持て」と。

 

 

 

1

Tens of Thousands of Congolese March to Demand Peace in DRC | Democracy Now!

2

Keenan Anderson: BLM Co-Founder Patrisse Cullors Demands Justice for Cousin’s Death After LAPD Tasing | Democracy Now!

 

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富裕層は爬虫類?

映画「ゼイリブ(原題:They Live)」を観た。

この映画は1988年のアメリカ映画で、映画のジャンルはSFアクションだ。

この映画で描かれるのは、わかりやすく言うと、アメリカの富裕層とアメリカの貧困層の対立だ。

2024年、現在、世界には世界の富の多くを独占しここ近年富を増加させた5人のビリオネアがいる。それは、グローバル・ノースに住む、つまり世界を貧しい南側と富んだ北側と分けた時の北側に住む人たちのことだ。世界の最もリッチな1%は、世界の金融資産の43%を所有している。世界のビリオネアのうちの一人は、元アマゾンのCEOのジェフ・ベソスだ。https://www.oxfam.org/en/research/inequality-inc

この映画「ゼイリブ」では、アメリカの富を独占するリッチな人たちと、それに群がるプチリッチな人たちについて描いている。この映画「ゼイリブ」は、1988年の映画で、その頃はまだ、世界の富は今日ほど少数の人の間に多く所有されている状況ではなかったが、それでも世界にもアメリカにも、格差はあった。

先に引用した5人のビリオネアについての統計は、2024年のオックスファムOxfamの世界の富の統計だ。それは、国境を考えずに世界全体の富の状態を示している。

ただ、この映画のようにアメリカ全体のことに限定するとどうだろうか? 例えばアメリカのテスラのCEOのイーロン・マスク。フォーブスによると、イーロン・マスクの2023年の資産は2510億ドルだ。https://www.forbes.com/sites/mattdurot/2023/10/03/the-richest-person-in-america-2023/?sh=b1745e427a29 イーロン・マスクはビリオネアだ。

スタティスタ(statista)というサイトによると2023年、アメリカのトップ10%の人たちが、アメリカの富の66.6%を独占している。アメリカの底辺の50%は、富全体の2.6%しか所有していない。また、2021年アメリカの9.3%の家庭が、年間所得が15000ドル(日本円にして約225万7252 2024.2.24 5:30頃)以下だった。https://www.statista.com/statistics/203961/wealth-distribution-for-the-us/

ちなみに、2023年のアメリカの富の全体は、454兆4000億ドルだ。https://www.ubs.com/global/en/family-office-uhnw/reports/global-wealth-report-2023/_jcr_content/mainpar/toplevelgrid_5684475/col2/linklistnewlook/link_copy.0357374027.file/PS9jb250ZW50L2RhbS9hc3NldHMvd20vZ2xvYmFsL2ltZy9nbG9iYWwtZmFtaWx5LW9mZmljZS9kb2NzL2RhdGFib29rLWdsb2JhbC13ZWFsdGgtcmVwb3J0LTIwMjMtZW4ucGRm/databook-global-wealth-report-2023-en.pdf

先ほどの、イーロン・マスクの資産は、他の統計と比べると多少多く見積もられているが、ここではイーロン・マスクの富を2510億ドルとして考える。年間所得が15000ドルの家庭と、イーロン・マスクの資産2510億ドルを比べると、イーロン・マスクの資産は、年間所得が15000ドルの家庭の約1673万倍になる。この数値でも、アメリカの富の格差が明確にわかる。1673倍だ。イーロン・マスクがいかに富を独占しているかが明確にこの数値が語っている。

映画「ゼイリブ」は、アメリカにある格差の状態をどう示しているのか? それは、この映画「ゼイリブ」を観てもらえば明らかになると思われる。

普段、もしイーロン・マスクのような金持ちと、その金持ちが装飾品を何もつけずに、格安店で買った服を着てすれ違ったら、もしそのリッチな人がイーロン・マスクほどメディアに露出していなかったら、私たちはその人がスーパーリッチであることに気付かないだろう。

そして、そのスーパーリッチが、手に銃を持って、女性や老人や子供を威嚇していなければ、そのスーパーリッチの極悪性はわからないだろう。

しかし、この映画「ゼイリブ」では、視覚的にスーパーリッチの極悪性がわかるようになっており、その極悪な視覚性を持った人物が、「俺みたいにリッチにそのうちなれるよ」と発言することにより、金持ちは視覚的に起因して音声的にも極悪ということが、明確に映像と音声で示される。

この映画「ゼイリブ」の原作となったのは、レイ・ネルソンの「朝の8時」というショート・ノベルだ。https://pvto.weebly.com/uploads/9/1/5/0/91508780/eight_o%E2%80%99clock_in_the_morning-nelson.pdf

ジョージ・ナダという男がいて、その男が催眠術をかけられる。すると、普段何気なく観ていた景色の中に異質なものが見える。そこには爬虫類のような顔をした人がいて、その爬虫類のようなエイリアンが、「政府に従え。我々が政府だ」と言っている。

それを見たジョージ・ナダは、何か得体のしれない者に社会が乗っ取られていることに衝撃を覚えて、その爬虫類のようなエイリアンを殺し始める。

見た目が異質なだけで、エイリアンを殺すのならば、人種差別と似たようなもので、そこには排外主義的な醜悪さがあるだけだ。

しかし、ポイントは、その爬虫類の見た目をしたエイリアンが、政府であり、政府に従えと言っていることだ。

例えば、ここでアメリカ人の保守の思想を思い出してみる。アメリカの保守が思い描く思想は、“最小国家”だ。国家は人の自由を縛るものと考えて、人々の自由のために国家を最小にすることを、アメリカの保守は望んでいる。

そして、その時に必要とされるのが、共同体の連帯だ。つまり、大きな政府では、困った人を政府が助けるが、小さな政府では、困った人を助けるのは、政府ではなくて、隣人だ。そこで、宗教的な共同体が登場することもあるだろうし、無神論者の共同体が助け合いを政府の力を借りずに行うこともあるだろう。

つまり、アメリカの伝統は、最小国家にある。それを、念頭に置くと、なぜジョージ・ナダが、爬虫類のようなエイリアンに違和感を持ったかわかる。それは、エイリアンの見た目と言うよりも、そのエイリアンが「私たちは政府で、その政府にお前たちは従え」と言っていることに起因する違和感だ。つまり、エイリアンとはアメリカ人保守層の反感を買うものなのだ。

ただし、大きな政府を信条とするアメリカのリベラルの人が「我々が政府だ。我々に従え」と言われたら、もし我々が国民でなく、一部の支配層のことならそこでも反発を、この支配層であるエイリアンたちが買うことになる。保守もリベラルも共通して重視しているのは、我々の幸福を決めるのは、我々であるということだ。だが、エイリアンを殺すのは行き過ぎかもしれないが。

この映画「ゼイリブ」は、格差を描いた映画だと書いた。この映画を観れば、レイ・ネルソンの描いたような小説の文字が、映像となってわかりやすく描かれていることがわかると思う。ただ、この映画を理解するには、国を動かしているのは国民一人一人だという意識と、アメリカ人の持つ自由への熱望、のようなものを理解しいている必要がある。

経済格差があっても自由があればいいじゃないか、という声も聞こえてきそうだが、経済格差があり貧困があると、その日の暮らしに精一杯で、自由を感じる時間などないかもしれない。

貧困と幸福という問題もあるかもしれない。スーパーリッチが幸福であるとは限らないというマザー・ジョーンズの記事を読んだが、しかし、食べるものや着るものに困り、衛生状態が悪くて病気になるようでは、幸福の最低限のレベルを満たしているとは言い難い。https://www.motherjones.com/media/2023/06/succession-finale-logan-roy-siblings-inheritance-wealth-misery/ 

ただ、そこにある一瞬の幸福は他では得難いという、貧困を肯定する見方があるとしても、その幸福とやらは、貧困を忘れた瞬間にやって来るものなのではないだろうか?

格差を視覚的にわかりやすく描いた映画が、この映画「ゼイリブ(意訳:支配層の爬虫類系たちは(人間を)監視している)」だ。

反体制

映画「ワイルドバンチ(原題:The Wild Bunch)」を観た。

この映画は1969年のアメリカ映画で、映画のジャンルは西部劇だ。

この映画の舞台は、西部開拓時代の1860年代から1890年の間だと思われ、場所はアメリカとメキシコだ。また、1846年から1848年の間に、アメリカとメキシコの間では、米墨戦争が起こっている。

米墨戦争は、テキサスを取り合って戦争が起こった。この映画では、メキシコのシーンで車が登場する。メキシコの近代化を進めたのが、ポルフィリオ・ディアスという人物で、1870年から1880年の間と、1884年から1911年の間に大統領になっている。

ディアスは、メキシコ革命前の最後の大統領だ。メキシコには、リカルド・フロレス・マゴンとエンリケ・フロレス・マゴンというジャーナリストの兄弟がいて、自由のためにディアスの政権と闘った。

この映画は西部劇となっていて、近代の車が登場するので、近代化を進めたディアスが大統領の時代の時代設定になっていると考えられる。だとすると、この映画の時代は、1870年から1880年の間だと考えることもできる。

この映画は、老いを描いた映画だということができる。この映画の監督である、サム・ペキンパーはこの映画が公開されたとき44歳だ。40歳半ばになって、20歳代、30歳代の時より老いに目が向くようになっていると考えることができる。

この映画の中心となる、パイク、ソーントン、サイクス、ダッチ等の人物は、初老の年齢だと思われる。映画の中でも、「年寄り」といって馬鹿にされたり、「若かったころは」と昔話をしたりするシーンがある。この映画は、老いも扱っている。

この映画は、アメリカで、パイクたち一味が、アメリカの鉄道会社を襲うシーンから始まる。鉄道会社には大金があると聞いて、パイクたち一味は計画を立てて、銀行を襲う。だが、その襲撃は待ち伏せされている。

その際に激しい銃撃戦が行われて、パイクの仲間や、パイクを襲った政府、そして鉄道会社の民間人や、通行人の死者が出る。この時、政府にパイクを襲うために連れてこられた囚人は、民間人も容赦なく打ち殺す。

この映画の代名詞として、残酷さを上げることができる。民間人が残酷に殺され、パイクたちの仲間のメキシコの現地民は、車で引きずり回されて殺される。売春婦たちは、パイクたちの盾となって死んでいく。

この映画には、「俺たちは金と女さえあればいい」というようなセリフが出てくる。これはパイクの仲間のダッチが言う言葉だ。現地民は、アメリカ政府やメキシコ政府から取り上げられた土地を奪い返すために闘うが、パイクたちは金と女のために生きていると言う。

実際この映画の中では、金を手に入れると、パイクたち一味は酒と女を買う。金があれば何でも欲しいものは手に入る、というのがパイク一味の考えであり、それがパイク一味の生き方だ。つまり、パイク一味はこの映画の主人公ではあるが、決して正義の味方ではない。

この映画では、売春婦の表情が乏しい。金で買われて売春をする女性は、男たちが笑うと愛想笑いをして、それ以外は無表情だ。そこには、女性の権利など全くないと言っているかのようだ。金のために男といるのだから、男の傲慢な性欲に従っていて、それが仕事なので、楽しそうにしているはずはない。

当時のメキシコでは、政府のjefes pditicosという政策のもとで、政府は女性を強制的に性奴隷にすることが可能だった。パイク一味にあてがわれる、メキシコ政府の所持する性奴隷の女性たちが、楽しい表情をするのは、それが、強制的だからだ。("Bad Mexican" Kelly Lytle Hernandez p.31 2022)

この映画では、反体制と体制側の対立が描かれもしている。パイクたち一味はアメリカの反体制グループで、パイクを襲う囚人を使う政府は体制側だ。一方、メキシコにも反体制と体制側が存在する。

メキシコの反体制側は、パイクたちの一味に参加しているメキシコの現地民のエンジェルという人物や、パンチョ・ビラというメキシコの現地民からなる反体制のグループだ。それに対して、メキシコの体制側の人物は、ドイツのモール中佐から武器についての助言を受けているマパッチ将軍が率いるメキシコの政府軍だ。

メキシコの政府軍の従う大統領は、先ほど言及したポルフィリオ・ディアスだと思われる。つまり、メキシコの内部では、独裁制を敷くメキシコ政府と、メキシコの現地民の間で対立が起こっている。

エンジェルの恋人で、政府軍の将軍の愛人になったテルサという人物は言う。「現地民たちが住んでいる場所では食べるものにも困るじゃない。だったら将軍のもとにいた方がまし」。エンジェルはこの愛人を撃ち殺してしまう。

この映画では馬鹿にされている人物が登場する。それはパイクもそうだが、パイクと古い付き合いがあるソーントンとサイクスもそうだ。ソーントンは、パイクと以前行動を共にしていたが、政府に捕まり囚人となっている。

ソーントンは、政府に「自由になりたかったらパイクたちを殺せ」と言われて、渋々パイクの追跡をしている。そして、同じ主人仲間たちから、年寄りでもリーダーとして威張るやつとして、馬鹿にされている。

サイクスは、パイク一味と行動を共にする。パイク一味の世話役をやっているのだが、コーヒーもろくにいれられなくなって、パイクたちの一味から馬鹿にされていじめられている。

このソーントンとサイクスが、この映画の実は隠れた主人公であることが、この映画のクライマックスで明らかになる。そこでは、虐げられた者が、生き残り、映画を観ている者にその姿は、安堵感を与えてくれる。

年老いた囚人とつまはじきにされている老人が、映画のクライマックスで救われたかのように映るからだ。この映画のラストでは、囚人として無理やり政府に働かされているソーントンと、パイク一味にいじめられ続けているサイクスが、輝いて見える。

この映画には、メキシコの政府軍が、アメリカの蒸気機関車を襲って、アメリカ製の武器を盗むシーンがある。メキシコ政府が、アメリカ政府と対立しているというようなシーンだ。米墨戦争前、メキシコからアメリカへは、大量の移民がアメリカ西部ための労働力としてやって来ていた。

米墨戦争がはじまると、そのメキシコからの移民の子孫たちは、下級市民として扱われるようになった。低い賃金や、危険な労働環境、分離政策、人種を基礎とした強制移民政権に、これらの下級市民と呼ばれた人たちは立ち向かった。

アメリカ政府は、メキシコの人たちを植民地の劣った住人としか見ていなかった。つまり、アメリカの反体制のパイクや、ソーントン、サイクスは、アメリカ政府に対する立場として、非常にメキシコの人たち、似ていて、彼らは連帯することが可能だとも思われる。それがこの映画のクライマックスとして観ることもできる。

欠点を認める

映画「非常に残念なオトコ(原題:Shortcomings)」を観た。

この映画は2023年のアメリカ映画で、映画のジャンルはコメディだ。

この映画の主人公はベン・タガワという日系三世のアメリカ人で、カリフォルニアのバークレーに住んでいる30歳くらいの、大学の映画学科を中退して映画を撮ったが失敗に終わり、今は映画の劇場の雇われ支配人をしている男だ。

ベンにはミコ・ヒガシというガールフレンドがいる。ミコは、映画関係の仕事に就いており、イーストベイ・アジアン・アメリカン映画祭なるものの企画に関っている。ベンとミコは付き合って6年経っていて、最近はベンの持ち前の皮肉たっぷりの劣等感から来る相手への辛辣さから、2人の間は不和になっている。

この映画「非常に残念なオトコ(原題:Shortcomings)」は、エイドリアン・トミン(Adrian Tomine)の“ショートカミングス(Shortcomings)”(2007)というグラフィック・ノベルが原作になっている(1)。この映画の原作のグラフック・ノベルについては、2007年の11月11日にニュー・ヨーク・タイムズで記事になっている(2)。登場人部の名前などが多少違ったりするが、大筋はこのコミックに従ってこの映画「非常に残念なオトコ」が作られているようだ。

ちなみに、この映画の原題:Shortcomingsは、単語のshortcomingの複数形だ。shortcomingは、「誰かのキャラクターや、計画や、システム等の欠点」という意味だ。原題では複数形のShortcomingsになっているので、複数の欠点があることを示しているのだろう。

原作の“ショートカミングス”の淡々としたスタイルは、映画にもなった“ゴースト・ワールド(Ghost World)”や“デヴィッド・ボーリング(David Boring)”のダニエル・クロウズ(Daniel Clowes)や、“ラブ・アンド・ロケッツ(Love and Rockets)”のヘルナンデス兄弟(the Hernandez brothers)のグラフィック・ノベルから影響を受けているようだ。

原作の淡々としたスタイルは、この映画「非常に残念なオトコ」でも受け継がれている。映画は、ベンの恋愛を中心とした日常を描いていて、淡々として、時にユーモラスで、時に残酷だ。

ベンは、白人の女性に執着を持っている。ミコは映画の前半で、ベンが白人女性ばかり出てくるポルノをパソコンで見ているのに対して怒る。「あなたは白人の女の子が好きなのに、妥協してアジア系の私と付き合っているわけ!?」。ミコは、自分がベンに尊敬されていないのと感じ、それに対して不満を感じて、ベンに対して切れる。

ベンは、普段から、愚痴や嫌味を、ミコに対してブツブツとつぶやいたり、怒鳴ったりする。それに対して、ミコはいい加減にうんざりして、ミコはカリフォルニアのバークレーからニュー・ヨークに行ってしまう。

ベンは、周囲の環境をうまく愛することができない。ベンは昔で言うインテリだ。きっと、優秀な大学で映画の勉強をしていたと思われる。ベンは自分のインテリジェンスにより、世界が偽善に満ちていることを見過ごせない。ベンは、誰彼構わず皮肉を吐いてしまう。

ベンは高校時代学校で一人のアジア系だった。その高校時代をベンはどん底の時代と述べる。きっとベンは、孤独感を味わっていたのだろう。持ち前の皮肉で、自分の境遇をマイナスに批評して、周囲に溶け込めなかったのだろう。

アジアン・アメリカンへの差別で連想されるのは、ここ数年で起こった、アジア人女性に対するアメリカ合衆国でのヘイト・クライムだ。アジア系の女性が、アジア系であるという理由だけで襲われて殺される事件が起きている。アジア系への差別は、アメリカ合衆国では実は根強い(3)。

映画中に、アジア系に対するアジア系の差別の歴史が語られる。それは、日本人による韓国人のレイプだ。第二次世界大戦中に日本人は、韓国人女性を慰安婦と名付けてレイプをしていた。韓国人女性が、生きるために慰安婦になることを選択したという意見もあるようだが、戦争中に慰安婦になるか貧しく暮らすか? という選択を迫られていたとしたら、韓国人女性にとって生きる道の選択肢はないに等しい。韓国人女性は自ら慰安婦になることを望んだのだ、と言えなくもないが、それはあまりに韓国人女性の当時の状況を甘く見ている。ただ戦時は、誰もが余裕がなかった。だから、その中での韓国人女性の選択肢があることは、まだましだったというのだろうが、慰安婦と暴力は同じことだ。だから、今現在の価値観で慰安婦を認めることはできない。それと、同時に第二次世界大戦下での人々の置かれた状況を正常と呼ぶことはできない。戦時下は異常時で、それを後世がしかたなかったとすることは、暴力を正当化することに等しい(4)。

映画中、ベンのレズビアンの友達のアリス・リーが、日本人による韓国人女性のレイプに関して、もっと本を読んで勉強しろ!!とベンに言うシーンがある。日本人の従軍慰安婦問題を責められた日系三世のベンは、「第二次大戦中に僕のおじいちゃんたちは、アメリカで強制収容上に入れられていたから、僕は日本人の韓国人女性へのレイプには関係ない!!」と言う。苦し紛れだ。

アメリカ合衆国の日本人は第二次世界大戦中に、アメリカ合衆国が参加する連合軍の敵国の血を継ぐ者だということで、差別されて強制収容所に入れられていた歴史がある(5)。ベンの言っていることは事実だ。ただ、ベンは言い逃れしているに過ぎない。韓国人の心情を考えるならば、ベンは自己弁護するべきではなかっただろう。

ちなみに、満州に移住して終戦になりそこから引き上げる日本人の実話が本になっている。そこでは、日本人の特定の地域からまとまって満州に移住していた団体が、身の安全と食糧を得るために、それまで日本人の敵とされてきた軍人へ自分たちの集団の中の女性を性奴隷として、軍人たちへ提供していたという事実がある(6)。

日本人は、レイピストだ、とアリス・リーに言われても仕方がないような歴史があることは事実だ。日本人は、韓国人のレイプをして、日本人の同胞を性奴隷として敵国の兵士に提供した。戦争という非常事態を生み出すのは人間で、そこで非人道的な行いをするのは人間だ。フロイトは人間にはエロスとタナトスがあると言った。性欲と破壊。その両者が、人間の残酷な状態として現れるのが、戦争だ。

自分の失敗を認められない日本人。自分のマイナス面を認められないベン。この両者はとてもよく似ている。両者とも、自身の欠点を認められず、成熟した人間になることができていない点で。

この映画はベン・タガワの成長の物語だ。ベンにとって重要なのは、ミコと関係を戻すことではない。ミコを一人の人間として尊敬することだ。ミコを一人の人間として尊敬することができるようになることが、ベンにとっての成長だ。

日本人が韓国人を人と認め、日本人男性が日本人女性を人として認める。僕も普段から職場などで、女性を家事手伝いと性欲のはけ口だと思っている男性の本音が思わず飛び出した発言を耳にするたび、日本人男性はまだ家父長制にしがみつき、女性を人として認めていないのだな、と痛感している。

差別する側が人間として成長する、つまり差別する側が人間になることで、差別される側もまた、差別する側にとってようやく人間になる。そのためには、差別する側の中にある人間像を真に人間的なものにする必要があり、差別する側の劣等感を取り除く必要があるのだろう。

ちなみに、この映画「非常に残念なオトコ」には、オータムという白人女性が登場する。ここで映画「(500)日のサマー」(2009)を思い出す(7)。映画「(500)日のサマー」では、サマーという女性に失恋した主人公がラストで、オータムという女性と出会う。そう、映画「(500)日のサマー」も主人公が自分の本当になりたい自分を取り戻す物語だった。このなりたい自分というのは、人間として輝いている自分、つまり成熟した理想的な人間となった自分だ。映画「非常に残念なオトコ」も、映画「500日のサマー」も同じ問題を扱っている映画だ。そして、この両映画のラストの違いは、非常に興味深い。

 

 

1. 

https://drawnandquarterly.com/books/shortcomings/

2. 

Shortcomings - Adrian Tomine - Books - Review - The New York Times

3.

We Were Supposed to Help Asian Migrant Women—Instead We Got Police | The Nation

4. 

1975年に元慰安婦だと初めて明かした女性がいた その生涯を学ぶ20代、30代が感じたこと:東京新聞 TOKYO Web

5. 

Never Again: Human Rights Groups & Japanese Americans Warn Biden Against Jailing Migrant Families | Democracy Now!

6. 

ソ連兵へ差し出された娘たち/平井 美帆 | 集英社 ― SHUEISHA ―

7. 

(500)日のサマー : 作品情報 - 映画.com

現実をみつめる

映画「泳ぐひと(原題:Swimmer)」を観た。

この映画は1968年のアメリカ映画で、映画のジャンルは悲劇ドラマだ。

この映画の主人公は、ネッド・メリルという中年の男性だ。この映画の舞台は、ニューヨークの郊外だと思われる。

この映画には、小説の原作がある。その小説は、ジョン・チーバーというアメリカのショート・ストーリーと小説の作家で、チーバーは、時々、「郊外のチェーホフ」と呼ばれていた。チェーホフは、ロシアの脚本とショート・ストーリーの有名な作家だ。

この映画の原作になったのは、日本では「泳ぐ人」として出版されている、原題は「The Swimmer」という1964年の6月18日から雑誌ニュー・ヨーカーに登場した物語で、1966年に映画の脚本になった。

この映画「泳ぐひと」には、チーバーがカメオ出演している。映画に主人公のネッドの知人役で登場したチーバーは、ネッドに対して謝罪する。「君をあんな目に合わせて、ごめん」と、ネッドの知人役のチーバーは、主人公のネッドに対して、ネッドの近所の家のパーティーで言う。

なぜ、この映画「泳ぐひと」の原作の物語を書いたチーバーは、主人公のネッド(バート・ランカスター、映画「エルマー・ガントリー」でアカデミー賞ゴールデン・グローブ賞で主演男優賞をとっていて、アカデミー賞の主演男優賞に4回ノミネートされている)に対して、謝罪をしたのか?

それは、この映画「泳ぐひと」でバート・ランカスター演じるネッドは、とても酷い目に合うからだ。酷い目とは、簡単に言ってしまえば没落することだ。チーバーは、自分の書いた小説で、主人公を酷い目に合わせており、それを演じているバート・ランカスターに、酷い目に遭わすことを謝罪している。

この映画「泳ぐひと」の舞台は、ニュー・ヨークの郊外だ。アメリカの都心部には貧しい人が住み、郊外にはお金持ちが住んでいる。アメリカの都心部の貧しい地域のことをスラムと呼ぶ。スラムのように、都市ができるとそこには貧民街、貧民窟ができる。アーバナイゼーション(都市化)と貧困は常に同時に存在する。

工業化により、農業ではなく、工場で製品が作られるようになると、地方の農業をやって暮らしていた人たちは、工場の従業員なるために都市の工場に吸い寄せられる。その際に、工場では雇いきれない人たちは、失業者となる。その失業者が住むのが、貧民街や貧民窟だ。

その都市でホワイト・カラーとして働き、電車でニュー・ヨークまで通勤しているのが、この映画「泳ぐひと」に登場してくる人たちだ。一方、ブルー・カラーのいわゆる肉体労働者たちは、都市部の安アパートで暮らしている。

この映画「泳ぐひと」では、郊外の上流階級の暮らしを垣間見ることができる。主人公のネッドも、この郊外の上流階級だった人間だ。しかし、今では、妻と娘と離れている。要は、ネッドは妻に捨てられている。

この映画は最初、郊外の豪邸のプールサイドから始まる。そこで、水泳パンツしか着ていないバート・ランカスター演じるネッドが、突然こう言い出す。

「この家から、僕の家まで泳いで行こう」と。もちろん、その家から自宅まで伸びる川や湖などそこには存在しない。ネッドは、こう言う。「この家から、隣接する家々のプールを泳いで自宅に辿り着くんだ」と。

ネッドはそのルートのことを「ルシンダ河」と呼ぶ。ルシンダとは離婚する前の妻の名で、目的地はネッドとルシンダが住んでいた、ネッドの家だ。ただ、ネッドの妻は、別の男とその家のプールサイドに立っている。つまり、ネッドとルシンダは離婚している。

ネッドは、何を言っているのか? そう、それは、ネッドが自分の身に起きたことを十分に理解できていないことを示している。ルシンダ河を泳ぐ家路への道とは、ネッドのそれまでの人生を辿る道となっている。

ネッドは、気がふれているのだろうか? 多分最初の時点では、そう取られても仕方ないかもしれない。ただ、ネッドは、ルシンダ河を泳ぎ切ることで、過去を受け入れて、自分の人生をその時、再認識することになる。

この映画は、自分が昔から住んでいる、近所の家々を渡ることになる。その家を渡る順が、ネッドの人生の時間的変遷になっている。つまり、若かった時期から、中年になるまでを、ネッドは辿るのだ。

その過程でまず最初にわかるのは、ネッドは、お金持ちで、女性からもモテたということだ。そして、ネッドは映画の最初の30分、つまりこの映画の最初の3分の1で、ジュリーという昔なじみの20歳の女性と会う。

ジュリーは、ネッドのことが好きだったようで、昔、ネッドの家からネッドのシャツを盗んでそれを着ていたと明かす。ジュリーは、ネッドのルシンダ河を渡る家路に付き合うことになる。ネッドが、ジュリーにキスをしようとするまでは。

ジュリーがネッドのもとを去る前には、ネッドが乗馬の競技用のバーを越えて着地の際に足を怪我するシーンがある。ネッドとジュリーは水着で、自然の中を走っている。ジュリーは、ネッドにとっては自分の若さの象徴だ。

ネッドとジュリーは、自然と一体化する。つまり、馬になって、(飼われてはいるが)自然の動物と同じような身体能力を誇示しよとする。しかし、最初は良かったが、ネッドはバーを飛び越えて足を怪我してしまう。そう、ネッドはもう若くないのだ。

ネッドは若くない。それが、ネッドに突きつけられる現実だ。それは、当時53歳くらいの、バート・ランカスター自身の現実でもある。そして、若さを失ったネッドに訪れるのは、財産の喪失と、借金で、愛人からも見捨てられる。

この映画は、没落の悲劇を描いた映画だ。ネッドは、多分行くところがなくて、再婚した妻のもとに住まわせてもらっているのだろう。そして、ネッドは精神的にダウンしている。つまり、神経衰弱とか精神病と呼ばれる状況に陥っている。

その心の病を治療するのが、患者が過去と向き合うことである、という考え方がある。ネッドは、映画中人生を追体験して、自分の過去と向き合う。そこで、ネッドは自分の人生と向き合い、ネッドは自分の心を癒すのだ。

ただ、この映画を観ていると、ネッドが自分の人生を振り返るその過程は、とても残酷なものだ。最初は金持ちでモテモテだったが、最後は知り合いに金を返せと迫られるようになる。それで、行きつくのがルシンダ河の到着点だ。

ヒーローの悲劇を描いたものには、ユリシーズや、ドン・キホーテハックルベリー・フィン、ザ・アドヴェンチャー・オブ・アウジー・マーチなどがある。この映画も、ヒーローの悲劇物語と考えることができる。

勉強ができない

映画「泥棒野郎(原題:Take the Money and Run)」を観た。

この映画は1969年のアメリカ映画で、映画のジャンルはコメディだ。

この映画の主人公は、バージル・スタークウェルという1935年12月1日生まれの、ニュージャージー州のスラム育ちの男性だ。ニュージャージー州は、東海岸にあるアメリカ最大の都市ニュー・ヨークを擁するニュー・ヨーク州の右下に位置する州で、ニュージャージー州の右上は、ニュー・ヨークの直ぐ傍だ。

ニュージャージー州には、アイビーリーグと呼ばれるアメリ東海岸にある8つの名門大学の内の1つの、プリンストン大学がある。アイビーリーグは、ブラウン大学コロンビア大学コーネル大学ダートマス大学ハーバード大学ペンシルベニア大学、イェール大学そして先に記したプリンストン大学からなる。

プリンストン大学ニュージャージー州にあると記したが、ブラウン大学ロードアイランド州コロンビア大学ニューヨーク州コーネル大学ニューヨーク州ダートマス大学ニューハンプシャー州ハーバード大学マサチューセッツ州ペンシルベニア大学ペンシルベニア州、イェール大学はコネチカット州にある。

これらの大学は俗にいうお坊ちゃん大学で、東海岸の裕福な私立エリート校だ。ちなみに、アイビーリーグの中でもっとも有名だと思われるハーバード大学の、年間の学費と寮+食費を合わせると73,000ドルにもなる(2023.1.8閲覧 https://www.ryugaku.ne.jp/knowledge/flow/select/budget.html)。

1ドル132円(2023.1.8為替相場)とすると、ハーバード大学の学費と寮+食費は9,636,000円だ。アメリカ大学は一般に4年制と言われているので、73,000ドルの4倍だと292,000ドルが、学費と寮と食事代にかかることになる。

ただしアメリカの大学は、卒業に必要な単位を獲得できれば卒業できるので、人によっては2年で卒業できるとも言われている。ちなみに、292,000ドルを先の為替相場で日本円に直すと、38,544,000円だ。だいたいざっくり言って4年かけて大学を卒業する場合4千万円近くかかることになる。

アメリカの大学は学費も高いが、それ以外にもアメリカの大学の問題点もある。それは主にデートレイプセックスと、フラタニティの存在だ。フラタニティとは、友愛会のことで、大学内に存在するグループで、そのグループで集まって一つの寮に住んでいる。

例えば、白人の金持ちのフラタニティがあるとすると、そのフラタニティに入るには、通過儀礼を通る必要がある。いわゆる、先輩による後輩いじめだ。また、白人のフラタニティには、例えば黒人やヒスパニックの人は入ることができない。アメリカのフラタニティの様子を描いた映画には、「友情にSOS」(2022)と「ソーシャル・ネットワーク」(2010)がある。

映画「ソーシャル・ネットワーク」は、フェイスブックの2人の創業者の友情と裏切りについて描いた映画だ。フェイスブック創始者の1人のマーク・ザッガーバーグは、今でもインターネットの代替メディアのニュースにも時折登場する。

ザッガーバーグが仲間と作ったフェイスブックは、世界中にそのアカウントを持つ登録者がいて、フェイスブックの書き込みがロヒンギャ虐殺を引き起こしたとも言われている(2023.1.8閲覧https://democracynow.jp/dailynews/20180801)(2023.1.8閲覧

https://www.democracynow.org/2021/12/8/headlines/rohingya_refugees_sue_facebook_over_role_in_2017_genocide

)。フェイスブックが、ロヒンギャに対するヘイトスピーチを拡散したためだ。

そのザッガーバーグに扮するジェシー・アイゼンバーグが、登場する映画「ソーシャル・ネットワーク」には、フラタニティ入るために新入学生が、先輩たちのいじめを受けるシーンが登場する。

新入生に酒を飲ませて、寒い屋外に薄着で立たせる。新入生に対する酷い扱い方だ。その先輩のしごきを受けて、先輩からの合格の通知を受け取った者が、フラタニティの寮に入ることができる。

先輩による後輩のいじめも酷いが、もっと酷いのが、大学内での男性学生による女性学生のレイプだ。アメリカの大学はキャンパス内でのレイプが存在する。女性に酒を飲ませたり、クスリを混ぜた酒を飲ませて、酩酊状態にさせて、抵抗できなくなったところをレイプする。しかも集団で。

その様子が描かれた映画が、「プロミシング・ヤングウーマン」(2020)だ。この映画では、昔大学でレイプをされて、そのレイプが原因で自殺した友人のために、レイプされた女性の復讐を果たそうとする女性の話が描かれる。その復讐の仕方が、この映画の見どころになっている。

なぜここで、アメリカのお金持ちの大学生について書いたかというと、それには映画「泥棒野郎」の主人公バージルが生まれたのが東海岸で、ニュージャージー州にはプリンストン大学があることと、バージルがスラム街の貧乏な家庭に生まれて、勉強ができずに、いじめられてばかりいたということからだ。

つまり、東海岸にある名門お坊ちゃん高学費私立が、後輩いじめや、人種差別や、女性のレイプをしているようなところで生まれた、貧乏な男の話が、この「泥棒野郎」だ。

この映画の主演で監督と脚本をしているウディ・アレンは、ニューヨーク大学に入学して中退している。ニューヨーク大学に入れる時点で、ウディ・アレンはインテリだ。ニューヨーク大学難関大学の内の1つだ。

そのウディ・アレンの描くバージルという貧乏人の姿は、実に滑稽で、観ている人の同情と、笑いを誘う。先に上げた名門私立の学生が引き起こしている問題とは、笑いを誘う点で、対照的だ。ただバージルがやろうとするのは、銀行強盗だが、そのやり方が実に情けない。

この映画は数々の有名映画のパロディになっている様子だ。そのすべて上げることは、筆者の能力的にできない。ただ、強盗の際に紙に書いた文章を読ませて強盗をするというのはいかにも映画にありそうな設定だ(多分、元ネタとなった映画があると思う)。

その銀行強盗の際に使う文章はスペルが間違っていて、「俺は銃を持っている」というくだりがうまく伝わらない。そのために、その文章を理解するために、どんどん人が集まってくる。そのあたりが、観ていて非常に滑稽で面白い。

この、バージルの銀行強盗と、有名私立のアイビーリーグの学生がする行為や犯罪と比べると、どちらが嫌な感じを人に与えるか? それは映画実際観てもらいたいのだが、明らかにバージルの犯罪の方が、映画的に好意的に描かれている。別に、銀行強盗が良いというわけではないが。

この映画「泥棒野郎」の中に登場するインテリも、滑稽だ。精神科医が、バージルの子供の頃に熱中したチェロに対する精神分析をするシーンがある。「チェロのネックの部分は男性器で、下の丸みを帯びた部分は女性器で、それを弓でこする」。これは、子供時代にチェロにセックスを見出して、その刺激がバージルに悪影響を与えたと言いたいようだ。

この映画はパロディで構成されていると前述したが、その元ネタの1つに映画「暴力脱獄」(1967)がある。また、この映画「泥棒野郎」が撮られる前の、脱獄映画が、この映画の元ネタになっていることもおそらく間違いないのではないか?

この映画は、パロディ等の方法を用いたコメディ映画だ。やっていることは、銀行強盗や隠れてやっている女性側に脅された不倫などだが、その状況の滑稽さに映画を観ている者は思わず笑ってしまう。

この映画「泥棒野郎」を観ていると、バージルの犯罪と、アイビーリーグのお坊ちゃんたちのやっていることと、一体どちらが酷いのか? そう考えずにはいられない。

恋愛の暗黙の前提である男女間の経済格差

映画「ジョンとメリー(原題:John and Mary)」を観た。

この映画は1969年のアメリカ映画で、映画のジャンルは恋愛映画だ。

この映画の舞台は、多分アメリカの都市部で、あるアパートの一室を主として、映画は進行する。この映画の主人公は、この映画の最後のシーンで名前が明らかになる、ジョンとメリーだ。

この2人の恋の始まりを描いたのが、この「ジョンとメリー」だ。ジョンは男で、メリーは女。ヘテロセクシャルな恋愛を描いたのが、このジョンとメリーだ。つまりこの映画では、暗に男性と女性の経済格差が描かれてもいる。

男性と女性の経済格差が、わかるのは、ジョンは1人で暮らしているが、メリーはルームシェアをして女友達と暮らしているところだ。なぜ、メリーがルームシェアをしているかと言えば、金銭的な問題と、女の一人暮らしは危険だということだろう。

メリーがジョンに住んでいるところを説明するシーンがある。そこでメリーは、「一週間に1人(?)は人が(アパートの玄関で)死んでいるわ」と言う。それは、メリーの住んでいる地域が危険な地域だということだ。

メリーは、そのセリフを簡単に話すが、この状況は特に女性にとっては厳しいものだ。治安が悪い地域に住んでいるので、家賃は安いのかもしれないが、メリーはいつも身の危険を感じているだろう。

女、子供は、いつも暴力の被害者になる。その場合、加害者は成人男性だ。子供と老人を除いた、成人男性が、女、子供を痛めつける。それが、この世の中の暗黙の前提となっている。そして、メリーもこの前提から逃れることができない。

ここ最近(2022.12.31現在)、アメリカの都市ニュー・ヨークでは、アジア系女性が襲われて殺される事件が起こっている。アジア系女性に対するヘイト・クライムだと言われているが、女性が標的にされていることを考えると、女、子供はいつも暴力の被害者になるという暗黙の前提は、証明されていることになる。

この映画の時代背景は、20世紀の中頃だ、公民権運動が起こり、黒人が黒人の権利を主張しているシーンがこの映画の中に出てくる。メリーの、前に不倫をしていた相手が、議員か、活動家だと思われ、その所帯持ちの男性が、公演をしているシーンに、黒人の権利を主張する黒人男性が登場することからそれがわかる。

黒人の公民権運動が盛り上がったのは1950年代から1960年代だ。黒人の公民権運動の主導者、アフリカン・アメリカン・チャーチのマーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が、暗殺されたのが1968年の4月4日だ。

キング牧師は、1964年10月14日にノーベル平和賞を貰っている。そのキング牧師テネシー州のメンフィスのローライン・ホテルで暗殺された後には、アメリカのワシントンD.C.、シカゴ、バルチモア、ルイスビルカンザス・シティ等の各都市で暴動が起こった。

キング牧師は、武器を手に取ることもいとわないと言っていたブラックパンサー党などの、黒人解放運動の急進派と比べて温和で、非暴力の公民権運動を先導していた。またキング牧師は、貧困や資本主義、ベトナム戦争に反対の立場をとっていた。

そのキング牧師のような人が率いた黒人公民権運動の盛んな時期が、この映画の時代背景になっている。だが、この映画の主人公は白人の男性と女性だ。白人男性のジョンの方は、金を持っているいわゆる独身貴族だ。

前述したように、メリーの方は経済的にも、安全的にも1人で自立することができていない。それに、メリーはこう述べる。「友達は私を教育するために、私を映画に連れて行くの」と。つまり、メリーは映画で教養を得ている女性で、教育のレベルが低いことも表している。

一方、ジョンの方は、母親が活動家で、政治的な議論には親しんでいた様子だ。教育もあると思われ、家で仕事をしているシーンもあり、製図を描いている様子だ。建築家か何かの仕事をしているのだろう。給料は悪くないようだ。

ジョンが前の彼女と、大学時代の友達と思われる男性とその彼女と、部屋で過ごしているシーンがある。そのシーンでは、ジョンは男友達と同じYと胸に書いてあるカーディガンを着ている。Yとはイェール大学のYだろうか? 多分、ジョンはインテリという設定だ。

男性は教養に溢れ、経済的にも自立している。女性は学がなく、経済的に不安定で、安全面も男性に劣る。20世紀の中ごろの女性の権利は、当然のように低かった。メリーのような女性が多かっただろうと思われる。

1960年代に大学に行っていたのは、6~8%だったとある記事にはある(https://www.census.gov/library/publications/1962/dec/population-pc-s1-37.html)。その中の女性の比率は半分には、いっていなかった。女性と男性の大学生の比率は、1994年に半々になっている(https://slate.com/human-interest/2022/10/sex-ratio-college-campuses-hookup-culture-friends-with-benefits.html)。つまり、1960年代はほとんどの人が大学に行っておらず、その中の女性の比率は低いものだった。

この映画では、ダスティ・ホフマン演じるジョンは、女性に対して理解のある男性として描かれている。が、しかしそれは当時の価値観でだが。ダスティ・ホフマンは映画「クレイマー・クレイマー」で、料理のできない主夫の役をしていたが、この映画「ジョンとメリー」では、料理ができる男性として描かれている。

ジョンの料理のシーンは、当時の男性としては珍しく料理をする男性ということだろう。ただ、ジョンの料理はいわば趣味だ。そうジョンは捉えている。専業主婦が、家族のために料理を作るのとはわけが違う。男性の料理は特別だ、と言わんばかりだ。

男性と女性の格差。それが、この映画「ジョンとメリー」には、描かれている。それがあたかも当然であるかのように。そして、それが男と女の違いを生み出しているとも言える。つまり、男は独立して生きることができるから、そのような価値観を身につけており、女性は従属して生きる運命にあるから、それに合った価値観を身につけているというような。

男性と女性の関係。男性と男性の関係。女性と女性の関係、等々。性的対象に対する関心は人間の根幹にあるのだとすれば、このような経済的格差を背景とした、男女関係は、この映画ができた当時、起こりうる可能性があるものだったのだろう。

メリーが自然食品、今でいう有機栽培で作られた食品を勧めるジョンに対して、メリーは「この人食品オタクだわ」と、心の中の声が言うシーンがある。ここにも、女性は無教養であるという意地悪な暗黙の前提がある。

このような、男尊女卑を監督は、どこまで意図して描いているのかはわからないが、このような格差のもとでの、恋愛を、単なる美しい恋愛と捉えることは、難しいのではないかという気がするのは、筆者だけではないだろう。