保守的なアメリカと、リベラルなアメリカ

映画「勇気ある追跡(原題:True Grit)」を観た。

この映画は1969年のアメリカ映画で、映画のジャンルは西部劇だ。

この映画の舞台は、アメリカのアーカンソー州にあるフォートスミスだ。フォートスミスは、アーカンソー州の西に隣接するオクラホマ州との州境にある土地だ。2020年のアメリカの国勢調査では、人口が8万9142人のアーカンサスで3番目に大きな街となっている。

この映画の時代背景は、南北戦争が起こった後のアメリカだ。南北戦争は、保護貿易自由貿易奴隷制廃止と奴隷制維持などを、対立点として、1861年から1865年の間、アメリカを南北に分けて起こった戦争、シビル・ウォーだ。

保護貿易奴隷制廃止を主張したのが北部。自由貿易奴隷制維持を主張したのが南部だ。南部は、そのころ綿工業が発達していた英国を中心とする自由貿易圏に、南部の奴隷を使用したプランテーションでとれる綿花を輸出して利益を上げていた。

一方、北部は、工業が主要な収入源で、新たな労働力を必要としたため奴隷制とは相いれず、欧州の工業製品に対抗するために保護貿易を求めた。南部は、経済的理由から奴隷制を維持しようとして、北部は、経済的理由から、奴隷制を廃止しようとした。

このような北部と南部の対立が、アメリカのシビル・ウォーを引き起こした。それは、アメリカの奴隷制を維持するか、それとも廃止するかという戦争でもあった。そのシビル・ウォーの状況を描いたのが、スティーブン・スピルバーグ監督の2012年の映画「リンカーン」だ。

映画「リンカーン」では、シビル・ウォーの時の大統領だったリンカーンが、奴隷制廃止のために、あらゆる手段を使って奮闘していた状況が描かれていた。現代では、黒人差別をするのは共和党というイメージだが、奴隷制をなくすために戦ったのは当時の共和党だった。

この映画の舞台のアーカンソー州は、奴隷制を維持しようとする南部に属する州だ。この州に、奴隷制を廃止しようとしたアイオワ州のイエル郡からマティ・ロスという、父親をトム・チェニーという男に殺された少女が、やってくるところまでがこの映画の序盤だ。

つまり、共和党を支持して奴隷制廃止を望んで、奴隷制を廃止させた北軍の、当時としてはリベラルな気風を持つ州から、民主党を支持して奴隷制を維持しようとした、当時保守的だった土地へ、少女がやってきたことになる。

2010年に撮られた映画に、コーエン兄弟の「トゥルー・グリッド」がある。この「トゥルー・グリット」は、1969年の「勇気ある追跡(原題:True Grit)」のリメイクだ。2010年の「トゥルー・グリッド」では、マティの父親が殺されるまでの経緯が、映像として示されない。

そのため、映画を観る人は、マティとフォートスミスの住人と話す会話の内容から、マティがトム・チェニーに殺された父の仇を討ちに、フォートスミスまで来ているのを、汲み取るしかなくなる。その点で、この1969年の映画「勇気ある追跡」は、2010年の「トゥルー・グリッド」よりも丁寧な解説的な映画となっている。

共和党を支持したリベラルな土地から、民主党を支持した保守的な土地にやってきたマティは、父親が殺された仇を討つため、南部軍で兵士として戦ったことがある、ルースター・コグバーンという保安官補を雇うことになる。

この映画の序盤には、マティが黒人の使用人ヤーネルを連れて、フォートスミスにやって来るシーンがある。つまり、黒人奴隷の解放を掲げて勝利した北軍の州には、白人より低い身分の職業に就いている黒人がまだ存在したことになる。

マティは、黒人の老人の使用人のヤーネルのことを「私の友達よ」と言って、南軍として戦ったフォートスミスの人に紹介する。「私の友達」だが、家事をする世話人の黒人老人ヤーネル。この辺りは、シビル・ウォーが終わった辺りのアメリカを感じさせる。

アイオワ州のイエル郡は、田舎の牧場の風景として、この映画「勇気ある追跡」では描かれる。北部の田舎では、黒人の職業的身分は低かったという現状があったのだろう。都市部では、黒人の置かれた状況は、また違ったかもしれないが。

この映画「勇気ある追跡」の撮られた後の、アメリカの映画評論家Roger Ebertによる、映画「勇気ある追跡」の、ルースター・コグバーンを演じているジョン・ウェインへのインタビューで、ジョン・ウェインはあるエピソードを語っている。

そのインタビューの文章の冒頭に語られる、部屋に寝台を置くために壁を引き裂いたという話がある。これは、映画「勇気ある追跡」に繋がる話だ。マティの父を殺したトム・チェニーは、マティの家で家の手伝いとして屋根に穴の開いた小屋で暮らしている。

マティの母は言う。「トムは壁に穴の開いた小屋で暮らしているわ」と。それに対してマティは言う。「穴の開いているのは屋根よ」と。しっかりもののマティが、屋根に穴が開いていると言っているから、穴は壁には開いていないのだろう。

この会話は、映画評論家Roger Ebertによる文章の冒頭に繋がる。ジョン・ウェインはそのインタビューでこう述べる。「男には穴が必要なんだよ」と。つまり、この場合の穴とは、女性の性器をさしていると考えられる。

マティの母親によると、壁に穴の開いたマティの家の小屋に暮らしていたのがトム・チェニーとなる。そして、この映画「勇気ある追跡」で、ルースター・コグバーンを演じたジョン・ウェインは壁を引き裂き、壁に穴を開けた。

トム・チェニーと、ルースター・コグバーンならぬジョン・ウェインの共通点は、壁に穴の開いた部屋にいること。そして、その穴とはセックスのメタファー。つまり、この場合の共通点とは、トム・チェニーも、ルースター・コグバーンも野蛮な人であるということだ。

この映画には、アメリカの南北戦争、言い換えれば、アメリカのシビル・ウォーという、欠くことができない背景がある。その背景なしでは、この映画を理解するのはより困難になる。

ただ、この映画は、娯楽的な西部劇として、父親の仇を討つ娘の話として、作られている面もある。アメリカのシビル・ウォーの歴史を知らなくても、この映画を楽しむことができるようになっている。

ちなみに、シビル・ウォーの最中にリベラルだった共和党は、今ではトランプを大統領として選出した保守的な政党になっている。トランプは、女性差別発言をしたり、脱税をしたり、まったく大統領としてのモラルを欠く人だった。

シビル・ウォーの際の、共和党は黒人差別をなくそうとしたが、リンカーン大統領は、男性の大統領だし、女性差別は無くなっていなかっただろう。今(2022.12.25)の民主党が、ベネズエラからの難民を受け入れないのと同じようなことが、ここでも言える。

強盗をなくしたいなら、お金持ちは再分配をしろ!!

映画「明日に向かって撃て!(原題:Butch Cassidy and the Sundance Kid)」を観た。

この映画は1969年のアメリカ映画で、映画のジャンルはアウトロー・ガンアクション・西部劇だ。

この映画の舞台は、西部開拓時代から20世紀初頭だ。この映画はこの時代に実在した、列車や銀行の強盗を行っていたアウトローをモデルとして作られている。そのアウトローとは、ブッチ・キャシディと、サンダンス・キッドだ。

このアウトロー2人の名前は、偽名で、本名は別にある。ブッチ・キャシディの本名は、ロバート・レロイ・パーカーで、サンダンス・キッドの本名は、ハリー・アロンゾ・ロンガボーだ。

映画はこの2人が、列車強盗を、壁の穴強盗団の一員として行っているところから始まる。ブッチは、この壁の穴強盗団のリーダーで、キッドは、腕の立つ早撃ちガンマンとして、ブッチの相棒をやっている。

2人による強盗事件は、新聞に載って世間的に有名になっている。映画には壁の穴強盗団のメンバーが新聞を、他の強盗団のメンバーに新聞を読んで聞かせるシーンがある。その新聞の記事に、ブッチは満足そうだ。

強盗で盗んだ金を、ブッチは賭け事や売春婦に遣う。それで、強盗した金をすっからかんにしてしまい、また次の強盗を行う。キッドには恋人がいる。恋人の名前は、エッタ・ブレイズと言う。エッタは女教師で、スペイン語が話せる。

ワイオミングから、ボリビアに逃げる際に、エッタは、ブッチとキッドに、スペイン語を教える。ボリビアで生活するにも、ボリビアで銀行強盗するにも、スペイン語が話せることが必要になるからだ。

ブッチとキッドの会話は、真面目なようで、どこか冗談めいている。シリアスな場面も、2人のウィットの効いた会話で、映画を、観ている方は、クスっと笑ってしまう。それがこの映画の魅力にもなっている。

ブッチとキッドは、強盗を何度も繰り返している。この映画のアメリカでの列車強盗の対象となっている鉄道会社は、ユニオン・パシフィック社だ。強盗をするたびに、同じ金庫番が乗っていて「私はハリマン社長に雇われてこの金庫を守っている」と言う。

2人の方と言えば、その金庫番の怪我を気にしながら、列車強盗の爆弾を仕掛ける。そこも観ていて面白い。ブッチとキッドは、映画中ではできれば誰も傷つけずに列車強盗を行いたい。ブッチとキッドは、むやみやたらに殺人を楽しむタイプではない。

ブッチとキッドの精神的な、もしくは生活的な支えになっているのが、エッタだ。エッタは、2人のことをとても気に入っている様子だ。特に、キッドとエッタは仲が良いというか、付き合っている。ただ、ブッチともエッタは仲が良い。

ウィキペディアで調べると、エッタ・プレイスは、未だに謎が多い人物だ。この人がエッタの正体ではないかという人物が何人か登場する。エッタは、教養もあり、洗練された人柄で、学校の教師をしていて、結婚もしていて、2人の子供と夫を捨てたと、信じられているようだ。

エッタは謎の多い人物で、この映画でもエッタの登場シーンは少なく、エッタの身の上の話は出てこない。エッタはただブッチとキッドのことを、誰よりも気にかけている人物として、この映画の中に登場して、彼女の生い立ちや生活などは不明だ。

ただ、ブッチやキッドの生い立ちもこの映画ではあまり語られることがない。せいぜい、本名と、キッドが生まれたのがニュージャージーだったということがわかるくらいだ。

ウィキペディアを見ると、ブッチは、イングランド人の移民の、マキシミリアン・パーカーとアン・キャンベル・ギリーズの13人の子供のうちの最初の子供であったとある。ユタのブッチが育った家は、とても小さく、決して金持ちというわけではなかったようだ。

同じく、ウィキペディアでキッドのことを調べると、キッドはペンシルべニアのモント・クラレ出身で、ブッチと同じように牧場で働いていたようだ。映画中で、キッドは「俺はニュージャージーの街で生まれたんだ、ボリビアなんていう田舎は嫌だ!!」というようなセリフを吐くが、この辺は、ボリビアの田舎加減が気に入らなかったキッドの戯言として片づけることができそうだ。

2人とも牧場で働いていたということが共通するのだが、映画中でブッチは「この歳だ。強盗をやめて他の仕事を見つけようとしても無理だし、畑仕事はきつい」という。ブッチもキッドも、苦労して生活をする気がなかった。

金持ちと同じように肉体的に楽な仕事をしたかったのだろう。牧場の仕事はきつい。ましてや畑仕事なんてやってられない。俺も、金持ちのように楽をして、お金を遣って生きたい。それがブッチやキッドの願いだったのだろう。

ただ、映画を観ている方は、2人の反逆者ぶりに引き込まれる。強盗して、遊んで、強盗しての繰り返し。その危ない生き方に、映画を観ている方は引き込まれてしまう。2人が、貧しい生まれで、法を犯すほど、映画は面白くなるかのようだ。

アウトロー。法の外で生きる人たち。法の矛盾が人々の前に立ちはだかるほど、人々のアウトローへの憧れは強くなる。健康で文化的な最低限度の生活を保障すると謳われている、憲法が違反された状態の今の日本の社会でも、2人のアウトローの姿は魅力的に映る。

憲法を尊守するはずの政府が、その約束を果たしていない時、憲法の効果を訴えるために、憲法の下位にある法制度を犯して、人のためにつくす。例えばそれも、アウトローのひとつのありかたなのかもしれない。

ただ、ここで法を犯すことをすすめたいわけではない。アウトローは、やむおえない理由で行きつくものだということは、言えるのではないか? 楽しくて楽しくてしょうがなくてアウトローをしているのではないということが、この映画「明日に向かって撃て!」では、言えるのではないか。それは、この映画を観て、ブッチやキッドの生い立ちを知った時により明確になることだが。

確かに、アウトローをやっていて痛快なこともあるのかもしれないが、しかし、常にそこには金銭的な悩みがついてまわっているのが、この映画「明日に向かって撃て!」だ。

とすれば、2人を強盗の身分に追いやったのは誰か? それは、強盗の被害に遭っている金持ちたちだ。お金をどれだけ銀行が刷っても、そのお金はお金持ちの懐に入っていく。だから、貧困がなくならないどころか、経済格差が広がっていく。

格差がある所には、極端な金持ちと、困窮した人たちがいるということだ。そして、金持ちは、強盗団を作り出したくないのならば、再分配をするべきだ。

アーニーは、アナーキー


映画「ギルバート・グレイプ(原題:What’s Eating Gilbert Grape)」を観た。

この映画は1993年のアメリカ映画で、映画のジャンルはヒューマン・ドラマだ。

この映画に登場するのは、タイトルにあるギルバート・グレイプの家族だ。ギルバート・グレイプの父、アルバート・グレイプは既に亡くなっており、母親がいる。母親は昔は痩せていて美人だったが、今では父親のアルバートが自殺して亡くなったショックで過食症になり、巨漢になって家から出ようとしないばかりか、家の中でもほとんど動かない。家族のために働くのを放棄したいわゆるダメな母親だ。

ただ、ギルバートの母親をダメな母親と一言で片付けるのは、問題かもしれない。ギルバートの母親も、夫のアルバートの死により、心を病んでしまっているのだから。こうも言えるかもしれない。ギルバートの母親は、夫への行き場を失った愛情、つまり性欲を食欲に転化しているのだと。ギルバートの母親が巨漢になってもひたすら食べ続けるのは、母親なりの性欲の解消だ。この映画の原題の“What’s Eating Gilbert Grape”は直訳すると、“何がギルバート・グレイプを食べているのか”となる。過食症の母親が、ギルバートの食品店の勤務で稼いだ金をほとんど食費に使ってしまい、ギルバートは母親に食糧を奪われて母親に食い物にされている、というような皮肉もこのタイトルに込められているのだろう。

ギルバートは、母親と兄弟と暮らしている。妹の優しいエミー、軽い小児麻痺と思われる弟のアーニー、妹のアーニーに対する憎しみをむき出しにするエレン。グレープ家は、父親のアルバートが自殺で死んだことにより、母親と、ギルバート、エミー、アーニー、エレンと共に暮らしている。つまり、グレープ家は母子家庭だ。父親の収入源がなく、グレープ家は経済的に豊かな家庭ではないが、ギルバートが食料品店で働き家族を養っている。

この映画で、はっきり言ってしまうと、ギルバートの負担になっている家族が存在する。それは、ギルバートが働いて養っている家族全員だと言うことができるが、特に母親と18歳になるアーニーが、ギルバートの生活を不自由なものにしている。

アーニーは知的障碍もあり、社会のルールを内面化することがなかなかできない。アーニーは、いわば先天的にアナーキーで、社会の枠にとらわれることがない。だが、アメリカで生きている限り、社会のルールに従わなければならない。そこで、アメリカ社会とアーニーの衝突が起こる。そのことが象徴的に描かれているシーンがある。それは、アーニーが人の目を引きたくて貯水タンク(?)に上るシーンだ。アーニーは、ギルバードの監視の目を離れると、高いところに上る。それは木だったり、家の屋根だったり、貯水タンクだったりする。

ギルバートはアーニーを監視しているが、アーニーはギルバートの気ひきたい。アーニーは自分の監視をしかめっ面でしているギルバートを、違う表情にしたい。自分のことを思っている表情にしたい。それはギルバートだけでなく、ギルバートの家族や、アーニーの住む町の全員にだ。アーニーは多くの人にかまってほしい。アーニーは、恋人の愛情を独り占めするということができないし、それを望んでもいない。アーニーが欲しがるのは、すべての人の愛情だ。

アーニーはアナーキーと書いた。アーニーは、つまりはこの社会、家父長制を使ってアメリカを統治しようとする中央政府が作り出す社会、宗教、政治などに染まらない存在だ。アーニーは、先天的にアナーキー。アーニーは、アナーキーがゆえに、家族がアーニーをより拘束しようとする。アーニーにとって家族は愛するものでもあるが、同時の家族という狭苦しい統治形態にアーニーを押し込めようとする不自由なものだ。

アーニーが、もし自然児なら、ギルバートが、強引にアーニーを風呂に入れて洗う必要もなくなる。木に登ろうが、貯水タンクに登ろうが、そんなのお構いなしだ。アーニーは先天的にアナーキーであり、アーニーを縛ろうとする近代化された社会とアーニーは衝突する。

アーニーを近代化された社会の枠に収める役割を担わなければならないのは、アーニーの家族だ。妹のエレンは、アーニーが近代化された社会に馴染まないのを快く思っていない。エレンにとってアーニーはストレスのもとだ。それは、エレンだけではない、ギルバートにとっても、エミーにとっても、母親にとっても、アーニーはストレスのもとだ。

そのストレスはどこから生じるか? それは、近代化された社会にすべての人間を押し込もうとする社会的通念や、統治権力による抑圧だ。アーニーの家族がいかにアーニーを寛大に扱おうとしても、統治権力の手先である警察がやって来て、アーニーの違反を取り締まる。アーニーの違反とは何か? それは、貯水タンクに上ることだ。

そんなことで、警察はアーニーに罰を与えようとするが、アーニーは知的障碍者なので、その罰の理由をわからない。つまり、アーニーへの罰は、アーニーへの罰ではなくて、グレープ家への罰だ。警察の存在は、“社会のルールに従え”という、グレープ家に対する統治権力からの脅しだ。アーニーがアナーキーである責任を、知的障碍ではなく、グレープ家の責任にしてしまう、統治権力の理不尽さがここにみてとれる。

さて、日本には知的障碍者の入所施設がある。家族の負担になる障碍者を、施設の狭い小部屋に押し込んでおき、昼間には無理に就労させるのが、施設の在り方だ。なぜ、知的障碍者が就労を無理に障碍者にさせるのか? それは、近代化、工業化がもたらす、健常者並が普通という通念からだ。

人はできないことがあって、それを克服できない場合もある。それは、知的障碍者にとっては、昼間の就労だ。昼間の就労の時間に、パニックを起こす障碍者もいる。なぜそこまでして、障害者を就労させるのか? それは、近代化と工業化がもたらした社会通念と、その通念を内面化した人たちが作り出した法律があるからだ。つまり、法律は、障碍者という、先天的なアナーキストを、無理矢理、社会の枠にはめ込む。それは、明らかな間違いだ。つまり、障碍者に対する知識が圧倒的に欠けているのだ。だから、学校で障碍者についてもっと教えるべきだし、障碍者を狭い施設の中に閉じ込めて見えなくするのをやめるべきだ。

この映画「ギルバート・グレイプ」には、家父長制で性欲や愛情のはけ口がなくなった人妻とギルバートの不倫が描かれるし、不倫をやめるきっかけになる未婚者のノマドの少女ベッキーとの恋愛も描かれるし、家族という古くてぶよぶよになった負担を燃やし尽くすシーンも存在する。この映画「ギルバート・グレイプ」は、社会の規範に収まりきらない人々が、社会でどのように生きていっているのかを、健常者という普通を生きていると思い込んでいる人たちに垣間見せる映画だ。

 

ギルバート・グレイプ What's Eating Gilbert Grape 1993年 アメリTOSHIBA ASMIK 1:26:42
入浴を何日もしていなかったアーニーが水浴するシーン辺り

ギルバート・グレイプ What's Eating Gilbert Grape 1993年 アメリTOSHIBA ASMIK 1:52:22
グレイプ家のギルバートが着火してのグレイプ家の家を焼くシーン

 

 

 

本文のDeepL 英訳です。

DeepL English translation of the text.

 

 

Ernie, Anarchy.

 

 

I saw the movie "What's Eating Gilbert Grape".

 


This movie is a 1993 American movie, and the genre of the movie is human drama.

 


The characters in this film are the family of Gilbert Grape, as the title suggests. Gilbert Grapes' father, Albert Grapes, is already dead, and he has a mother. The mother used to be thin and beautiful, but now, in shock from the death of her father, Albert, who committed suicide, she has become bulimic, a huge man who not only refuses to leave the house, but also barely moves inside it. She is a so-called bad mother who has abandoned working for the family.

 


However, it may be problematic to single out Gilbert's mother as a bad mother. Gilbert's mother, too, has become emotionally ill due to the death of her husband, Albert. It could also be said this way. Gilbert's mother has turned her lost love for her husband, her sexual desire, into an appetite. The fact that Gilbert's mother continues to eat even though she has grown to be a huge man is her way of dissolving her sexual desire. The original title of the film, "What's Eating Gilbert Grape," translates as "Nani ga Giruba-to bureiku wo tabete iruka . "The irony of the title may be that Gilbert's bulimic mother spends most of the money she earns from working in Gilbert's food store on food, and Gilbert is deprived of food by his mother and is preyed upon by her.

 


Gilbert lives with his mother and siblings. He has a younger sister, Amy, who is kind to him, a younger brother, Ernie, who seems to have mild childhood paralysis, and Ellen, who bares her hatred for her sister, Ernie. The Grape family lives with their mother, Gilbert, Amy, Ernie, and Ellen after their father, Albert, dies by suicide. In other words, the Grape family is a mother-son household. With no source of income for the father, the Grape family is not financially prosperous, but Gilbert works in a grocery store to support the family.

 


There is one family in the film that, to put it bluntly, is a burden to Gilbert. It can be said that it is the entire family that Gilbert works to provide for, but especially his mother and 18-year-old Ernie, who make Gilbert's life inconvenient.

 


Ernie is also mentally disabled and has difficulty internalizing the rules of society. Ernie has an inborn anarchy, so to speak, and is not constrained by the confines of society. However, as long as he lives in the U.S., he must follow the rules of society. This is where Ernie's conflict with American society arises. There is a scene that symbolically depicts this. It is the scene in which Ernie climbs up on a water tank(?) to attract people's attention. Ernie is trying to catch people's attention. When Ernie leaves Gilbert's watchful eye, he climbs up to high places. It could be a tree, the roof of a house, or a water tank.

 


Gilbert is watching Ernie, but Ernie wants to get Gilbert's attention. Ernie wants to get a different look from Gilbert, who is frowning at him. He wants to make him look like he is thinking about him. Not only for Gilbert, but for his family and everyone in Ernie's town. Ernie wants to be bothered by many people. Ernie cannot and does not want his lover's affection all to himself. What Ernie wants is the affection of all.

 


Ernie wrote of anarchy. Ernie, in other words, is untainted by this society, the society, religion, and politics created by the central government that seeks to govern America using patriarchy. Ernie is an inherent anarchy. Because of his anarchy, Ernie's family tries to restrain him more. For Ernie, his family is something he loves, but at the same time it is a crippling thing that tries to force him into the narrow form of governance that is the family.

 


If Ernie were a natural child, Gilbert would not have to forcefully bathe and wash him. Whether he climbs trees or water tanks, it doesn't matter. Ernie is congenitally anarchic, and Ernie clashes with modernized society that tries to bind him.

 


It is Ernie's family that must take on the role of fitting Ernie into the framework of modernized society. His sister Ellen is not happy that Ernie does not fit into the modernized society. For Ellen, Ernie is a source of stress. It is not only Ellen, but also Gilbert, Amy, and their mother, for whom Ernie is a source of stress.

 


Where does this stress come from? It comes from the social conventions and the oppression of the governing powers that seek to force all human beings into a modernized society. No matter how lenient Ernie's family tries to be with him, the police, the agents of the ruling power, come and crack down on his transgressions. What is Ernie's violation? It is climbing on the water tank.

 


The police try to punish Ernie for this, but Ernie is mentally handicapped and does not know the reason for his punishment. In other words, the punishment for Ernie is not a punishment for Ernie, but for the Grape family. The presence of the police is a threat from the ruling power to the Grape family to "follow the rules of society. Here we see the irrationality of the governing power in blaming Ernie's anarchy not on his intellectual disability but on the Grape family.

 


Now, there are residential facilities for the intellectually challenged in Japan. The way these facilities are run is to force the mentally challenged, who are a burden to their families, into small, cramped rooms at the facility and force them to work during the daytime. Why do they force the mentally challenged to work? It is because modernization and industrialization have brought with them the notion that they are as normal as normal, able-bodied people.

 


There are things that people cannot do, and there are cases where they cannot overcome them. For the mentally challenged, it is daytime work. Some disabled people panic during daytime work hours. Why do we go to such lengths to make the handicapped work? It is because of the social conventions brought about by modernization and industrialization, and the laws created by those who have internalized these conventions. In other words, the laws force the inborn anarchists, the physically challenged, into the social framework. That is a clear mistake. In other words, there is an overwhelming lack of knowledge about the physically challenged. Therefore, we should teach more about the physically challenged in schools and stop making them invisible by confining them in small institutions.

 


The film "Gilbert Grape" depicts Gilbert's affair with a married woman who has no outlet for her sexual desires and affections due to the patriarchal system, his love affair with Becky, an unmarried nomad girl who becomes the catalyst for him to stop the affair, and the burning of the old, crumbling burdens of family. The film "Gilbert Grape" is a glimpse into how people who don't fit into society's norms live in society to those who think they are living normal, healthy lives.

アメリカから、環境から見放された人たち

映画「カリートの道(原題:Carlito’s Way)」を観た。

この映画は1993年のアメリカ映画で、映画のジャンルはアクション・ドラマだ。

この映画の主人公は、カリート・ブリカンデ、別の名を、チャーリーという男だ。カリートは、麻薬の販売をしており、殺人をしたこともある。カリートは警察に追われる身になり、5年間刑務所に入っていた。カリートが刑務所から出た時から、この映画は始まる。カリートを刑務所から出すのは、デビッド・クラインフェルドという弁護士だ。デビッド、通称デイブは、何度もカリートを刑務所から出している。そのデイブのことをカリートは友達だと信じている。カリートを演じているのは、映画「ゴッド・ファーザー」シリーズで、イタリア系のマフィアのボスを演じているアル・パチーノだ。つまり、この事実からわかるように、カリートの見た目はイタリア系だ。だが、この映画「カリートの道」では、カリートはイタリア系のマフィアではなく、ニュー・ヨークのプエルト・リコ系のギャングの尻もちの役割として出てくる。つまり、カリートプエルト・リコに移民したイタリア系の移民の子供ということになるのだろうか? それとも、両親がイタリア系と、プエルト・リコ系であるということか? それとも、たまたまニュー・ヨークのプエルト・リコ系移民の住む場所に住んでいたイタリア系だったのか? それはよくわからないが、この映画でのアル・パチーノ演じるカリートは、プエルト・リコ系の移民の間でのし上がってきた男だということだ。イタリア系の見た目で、プエルト・リコ系の仲間を持つ、もしくは、プエルト・リコ系の人たちが住む場所で生きてきたのが、このカリートという人物だ。カリートは、プエルト・リコ系が移民が多く住む場所で麻薬を売買して、貧困の生まれながら、そこから無教養でもお金が多く手に入る暗黒街の住人になった。生まれも育ちも暗黒街で、少年の頃からナイフや銃を持ち歩いていた男がこのカリートだ。

プエルト・リコは、19世紀からアメリカの一部となっている。その前は、スペインの植民地だった。プエルト・リコの人は、アメリカからの独立を望んでいる。プエルト・リコ人によるアメリカへの反抗も起こっている。現在(2018.9.19 “Hurricane Colonialism:The Economic, Political, and Environmental War on Puerto Rico” Intercept )のプエルト・リコは、借金の返済に追われている。プエルト・リコの借金の額は1200億ドルだ。その借金のせいで、ヘルスケアや再分配が削られ、3万人の公共事業の就業者が解雇され、何百の学校が閉鎖されている。1918年にプエルト・リコでは、地震津波が起こり、ハリケーンが来て、大恐慌に見舞われ、プエルト・リコは貧困に陥った。その期間は、既にアメリカの統治が始まっており、貧困の問題などがあり、1935年にプエルト・リコの人たちはアメリカにプロテスト運動をしたが、警察により潰されている。その時の、プエルト・リコ市民の死者は4人だ(2023.12.23閲覧 “Puerto RicoWikipedia)。同じ国であるが、プエルト・リコよりも豊かなアメリカ本土に移民しようとする人の動機は、プエルト・リコの悲惨な状況を考えればわかることだ。災害に襲われ、貧困に陥り、生きていくためには、アメリカ本土に移るしかない、というのがプエルト・リコ人の現状だ。同じアメリカでも、プエルト・リコという場所は、アメリカ政府からいじめられる存在だ。そして、それは2018年になっても変わらない状況だったということだ。プエルト・リコからアメリカ本土にやってきたプエルト・リコ人が出会うのが、そこでもまた貧困だ。1990年代のアメリカでも、プエルト・リコ系の移民は貧困の中で暮らしていた。

その状況を背景として描かれるのが、この映画「カリートの道」だ。1960年代のニュー・ヨークに移り住んできたプエルト・リコ系移民も貧困の中にいた。この映画の舞台の、1990年代のニュー・ヨークのプエルト・リコ系の人たちも、稼ぎの良い合法的な仕事に就くことができず、麻薬を売買してお金を得ている。プエルト・リコ系の人たちは、お金がなく、アメリカで学校に行くわけでもなく、安い賃金で雇われて、アンダークラスから抜け出すことができず、手っ取り早くお金を得るには麻薬を売るしかない。そんな、プエルト・リコ人のケツ持ちをする、プエルト・リコ人並みに不遇な状況に置かれたイタリア系の白人が、きっとチャーリーことカリート・ブリカンデだ。生きている環境が人間を左右する、というのがこの映画の大前提としてある。つまり、まともな仕事に就くことができない環境に置かれたら、その人たちは違法でも生きるために法を犯すしかない。カリートは、そんな状況に置かれた白人だ。イタリア系は白人だが、プエルト・リコ系の人たちと生活は変わらない。白人でも支配階級に入ることはできない。人種は、その人のアメリカでの地位を決定するが、その決定が完璧なものではない。そのルートから零れ落ちる人たちもいる。その代表例がカリートだ。カリートは白人だが、置かれた環境のせいで、麻薬を売る闇の社会で生きるしかない。

そのカリートは、ハンサムだと女性から言われるのだが、刑務所から出所して就いたクラブの仕事をして大金を稼いでいても、女遊びはしない。カリートには心が惹かれる、刑務所に入る前に付き合っていた恋人がいる。その女性の名は、ゲイルという。ゲイルと聴いて思いつくのは、ゲイル語だ。ゲイル語が話されていたのは、ユナイデッド・キングダムの中にある地域なので、ゲイルは白人の女性のU.K.系の血筋を引く人だろう。カリートはバレーの踊りの練習をするゲイルを、雨に打たれながら、ごみ箱の蓋のかぶせる側を上にしてゴミ箱の蓋を一応の雨よけに使いながら、じっと見ている。ゲイルは、カリートにとっては、自分とは違う上流階級の女性として存在する。ゲイルはバレーができる。そのことが、とても象徴的だ。プエルト・リコ系の人が、アメリカ本土のバレー教室に通えるか? それは、とても厳しいだろう。だが、映画が続くうちに、ゲイルは自分の夢であるバレーのダンサーではなく、ナイトクラブで働くポール・ダンサーで稼いでいることがわかる。ゲイルは、人生を挫折しかかっている人だ。カリートとゲイル。なんとも切ない2人。

この映画「カリートの道」は、カリートを何度も出所させているデイブという弁護士とのカリートの友情と、ゲイルとカリートとの恋愛のどちらが果たしてカリートにとって良い道なのか? という選択を迫られる状況に、映画の終盤ではなっていく。貧しくても、コミュニティは作れる。コミュニティは学歴がない人にとって、自尊心の糧になる。そのコミュニティに翻弄されながら生きた、カリートという男の幕引きがこの映画で描かれている。

現地民と多国籍企業

ペルーの採鉱業についての論文などを読んだ内容をストーリーとしてまとめてみました。

 

 

先進国の多国籍企業は、会社の利益のために、工業製品を作りたい。

そのために資源が必要。

第三世界の土地には、資源が豊富に埋まっている。

 

第三世界の土地に資源が眠っている。

現地民は、自分たちを差別する人たちが住む都会のように、コミュニティに電気が通り、サービス、教育等が充実することを夢見ている。

 

現地の人の夢につけこみ、多国籍企業は、現地民の住む土地に眠っている資源を得るために、土地を買収するため、不完全な説明会を開き、住民に贈り物をしたりして、例えばペルーの場合なら、採鉱会社を作る。

 

多国籍企業の採鉱により、現地民の水や土地が汚染されて、現地民の生活の糧であった農業ができなくなり、健康被害も出る。

 

現地民は必然的に、採鉱業を営む多国籍企業に対して、プロテスト運動をする。

 

多国籍企業側は、多国籍企業から税金や投資を受けている政府と組んで、警察や政府軍や多国籍企業側が雇った民間の軍事企業を使って、現地民に対して暴力を振るう。

 

女性の現地民のプロテスト運動をする活動家は、殺されたり、性的虐待を受けたりする。

 

現地民の中には、採鉱場で働く人もいたり、多国籍企業に雇われた民間の軍隊に入ったりする人もいる。

 

採鉱業によって、現地民のコミュニティは金銭的に潤うが、環境は破壊されて、健康被害が出るので、現地民は採鉱会社に金銭的潤いを求めてはいない。

現地民が求めているのは、インフラではなく教育。

 

今後は、多国籍企業側の社会的責任が問われる。

最適化の陥穽

映画「マッチ工場の少女(原題:The Match Factory Girl)」を観た。

この映画は1990年のフィンランド映画で、映画のジャンルはコメディ・ドラマ映画だ。

この映画の主人公は、イリスというマッチ工場で働く少女だ。イリスは、母親と義理の父と同居をしており、兄も近くに住んでいる。イリスの母親と義父は、イリスを工場で働かせて、イリスの少ない給料の収入で、家族は生活をしている。母親と義父は、仕事しないし、家事もしない。イリスが仕事をして、家事もこなす。イリスが、母親と義父を養っている。イリスの兄は、母親と義父が嫌で、家から出ている、ロックな容姿の、レストランで働くイリスには優しい兄だ。”Economic Crisis and Social Policy in Finland in the 1990s”というHannu Uusitalo によって書かれた1996年10月の論文では、フィンランドは1980年代は福祉国家で好景気で、1990年代に入って不況に陥り、経済政策も新自由主義的なものに舵を切ったとある。この論文の2ページのグラフを見ると、フィンランドの経済成長率が1989年には6%ほどだったのが、1991年にはマイナス7%ほどになって、約13%も経済成長率が落ちていることがわかる。このグラフは1985年から1995年までの経済成長率の統計を示しているが、このグラフの最高点が1989年で、最低点が1991年だ。フィンランドの経済成長率は、1989年と1991年の間に、その10年の最高値から最低値に落ちたことになる。この映画「マッチ工場の少女」は、1990年のフィンランドの景気が一気に下降していっている時に発表された映画だ。1990年のフィンランドの経済成長率は、だいたい0%だ。だが、映画は映画が発表される2年ほど前から制作が始まるので、1988年の経済成長率がこの映画「マッチ工場の少女」には反映されていると考えられる。1988年の経済成長率は、5%ほどだ。つまり映画「マッチ工場の少女」では、好景気の中の貧困が描かれている。この映画監督のアキ・カウリスキマの他の映画には、1986年の「パラダイスの夕暮れ」、1996年の「浮き雲」などがある。1980年代は福祉国家で好景気だったと、この先の論文で述べられているが、映画「パラダイスの夕暮れ」が発表された2年前ころのデータは、この論文からはわからないが、1985年のフィンランドの経済成長率は2%ほどだ。1980年代は好景気だったと論文で述べられているので、映画「パラダイスの夕暮れ」で描かれているのは、好景気のフィンランドにも経済格差つまり不平等が存在していた、ということだろう。1996年の映画「浮き雲」では、経済成長率が回復していたころに出された映画だが、映画は発表年の2年位前から制作が始まり、その1996年の2年前1994年のフィンランドの経済成長率は2%台まで回復をしている。だが映画「浮き雲」で描かれるのは、仕事を失って貧困に陥る家族の話なので、映画「浮き雲」は、1991年直後か、その余韻が残る時期の、フィンランドの状況を描いていると考えられる。1986年の「パラダイスの夕暮れ」、1990年の「マッチ工場の少女」、1996年の「浮き雲」と、どの映画でも、フィンランドが好景気でも不景気でも、監督アリ・カウリスマキは、貧困に焦点をあてて映画を作っていることがわかる。アリ・カウリスマキは、映画「マッチ工場の少女」が発表された1990年に映画「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」が世界中でヒットして、有名になった。この映画「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」では、ツンドラの厳しい環境の貧しい農村に住むバンドをやっている人たちが、バンドの成功を夢見てアメリカに渡る、というところから映画は始まる。ここでも、アリ・カウリスマキは貧困をテーマとしている。先の論文を読むと、1986年から1994年の間にも、フィンランドでは移転所得があったとある。移転所得とはつまりは、年金、病気の人に対する保険、失業保険などの、再分配のことだ。1980年代のフィンランド福祉国家だったので、この所得再分配がしっかり行われていた。この映画「マッチ工場の少女」の製作開始時と思われる1988年には、この移転所得と呼ばれる再分配が行われていた。イリスの母は多分病気がちの母親で、失業しており、おそらく失業保険の対象かもしれないし、何らかの再分配を受けていてもおかしくはない。義理の父親の方も、失業保険か他の何らかの再分配を受けていてもおかしくはない。ただ、この2人、イリスの母親と義父が、再分配制度の落とし穴に嵌っていることも考えられる。再分配制度の網からこぼれ落ちているのが、この母と義父で、だから2人はイリスのマッチ工場で稼いだ給料に依存せざるおえない状況になっているとも考えられる。映画の後半で、イリスに義父が「お前の母親は病気になった」と言うので、その時点で、イリスの母と義父は、イリスの母の傷病手当のような再分配を獲得したということだろう。また、その時点でイリスは家から追い出される。つまり、傷病手当があるから、イリスの稼ぎがいらなくなり、口を減らすということだろう。

この映画「マッチ工場の少女」で描かれるのは、貧困と社会福祉とおそらく社会福祉からこぼれ落ちてしまう人たちのことだ。山本譲司の「累犯障害者」という本があるが、その本には、日本の社会保障からこぼれ落ちてしまう人たちの存在も描かれていた。この本からではないが、例えば、日本の知的障碍者入所施設では、入所者は、狭い個室を自室として、風呂、トイレを共同で使い、食事は食堂でみんなでとる。こういった知的障碍者施設にプライバシーはない。入所者=知的障碍者は、生活支援員=施設の従業員に、生活を管理監視される。まるで、ミシェル・フーコーが本の中で引用したパノプティコンだ。資本主義は、すべての人を“普通”“健常者のような生活”にあてはめようとする。よって、生じるのは、そのシステムで障碍者とされる人たちの誕生であり、その障碍者と呼ばれる人たちの間の強いストレスだ。アマルティア・センの“ケイパビリティ”という思考がここで重要になってくる。人には、それぞれ異なった能力・無能力が存在しており、均一なサービスを提供しても、それは悪平等で、ある人はその均一なサービスで暮らすのに十分だが、ある人は均一なサービスでは足りないことになる。均一なサービスは、結果の不平等をもたらす。そのケイパビリティの考え方に、資本主義の押し付ける“健常者並”という思考を排除する思考を足せば、前述した入所型知的障碍者施設のパノプティコンを壊すことが可能ではないか? そう思えてくる。

資本主義が作り出す“健常者”。そこから外れた人への再分配。その再分配からもこぼれ落ちる人たち。再分配の齟齬が生み出すストレス。福祉国家フィンランドでも、資本主義の問題と同じ問題が起こっている。それは、フィンランド福祉国家でも、資本主義と通じるものを持っていたからだろう。資本主義は、福祉国家をも浸食しているのかもしれない。

一夫一妻の家父長制を、贈与により克服せよ

映画「ポゼッション(原題:Possession)」を観た。

この映画は1980年のフランス・西ドイツ合作映画で、映画のジャンルはカルト・ホラー・サスペンス・不条理スリラー映画だ。

ドイツのベルリンの壁が崩壊したのが、1989年の11月9日なので、この映画が製作された1980年にはまだドイツは東の共産主義側・ソ連側と、西の資本主義側・アメリカ側に、ベルリンの壁に象徴されるように分かれていた。ベルリンの壁は、ベルリンというドイツの都市を西と東に分けていた。この映画の製作には、フランスと西ドイツがあがっている。西ドイツは前述したように、資本主義側・アメリカ側に占領されている地帯だ。

この映画の主人公は、夫マルクと妻アンナで、この夫婦にはボブという子供がいる。この映画は、夫マルクが東ドイツにスパイに行って、西ドイツに帰ってきたところから始まる。映画の冒頭では、ベルリンの壁際の道路をマルクが車に乗せられて走り、自宅の前でスパイ活動=表向きの出張から戻って、大きな荷物を持って、アンナと話し合いをする。その時マルクは苛立っており、妻アンナに対する口調は荒々しい。アンナは夫マルクを自宅に入れることに戸惑っている。そして、マルクとアンナは、マルクが出張から帰って久々のセックスをしようとするが、マルクが勃起せず、2人の間には不穏な空気が流れる。アンナはマルクに、「浮気したんじゃないの?」と問いただすと、マルクは「したけど、たいしたことじゃない」という。マルクは馬鹿正直に、結婚上の嘘の合意から降りたということだ。アンナが、わざわざ女性差別をする男の作った家父長制のルールにのっているのに、マルクは男が作り出した家父長制のルールを、男でありながら破った“告白”をする。それは、アンナには耐えがたいことだ。

ポゼッション Possession 1980年 フランス、西ドイツ合作 Cinefil Imagica 2:43
勃起しないマルクに不満なアンナ

マルクは東ドイツへの表向きの出張=内密のスパイ活動の際に、浮気をしている。アンナは、マルクとセックスができないこと、マルクが浮気を“告白”したことで、ショック状態になり、アンナは結局家を出ていくことになる。アンナも、浮気をしていて、浮気相手のところにアンナは行ってしまう。アンナは、男たちが率先して維持する、男性中心的な家父長制の体裁を保つ努力をしていたのだ。すると、マルクはアンナがいなくなることで、精神的にダウンしてしまう。

浮気はしたけど、アンナとボブと一緒に、もう出張=スパイ活動はせずに、これからは家庭的に生きると、アンナを呼び戻すためにマルクは言うようになる。がしかし、マルクのその態度は、アンナにとって束縛でしかない。浮気をしておいて、勃起せずにセックスができず、結婚を維持するための嘘もつけないマルクは、アンナにとっては夫失格だからだ。そしてアンナは、マルクが象徴するもの、つまり家父長の拘束のせいで気が狂いだしている。アンナは、家父長制に拘束されて発狂しかかっている。

家父長制とは、男性を家族のボスの家長として扱い敬い慕い、妻は家長である夫に従い、セックスをして、子供を作り、子育てをして、家事と、介護をする仕組みのことだ。基本的には、家長である男性は、外で働き、お金を稼いで、家事は女性に任される。女性とその子供は、家長である男性に忠実に従う。男性の資産は、子に相続される。家父長制とは、男性による家族支配だ。そして、その家族を統治するのが国家だ。家父長制は、国家の運営のために、国家に都合よく作られている支配のための道具だ。家族を父親が統治して、その家族を国が統治する。それが、家父長制を用いた支配体制だ。

マルクの妻アンナは、家父長制のもとで発狂しかかっており、結局は発狂する。家父長制の何が問題か? それは、家父長制が女性を家庭の中に留めて家事ばかりをさせ、女性を性の従属者として夫以外との性行為を許さないことだ。この映画のように、夫がインポテンツの場合、妻は性欲の発散ができずに苦しむことになる。夫という男性と一緒に一つの家の中で生活して、夫の性器の存在を感じて、夫と同じベッドで寝起きするのに、その夫は立たないとなれば、妻は男性性を夫から感じながら、セックスを取り上げられている状態になる。

ポゼッション Possession 1980年 フランス、西ドイツ合作 Cinefil Imagica 1:15:47
一夫一妻の家父長制の束縛により発狂するアンナ

妻が家庭に拘束されて家事しかできずに、自分の職業選択の自己決定の機会を奪われ、なおかつ性的欲求の解消の相手の相手が限定されて、その夫がインポテンツで性欲を解消できないとなると、妻は発狂する。また、家父長制のそのような仕組みを知ったことにより、束縛感が増加して、妻の発狂に拍車をかけることもありえる。また、キリスト教的家父長制の厳密な一夫一妻制のもとで、発狂するのは、妻だけではなくて、夫も家父長制の負担により、精神的に発狂することもある。それは、家父長制の男らしくあらねばならないというプレッシャーによるものだ。家父長制の下で、夫は夫らしく、妻は妻らしくあろうとすることにより、夫も妻も発狂していく。

家父長制は、男女の性欲をうまく利用して作られている。夫婦とは、セックスの相手を保障する長期契約であり、労働力の獲得のための契約だ。この映画では、家父長制と、フロイトが言った人間の本能としての性欲との対立が描かれる。

性欲が家父長制の枠にとどまらないことがある、つまり、セックスの相手の獲得のための長期契約としての家父長制と、その契約外で性的満足を得ようとすることつまり浮気が、この映画の中の対立軸として存在する。そして、家父長制で獲得したセックスの長期契約対象者としての男性が、この映画ではインポテンツになっている。それが、マルクとアンナの結婚に亀裂を入れる一要因になっていると考えられる。

社会学者でもあり映画評論家でもある宮台真司は、著書「崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する」(2021,blueprint)の中の“『メビウス』男根に〈対他強制〉としての性を見出し、男根争奪戦を嘲笑する”(pp.225-233)の中で、男性器は勃起する時と、勃起しない時があり、女性が男性から快楽を得る、つまり勃起した男性器から快楽を得ることは、女性にとって不完全なことになる、というようなことを書いている。つまり、女性には性欲を満たすために、常に勃起する男性器が必要だ。そして、常に勃起している性器は一人の男性では不可能に近い。セックスが終わりすぐに勃起してを繰り返すことのできる男性など、そうはいないだろう。だとすると、勃起しない男という事実を克服するために、女性は自分の性欲を自分の望んだ時に満たすために、複数の男と同時に付き合う必要が出てくる。なぜなら、常に勃起している1人の男など存在しないからだ。そして、女性は自分の性欲を満たすために男性と複数人付き合うと決めているのならば、セックスの相手が結婚を境として急に男性1人となるのは、苦痛の原因にしかならない。というか、女性は性欲を満たしたいのならば、付き合っている人がインポテンツになったなら他の男性を探すほかない。それが、男性器で性欲を満たす簡単で合理的で唯一の方法だ。禁欲するという方法もあるが、それに耐えるのは女性にとって酷なことだと考えられる。

尽きることのない性欲に突き動かされているのは、女性だけではなくて、男性もそうだ。だから、男性も女性の気持ちを理解することが可能だし、女性も男性の気持ちを推測することは可能だ。キリスト教圏の女性の場合、禁欲とキリスト教が結びつく。禁欲して体に感じる性欲を神への愛として昇華させる方法もある。キリスト教の尼の神への崇高な気持ちというのは、この場合自身の性欲の昇華だ。キリスト教の神の神聖な感じとは、体に自然に沸き起こる性欲だと言うことができる。アンナは禁欲することができない女だ。つまり、アンナはキリストへの愛で生きる尼のようにはなることができない。アンナはつまり、家父長制の外に出ている。アンナは言う。「私は悪の方に堕ちた」。アンナが、キリストの像をみながらオナニーをした後に言う言葉だ。つまり、アンナは禁欲して性欲を神のために昇華させることに失敗したのだ。

ポゼッション Possession 1980年 フランス、西ドイツ合作 Cinefil Imagica 1:14:10
キリストの像を見ながらオナニーするアンナ

キリスト教は家父長制を推進する。それにより国家を支援する。そのキリスト教をアンナは拒んだ。アンナ自身の性欲の発散のために、キリスト教が使えなかったからだ。国家と家父長制と一夫一妻を重んじる宗教。性欲を利用して、国家と宗教は成り立つ。性欲と再生産、これが国家には必要だ。宗教も、神への愛の確認のために性欲の神の愛への昇華を必要としているし、宗教が永く繫栄するために再生産つまり子供を作って育てることは欠かせない。国家は労働力の維持のために性欲と再生産とそれを守る家族を必要とする。この社会では性欲は自動的に、国家に取り込まれ、同時に宗教に取り込まれる。性欲と国家と宗教は、切り離すことができないものだ。

先に上げた宮台真司の文章の中で、宮台真司は、セックスは、世界と繋がる方法だと述べる。この場合の世界とは、社会の外に広がる、人間の思っていることが全く通用しないもののことだ。人間はセックスを通じて、社会の外にある世界に出る。セックスを通じ社会の外に出て世界に入ることは、時に危険だ。なぜなら、社会のルールが通じない世界の不条理に浸っている人間は、自身の性欲のためにレイプをすることがありえるからだ。”俺の性欲のためにお前をよこせ”。

レイプは贈与の対極にある行為だ。世界を通じて、自身の満足を手に入れるためにレイプをするか、それとも世界に触れることにより社会の交換という概念から解放されて、贈与というひたすらつくすことに生きることに開かれるか。

社会の内側にとどまり、性欲を利用する国家や宗教に依存する限り、人間は戦争を繰り返す。戦争とはいわば、交換のなれの果てだ。”俺の満足のためにそれをよこせ”。“これをしたからあれが欲しい”。“これをしたら、何かが得られるはずだ”。戦争とはそういった所有欲のなれの果てだ。そのことが、この映画「ポゼッション」のラストに現れている。

社会のシステムの中にいれば、ほとんどの人間は、家父長制に取り込まれる。そしてそれは、国家、宗教に取り込まれることだ。社会の内部の支配者である、家父長制や国家や宗教から逃れるには、社会の外にある世界に出るしかないが、世界にも落とし穴がある。それは例えば、性欲を満たすためにレイプすることだ。世界を感じて所有ではなく、贈与に目覚めること。世界を感じて、社会の交換のルールから離れて、ただ贈与する、与えることに開かれること。家父長制の一夫一妻を克服するには、男も女も贈与することが必要だ。