無料の福利厚生、無料の教育

映画「ユダ&ブラック・メシア 裏切りの代償(原題:Judas and the Black Messiah)」を観た。

この映画は2021年のアメリカ映画で、映画のジャンルは警察犯罪・サスペンス・ドラマ映画だ。

この映画で描かれるのは主に、1960年代後半から数年の期間だ。

この映画には2人の主要な登場人物がいる。1人はアメリカ黒人の解放を訴えるフレッド・ハンプトンという若者の黒人と、もう1人はFBIに雇われたスパイであるビル・オニールだ。

この2人が所属している団体は、ブラック・パンサー党と呼ばれる、黒人だけでなく、プエルトリコや、貧乏な白人の解放を目指している集団だ。ブラック・パンサー党は、アメリカ全土に支部を持っている。

ブラック・パンサー党の目的とは何か? それはファシスト体制であるアメリカ政府から解放されること、資本主義を壊して社会主義を打ち立てることだ。

アメリカが、ファシスト体制? 第二次大戦中のイタリアが、ファシズムだったというイメージは一般に流伏している。しかし、アメリカがファシストの国だというイメージは一般の人にはきっとない。しかし、それはアメリカの黒人差別を無視した場合の見方だ。

1862年リンカーン奴隷解放宣言で黒人奴隷が解放されて、その後1865年にアメリカ合衆国憲法修正第13条が承認されて奴隷制が廃止されてからも、アメリカでは白人により黒人の人種隔離政策が続いていた。

黒人と白人の座る店の座席は区別され、トイレも別で黒人専用のトイレはみすぼらしいもので、バスの席も分けられて、黒人は白人と同じ学校には行けなかった。もちろん黒人と白人が、同じ地区に住むこともなかった。

これは黒人が、白人とは違って劣った人種であるという偏見から来る、白人から黒人への差別の現れだ。

ファシズムをインターネット上の日本大百科全書で調べてみると、「強権的、独裁的、非民主的な性格を持った…政治体制」という定義に当たる。黒人差別をする、労働者を搾取するアメリカ国家はまさにこの定義に当てはまる。

アメリカ社会は、白人中産階級以上に対しては、強権的で、独裁的、非民主的ではないかもしれないが、明らかに黒人に対して、貧しい白人に対して、プエルトリコ系の人に対しては、強権的で、独裁的、非民主的だ。

前述した黒人の人種隔離政策からもわかるように、黒人は白人に無理やり差別されて低い階級に貶められ、それは白人の独裁的な体制によるもので、黒人の民主的な権利を奪っているものだ。つまり白人大国アメリカは、ファシズムの国だ。

これはアメリカの建前と、大きく違っている。アメリカは、1950年代のアメリカのイメージをまだ1960年代当時には持っていただろう。それはアメリカン・ドリームと呼ばれた。誰もが選挙に行き、マイホームとマイカーを持ち、父と母と子供の家族からなり、コテージを持ち、労働組合はしっかりしていて、そのため福利厚生がしっかり保証されている。それが、アメリカの建前だった。

ところが、アメリカの本音の部分はどうだろう? それは黒人やプエルトリコやホワイト・トラッシュと呼ばれる白人貧困層を抱えて、その人たちには福利厚生は何もなく、大学にもろくに行けないような状況に置かれていた。

そのような状況の中で、フレッド・ハンプトンはすべての虐げられた人たちのために闘っていた。無料の食事、無償の診療所、無料の解放学級、無料の法律相談。それらがブラック・パンサー党が、ファシスト国家であるアメリカと闘う手段だった。

映画の中で、FBIの捜査官ロイ・ミッチェルは言う。「ビル、ブラック・パンサー党はクー・クラックス・クランみたいな暴力集団だ」と。ブラック・パンサー党は、確かに警察と銃撃戦を行った。”FBIのスパイである党員”が、党員をFBIのネズミだと言って殺したこともあったらしい。

しかし、ブラック・パンサー党の目的は、無料の福利厚生や教育であったのは事実だ。映画の中でフレッド・ハンプトンは明確に、「資本主義には社会主義で」と語る。なぜなら社会主義は、無料で教育や福利厚生を行うからだ。

この映画はビル・オニールに焦点をあてて、その彼の行動を裏切りのスパイ活動のスリリングさとして描いている。それが、この映画で目の行きやすいところだ。しかし、この映画が語っているのは実現可能な行動であることも忘れてはならない。

「人々は力だ」。

家族を成り立たせる男性性の問題

映画「ふたり」を観た。

この映画は1991年の日本映画で、映画のジャンルはミステリー・ホラー・ドラマ映画だ。

この映画の主人公は、実加という少女だ。この映画では、実加が中学生から高校生になるまでを描いている。実加には、姉がいる。その姉は、木を積んだトラックに押しつぶされて死んでしまった、千津子という死んだ当時高校生だった少女だ。

しっかりものの千津子は、のろまでぐずな実加とは違い、ぼーっとして車に押しつぶされてしまうような少女ではなかった。しかし、千津子は生理用品を家にとりに帰ろうとして、その時にトラックと石垣の間に挟まれてしまう。

千津子は、生理によって不安定になるというのが、この映画の中で明らかに示されはしない。がしかし、しっかりものの千津子だが、生理には勝てないというのがこの映画で示されている事実なのだろう。

生理をする年頃になると、女性は妊娠できる体になる、つまりセックスして子供を作ることができる体になる、ということだ。千津子は、智也という大学生と付き合いをしたいと言って、千津子の父と母に反対されている。多分、千津子の父と母は千津子の早すぎる妊娠を恐れたのだろう。

中東では娘が生理になる年齢になると、娘を嫁に出してしまう。娘が親の知らない間に、子を作るのを怖いのか? それとも男性が、若い女性を好むのか? 娘が、将来仕事を得ることができないからか? 娘を生理が来ると嫁に出してしまう中東よりは日本は良いが、しかし、好きなように恋愛できないのもどうか?

そこで大切になってくるのが、性教育だ。学校で、親から子へ、先輩が後輩に、性教育をする。特に性教育は学校が行うのが、大切だろう。正確な知識を子供に与えること。それに対して、親が寛容であること。特に避妊の重要性を伝えるために、子育てのマイナスの面を伝えることも重要だろう。

家庭を持つと、子供をつくる。子供ができると、家庭を持つ。そのどちらでもよいのだが、その時、つまり家庭ができると、父と母と子の役割分担ができることになる。その中で、この映画でも問題になっているのは男性性だ。

頼りになって、子のことを思い、妻には優しい、弱味は見せないお父さん。それが、父親像というものではないか? この中で特に父にとってつらいのは、弱みは見せられないというところだ。男性は強くなければならないという内的で、外的な男性性の押し付けだ。

この映画の中でも、実加の父親は自分の弱みを見せることができなくて苦しんでいるのだろう。千津子を失い、妻はノイローゼ気味で自分の相手には不足で、おまけに会社内のもめごとで北海道に尾道市から転勤させられて、そこで浮気してしまう。

最後の場面で、父が泣くシーンがある。父が泣くことにより、父の浮気が原因で父を恨んでいた実加が、父を殺すのを諦めるシーンがある。千津子は、しっかりした理想の家族の申し子のような子供だった。

つまり、家族が家族たるために必要な父は、母だけを愛し、母は父だけを愛するという規範を具体的に強要するような存在が千津子だった。父と母が千津子の恋愛に反対したのも、父と母の中に”適切な年齢になってから子を作る”という理想の夫婦というものが、千津子の強烈な存在によって出来上がっていたからだろう。きっと父と母には、逃げ場がなかった。千津子が優秀であればあるほど、逃げ場はなくなる。そして、死んでしまった千津子は、高すぎる理想として生き続ける。それが、この実加の家族の現実だろう。

父が泣くことにより父を殺すのをやめて、父も母も自分と同じような弱い存在でしかないことを知ること、それにより父を許すこと、男性性の不幸を知ること。それが実加にとっての成長であり、千津子が姿を消すきっかけとなった。

実加は映画の冒頭で、レイプされそうになる。その男が持っているのは牛乳と、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」だ。つまりその男は、インテリで気取った男で、レイプに至ってしまうような女性性への幻想を心に抱いた、悲しい大馬鹿野郎の変態だ。

そしてその男は警察に捕まるわけだが、そのシーンの跡の実加の様子が元気に描かれているのも不思議だ。確かに実加がレイプされそうになって、それを気遣って千津子がいるのは、実加の苦しみを和らげているかもしれないが。きっとこの映画「ふたり」が現在撮られたら、レイプの傷にもっと焦点があてられるだろう。

父親を中心とする支配からの脱却

映画「ファーザー(原題:The Father)」を観た。

この映画は2020年のイギリス・フランス合作映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の主人公は、アンソニーという老人だ。アンソニーは働いておらず、隠居をしている身だ。アンソニーには2人の娘がいる。アンとルーシーだ。アンは恋人と、アンソニーも住んでいるロンドンから、パリに引っ越そうとしている。

この映画は、アンソニーの主観で映画が主に撮られている。アンソニーは、病気にかかっている。病名は明らかにされないが、記憶に関する病気にアンソニーはかかっている。アンソニーはその事実さえ、記憶の障害でうまく飲み込むことができない。

アンソニーは、記憶の欠落する病気にかかっている。アンソニーは時系列で、記憶をとらえられないだけでなく、記憶と現実がごっちゃになった世界に生きている。記憶が、皆のとらえている現実と、違ってきてしまっている。

アンソニーの記憶では、娘のアンなどの人物は常に入れ替わる。アンはだいたいいつ見てもアンの姿をしているが、アン以外の人物の、アンの恋人や介護人の姿は頻繁に他の人に入れ替わる。例えば、ローラと、アンソニーが思っていた人物が、別の名前のはずの人物として表れる。

つまりアンソニーには、心を寄せられる家族や介護人がいないことになる。アンだと思っても姿がアンではなく、介護人のローラも、いつも姿が違う人間が、ローラと周りに呼ばれている。アンソニーは心を置ける人がいなく、いつも不安だ。

アンソニーの不安は、映画を観る人すべてに伝わってくる。それは前述したように映画が、アンソニーの主観に沿って撮られているからだ。アンソニーの視覚が、映画の中で再現されている。観るものも、アンソニーと同じように不安になる。

アンソニーは、尊厳のある父親像から抜け出すことができない。いつも強く不快で他人に対して引けをとらない人物として、存在しようとする。アンソニーは、強い父を地で生きる、力を抜くことが許されない人間だ。自分が病気だと認め、「弱い自分」であろうとはしない。

そして、アンソニーを介護するのは女性だ。男性は、アンソニーが決定的に混乱にした状態に置かれると、女性であるアンを電話で呼ぶ。アンソニーの子供は2人とも女性だが、これが例えば男2人の兄弟であった時、男性は妻を老人の介護人に仕立て上げないだろうか?

この映画にあるのは、強い父と優しい介護人である女という像だ。この映画も、その先入観から脱することができていない。父は常に強くあり弱音をみせることが許されず、女性は介護の負担を男性より受ける。いざとなれば女性の出番だ。

もしアンソニーが、男性の強さを顕示しなければいけないというプレッシャーから自由ならば、アンソニーは自分の立場を受け入れることが、容易になったのかもしれない。周りに怒鳴り散らさずに、済んだのかもしれない。

この世は、男性中心に作られている。そしてそこで必要とされるのが、支配する強い男性というイメージだ。このイメージから男性が、脱することができるのならば、男性によって支配されるヒエラルヒーも、男性が強くなければならないといった先入観と共になくなるのではないのか?

そして、介護者に負担がかかりにくい状況が、生まれるのではないか? この映画を観ることで、多くの人に、病気についての、老後についての、知識が増えることが、ヒエラルヒーの解体にもつながっていくのではないだろうか?

不法移民という不幸

映画「イゴールの約束(原題:La Promesse)」を観た。

この映画は1996年のベルギー・フランス・ルクセンブルグチュニジア合作映画で、映画のジャンルは、不法移民とそれに関わる人たちを描いたドラマ映画だ。

この映画の主人公は、移民を国の許可なしに、つまり不法に入国させて、移民を国に住まわせ、その移民から生活に関する費用をとって生活を成り立たせているロジェという男の子供であるイゴールという少年だ。

イゴールは車に興味を持っていて、友達と一緒に作ったゴーカートに乗って遊ぶのが大好きな少年だ。イゴールは笑うと細い歯が目立つ。歯はすでに生え変わっているはずなので、大人の歯がいびつに生えている印象を持つ。

イゴールが笑うと、素顔の清楚な美少年と言った感じから、不良な兄ちゃんと言った感じになる。イゴールの歯は甘いものの食べすぎか、それともシンナーのやりすぎかで細く削れてしまった印象を観るものは持ってしまう。

これは、監督の意地の悪いが素直な配役のためだろう。監督としては、イゴールの無表情の時と笑った時のギャップを狙っているのだろう。笑ったときは悪い子、無表情の時は良い子といった感じに。

ちなみにこの映画の中で、イゴールが甘いものを食べているシーンや、シンナーをやっているシーンは出てこない。イゴールの歯は生え変わってこのような状態になったのか、それとも生活環境の影響なのか不明だ。

ちなみに映画「ヒルビリー・エレジー」では、原作の本ではヒルビリーの貧しい人が、安く食べられる甘いものを子供時代に食べるせいで歯がボロボロになっているのを、映画では描いていなくて、観客のひんしゅくを買ったというエピソードを、町山智浩氏の町山智浩の映画その他ムダ話の、ヒルビリー・エレジーの解説で聴いた。その点では、もしかしたらイゴールの歯がボロボロなのはリアルなのかもしれない。しかし、イゴールの生い立ちが不明なのでなんとも実のところ言えないが。

映画のタイトルに「イゴールの約束」とある。イゴールは、2つの約束をすることになる。1つは、父ロジェとの約束。もう1つは、自分たちの生活の糧である不法移民のある家族の父親で妻子を持つアミドゥとの約束だ。

父ロジェとの約束は、家業をしっかり手伝えというものだ。父への裏切りと思われる行為は、許されない。アミドゥとの約束は、アミドゥの家族を守ってくれというものだ。なぜか? アミドゥは仕事の最中に足場から脱落して怪我を負い、その際にイゴールに家族を頼むとお願いをする。アミドゥは自分の怪我の重さと、不法移民なので病院には連れて行ってもらえないことをわかっていたからだろう。

イゴールは、その2つの約束のどちらをとるのか? それが、この映画のクライマックスにつながっていく。イゴールは映画の後半で、父の命令ではなくて、自分の信念に従って行動する。それは、このイゴールという少年が、大人になっていく成長の姿でもある。

アメリカやヨーロッパそして日本でも、移民の問題はここ最近(2021.10.30)でも話題になる。不法移民の話になると、アメリカのメキシコとの国境の壁が思い浮かぶ。中米の国のエルサルバドルやグアデラマの人々が、メキシコを越えてアメリカにやって来ていた。その壁は、前政権のトランプ政権の時に大きな問題となっていた。しかし、まだ移民の問題は解決はしていないようだ。

移民がアメリカにやって来る理由は、国による特定の民族への虐殺から逃れるためであったりする。誰もが安心して国の中で、暮らせる時代が来るのはまだ先のことなのか? 移民の問題に目を向けさせる映画の一つが、この「イゴールの約束」であることは言うまでもない。

ヨーロッパの問題、アフリカの悲劇

映画「アテナ(原題:Athena)」を観た。

この映画は2022年のフランス映画で、フランスの暴動を描いた映画だ。

この映画の中心となるのは4人の兄弟だ。長兄からモクタール、次男アブデル、三男カリム、四男イディールだ。この映画は、四男のイディールが、警官らしき人物に殺されて、そのために軍人である次男のアブデルが、暴動にならないように会見で発言するシーンから始まる。

そして、その警察署での会見の最中に、火炎瓶が三男カリムの手で投げ込まれる。するとそこから冒頭10分は、警察署から銃などを略奪して、パリの郊外にあるバンリューと呼ばれる低所得者と移民が暮らす場所へ、ワンカットで移動する。

そのバンリューの架空の区域の名前が、この映画のタイトルであるアテナだ。この映画は、古代ギリシア悲劇の題材となった、トロイ戦争を元にしている。アテナは、ギリシア悲劇にも登場する戦いの神の名前だ。

フランスのバンリューでは、暴動がたびたび起こっている。1981年の暴動、2005年の暴動、2020年の暴動だ。1981年の暴動では、バンリューで暮らす低所得者や移民の人たちが、政府に対する不満から暴動を起こし、車に火を点けた。

2005年のパリの郊外の暴動は、ティーンエージャーが死んだことがきっかけとなって起こった。黒人と、アラブの西部に住む人という意味があるマグレブの子孫の、計2人が、その時死んだティーンエージャーだった。

2020年の暴動は、バンリューでの民族少数者への警察の待遇により、衝突が起こった。それはちょうど、コビット‐19のロックダウンの最中で、幾夜に渡って起こった。パリ郊外のバンリューでは、このようにたびたび暴動が起こっている。

2019年の「レ・ミゼラブル」というフランス映画でも、暴動の引き金となっている、警察のバンリューでの、バンリューで暮らす人々に対する、警察の態度の悪さが描かれていた。この映画「アテナ」は、映画「レ・ミゼラブル」の続編として観てもよい。

フランスの郊外に住む低所得者の中には、移民や移民の子供たちがいる。その移民はどこからやって来るかというと、それはアフリカだ。アフリカでは内政が不安定で、住民の身がいつも危険と隣り合わせだ。

代替メディアのThe Interceptの記事によると、アメリカが、アフリカ大陸で兵士を育てて、アフリカで民主的な体制が出来上がると、そのアメリカにより軍事訓練を受けた兵士がクーデターを起こして、民主的な政府を崩壊させてしまう、といったことが起こっているとある。

民主的でない軍事的な政権は、恣意的に行動し、その際に、軍事政権によって抑圧される人たちが、アフリカの難民となり、ヨーロッパに結果的に渡ってくる。

アフリカ大陸の北の部分の人たちの住む国で、クーデターなどにより内政が不安定化すると、多くの難民が生まれて、その難民がナイジェリアやスーダンなどを経て、リビアに集まり、海を越えてヨーロッパに渡って来るのだ。

つまり、アフリカの内政が不安定な結果、難民が生まれて、フランスのバンリューと呼ばれるようなところに難民が行きつく。映画「イゴールの約束」(1996年)も、そのような難民問題の結果を描いた映画の1つだった。

もともと、アフリカ大陸は、西洋によって植民地化された地域だった。そこでは、アフリカの人たちは、植民地の住民として貧しい生活を強いられた。そして、今アフリカの国々は、西洋の支配から独立したことに、形式的には、なっている。

しかし、未だにアフリカの人々は貧しい状況に置かれている。それは、例えば、アフリカのエチオピアのコーヒーについて描いた映画「おいしいコーヒーの真実」(2006年)だ。アフリカでいくらコーヒーで世界最上級のものができても、それはニューヨークの市場で決まった価格の下で、最終的に安値で買い取られてしまう。

これは、欧米諸国によるアフリカの搾取だ。エチオピアは、世界でも貧しい国の中に入る。今は代わったが、2019年当時、世界で最もリッチな、アマゾンのオーナーだったジェフ・ベゾスの財産の1%は、エチオピアの保健予算と等しかった。

搾取する欧米のスーパーリッチと、搾取されるアフリカ大陸のような第三世界との格差と、スーパーリッチたちの強欲さがここに見て取れる。例えば、ジェフ・ベソスが自分の財産の1%を寄付すればエチオピアの保健予算は、倍になる。そうすれば、エチオピアの人たちの衛生状況が改善されるのだ。また、ジェフ・ベゾスの財産の1%を、保健予算に当てて、余剰を他の予算に遣うという方法もある。

ただ、そのようなことができる民主的な政府が、エチオピアにあればの話だが。先に、示したように、クーデターを、アメリカが訓練した兵士が起こしてしまえば、いくら寄付したところで、その寄付は、軍事政権の懐に入って、浪費されて終わってしまうだろう。

このような状況の中にある難民、移民の問題だが、難民の行きつく先としてあるのが、例えばフランスのバンリューのような公共住宅団地だ。そして、そこでも差別されてきたアフリカの人たちは、差別を受けて苦しい生活を余儀なくされている。

この映画「アテナ」では兄弟に焦点が絞られるが、このような兄弟のような不満を持つ人びとは、バンリューに住むすべての人たちだということができる。映画の中では、従順そうに描かれているバンリューの大人たちも、不満をもつ人々のうちの1人だ。

この映画「アテナ」では、四男イディールが警官によって殺されたと思った、バンリューの住民の人たちの一員である三男のカリムが、弟の復讐のために、弟を殺したとされる警官の名を警察に公表させようとする。

しかし、この映画「アテナ」により描かれるのは、復讐で人を殺しても、復讐者は救われないということだ。それを、よくあらわしているのが、次男アブデルのこの映画での描かれ方だ。

映画の中で、次男アブデルは、三男カリムの死の直接の原因となった、長男モクタールの行動により、モクタールを恨み、絶望し、発狂して、怒り狂い、モクタールを殴り殺す。そして、アブデルは自己を喪失し、無気力に陥ってしまう。

昔、社会学者の宮台真司は、「絶望から出発しよう」という本を書いた。アブデルは、絶望から救われなかった。そのアブデルの絶望を、味わうのは、この映画を観た人たちだ。絶望から出発するのは、この映画を観た人たちだ。

アフリカ大陸の内政不安定、それによる難民の発生、ヨーロッパへの移民。今ある問題の原因を作り出したのは、移民問題に頭を抱えるヨーロッパの国々だ。ヨーロッパ政府は、アブデルの絶望に共鳴して、絶望から出発して、利他的な政策を打ち出す時だ。

 

 

en.wikipedia.org

 

theintercept.com

 

www.theguardian.com

 

nyfree.hatenablog.com

 

www.penguinrandomhouse.com

 

www.democracynow.org

新聞社は反権力

映画「女ざかり」を観た。

この映画は1994年の日本映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の主人公は、南弓子という女性新聞記者であり母である女性だ。弓子には別れた夫との間に2人の娘がいて、そのうちの1人の娘と同居している。また弓子は、大学の教授と不倫関係にある。

この映画は、弓子が新日報という新聞社の家庭部から論説委員に転属になったところから始まる。弓子と同時に、浦野という社会部に所属していた男も論説委員になる。この浦野という男は、現場で記事を書くのが得意だが、デスクで記事を書くのがとても苦手な男だ。

浦野は、弓子に記事を書くのを手伝ってもらう。記事の雑な下書きを、浦野は弓子に記事にしてもらう。結果、浦野の記事は掲載されることになる。

手書きで記事を書く浦野と対照的に、弓子はワープロで文書を書く。論説の記事を書くことをすすめられて、弓子は家庭部にいた頃の記憶を踏まえながら記事を書く。その記事は、他の新聞社内の人間に言わせるとフェミニズムだと言われ、否定的なニュアンスでとらえられる。なんせ新聞社は、男ばかりの世界だったからだ。

この映画は、この弓子が書いた論説が問題を起こし、その問題を追うことで、映画は進んで行く。弓子の書いた記事が原因で、新日報社の新社屋の建築の話が飛んでしまう。それはなぜなのか? それが、この映画の表面上の中心だ。

では、この映画の裏の中心は何か?それは裏というよりは表に出てきているが、ここでは裏の中心とする。その裏の中心とは、性欲だ。フロイトの言葉を使えば、リビドー。他人と触れ合いたい欲求、またはセックスしたい欲求だ。

弓子の不倫相手の大学教授は、弓子とセックスするためにホテルに、妻に内緒でしけこむ。浦野は弓子に優しくされて、弓子のことが好きになり、その気持ちが忘れられず、海岸に「きみとやりたい」と書き記す。

その他にも、政界の重要人物が登場するが、その人物たちももちろんリビドーに関する登場をする。この映画に登場する人物は、映画の外の世界のように、誰もかれもが体の中に抑えようのないリビドーを抱えている。

そして、そのリビドーの衝動を解放することで、新日報に起こった新社屋建築の無効の出来事は解決され、新日報への政治的圧力は消える。

弓子は言う。「日本の新聞社は西欧の新聞社と同じように権力と闘うのが重要であるのだと思っていて、日本にもそれが当てはまると思っていました。でも現実は違うみたいです」と。

弓子は、崇高な理想を追う新聞記者であることは、この発言からもよく読み取ることができる。そしてこの精神こそ、新聞記者の持つ専門的な知識、政治や哲学や宗教やフェミニズムの知識を生かすのにとても重要なものなのだ。

政治的しがらみで、良い記事が書けなくなる。弓子の書いた記事は、水子供養について取り上げた記事で、それが宗教団体の逆鱗に触れて、新聞社に圧力がかかる。その中で、弓子は論説を書く立場を失ってしまう。

映画中、弓子はおっとりとした人物として描かれる。どんな説得力のあるセリフを言っても、弓子を演じる吉永小百合の大衆に流布したイメージが、弓子の信念のある人物という面を押し隠しているようでもある。

だがしかし、この映画を観れば、弓子の信念が、弓子を演じる吉永小百合の清楚で少しおっとりとしたセリフ回しの中から感じることができる。そしてその信念こそが、新聞社の男たちが失ってしまった、大切な新聞社の精神だ。

性の転向と共感力

映画「転校生 さよならあなた」を観た。

この映画は2007年の日本映画で、映画のジャンルは恋愛ドラマ・ファンタジーだ。

この映画の主人公は、2人いる。2人は、長野県の長野市で幼少期を共に過ごした仲の、男の子と女の子だ。男の子の名前を斎藤一夫、女の子の名前を一美という。

この映画がファンタジーである理由は、一夫と一美の精神が入れ替わるからだ。一夫の体に一美の心が入り、一美の体に一夫の心が入る。よって、一夫の口調は女性の口調であり、一美の口調は男のものとなる。

体は一夫でも、心は一美。体は一美でも心は一夫。一夫も一美も、異性が好き。よってこの場合、男の体をした一美は、彼氏である山本ひろしという男の子が好きになる。抱き合う姿を見れば、一夫と山本ひろしが抱き合うことになる。見た目はゲイだ。

見た目は男で、心は女。だけど、一美は女としての別の肉体を持っている。これは男の体を持ったゲイの少年が、手術をして肉体を女性にするのに似ている。ただ一美は最初は女の子で、その次に不思議な力で男の子の体を手に入れ、そのあと手術なしてまた不思議な力で女の子の体を手に入れる。

一夫と一美の心の入れ替わりは、性的な意味での、性転換ともとらえることができる。そしてそれは同時に、他者への共感の力としてとらえることもできる。一夫と一美は精神が入れ替わりそれぞれの体を持って、それぞれの環境を生きることでお互いの家族を心境を理解するようになる。

その例は、体の性的な身体的特徴である、男の子の勃起であったり、女の子の生理であったりするのだが、それは時に相手の病状を思いやる気持ち、病気の相手が何を望むのかという気持ちに共感する能力を持つということだ。

この性転換を経て、一夫と一美は精神的に成長をする。異性に対する共感力を高め、同性愛者の気持ちを少しはなぞり、病気になった人の気持ちを理解して、母親そして家族の愛情を理解する。

ゲイであることは、性的に敏感であることだ。ゲイの人は、ゲイの人の中にあるストレートな人格を強く意識する。ゲイの人の中にあるストレートさ。それは、生物的には男性である人が、精神的に持つストレートな女性性。そして、生物的には女性である人が持つストレートな男性性だ。

そして、それが自分の持つべき性だと自覚する。つまりストレート(異性愛者)の人から見れば、ゲイの人は異性に強く憧れて、異性と同一化する人に見える。

ここからわかるのは、人は人間の性的な部分を前面に押し出して生きないと苦しいということだ。ゲイの人は、自分の性を認知してもらうのに苦しむことがある。自分の性を認めてもらうのに、ゲイの人は命を懸けるし、そうせざるえない。

性的なものは、人間にとってそれだけ重要な意味を持つのだ。

性的なものと同様に人間が生きるのに必要なのは、他者への共感力だ。他者への共感力があれば、争いごとのもとになる妬みや嫉妬は生まれない。そのため共感力は、自分自身を救う助けになる。自分自身の中の、葛藤を和らげてくれるのが共感力だ。

人は性的であることと、人は共感力を持つこと。それがこの映画が教えてくれる、人が生きるために必要なものだ。ただ、性的であることが教育や家庭や広告によって押し付けられるものなら、そこから解放されるのも人の生き方ではないかという気もするのだが。