癒し

映画「精神」を観た。

この映画は2008年のアメリカ・日本合作映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画の舞台は、日本の岡山県にあるコラール岡山という精神病院だ。この映画には「精神0」(2020)という続編があって、その続編ではこの精神科の病院からこの映画で登場する主治医の山本先生が引退する様子が描かれる。

この映画「精神」では山本先生が登場するものの、中心は山本先生のところに集まる患者たちの語りだ。病院での問診、患者へのインタビューによってこの映画は構成されている。この映画は、いわば患者の語りで構成されるといっていい。

この映画が撮られた時期というのは、障害者自立支援法が成立しようとしていた時だ。障害者自立支援法というのは、いわゆる福祉切り捨ての法律で、障害者の自立を促すという名目で、障碍者への支援を大きく縮小するという法案だ。

障害者自立支援法というのは、新自由主義の下でとられた政策だ。多国籍企業の治める税金で国を回していくのではなく、国民一人一人の負担で、例えば消費税で国の予算を確保しようとする政策の一環として障害者自立支援法はある。国民が、貧困に陥っていても。

多国籍企業は、莫大なお金を持っている。そのお金を多く税金としてとって国の予算に回せば、障害者自立支援法がなくても国はやっていける。しかしだ、国が多国籍企業からお金をとろうとすると、多国籍企業は国から逃げて行ってしまう。

だから日本政府は、日本にある多国籍企業からお金をとることができない。多国籍企業はどこに逃げるのか? それはタックス・ヘイブンと呼ばれる、税金の安い発展途上国だ。その発展途上国でも税金がとれないので、国の予算が足りないという事態が起きている。

先進国でも発展途上国でも、同じ事態が起きている。その事態とは、先進国でも発展途上国でも1番お金を持っているはずの多国籍企業からお金がとれないという事態だ。そして納税の被対象者には、お金を持っていない99%の国民がなっている。

そのような背景を持つ障害者自立支援法を、バックグラウンドとしてこの映画「精神」は描かれる。患者と患者に直接かかわるスタッフの姿が、この映画の中で描かれる。ブレーンとしての精神科医山本先生ではなく、病気の当事者、そして手足となる病院施設スタッフがこの映画のメインだ。

山本先生の精神病院は、とにかく古い。木造建築で、しゃれた病院とは程遠く、病院内の標識も紙で手書きで書かれている。新病棟を建てるという経済的余裕もない。山本先生は以前は無給で働いていたが、現在では(映画撮影当時)月10万円の給料と年金と講演料をもらっている。

講演料と言っても、他の医者が断るような講演料の公演を引き受けて公演をしているので、その料金は知れたものだという。それでも山本先生は働くのだ。患者ために。病院のスタッフのために。

患者には様々な人がいて、大学を出ているインテリの人もいるし、リストカットの跡が腕にある人もいれば、ストレスから自分の生後1ヵ月の子供を殺してしまった人もいる。インテリの人の中には、東大に受かって中退したという人も登場する。

その中の人には、健常者と精神病者の間にあるカーテンに悩んでいる人もいる。そのカーテンというのは、いわゆる健常者には障碍者に対する偏見があるのではないかというものだ。それに対して山本先生はこう言う。「たいした違いはない」と。

何十年も山本先生の元に通う患者の一人は、こう語る。「私は健常者と障碍者の間の壁をなくすことを考えて、行動するようになった。私は病気を経験したので、健常者にも完璧でないところが見える。そこを私はフォローするのだ」と。

また、別の患者の一人は言う。「人は自分の傷を癒そうとして、自分の手に包帯を巻いていてはだめだ。相手の傷を見つけて、その傷に包帯を巻くことで、その相手も自分も傷を癒すことができるのだ」と。

この「精神」という映画を観ていると、気づきの連続が映画を観るものに訪れる。映画に登場する人物が病気を、現状を語ることによって癒されていくかのように、そして映画を観るものもこの映画を通して癒されていく。

夢と荒唐無稽

映画「スパイの妻 劇場版」を観た。

この映画は2020年の日本映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画は、2020年の6月にNHKのBS8Kで放送されたものの、スクリーンサイズや色調を変えたものを劇場版として劇場公開したものだ。監督は「CURE」や「散歩する侵略者」などで知られる黒沢清だ。

映画の舞台は、第二次世界大戦末期の日本だ。主人公の福原聡子は、夫の福原優作の妻で主婦だ。聡子と優作の家は、召使がいるようなお金持ちの家で、優作は貿易関係の仕事をしている。

優作は趣味で、映画作りをしている。映画のカメラやフィルムは、当時は一般庶民の手に入るようなものではなかっただろう。ましてや、戦時中だ。物が不足している時代に、映画のカメラなどを趣味でもてる人間がどれほどいたのだろうか?

その劇中劇となる映画のヒロインは聡子だ。聡子は、金庫を開けようとしてそれが見つかり逃げようとして拳銃で撃たれて死ぬ。簡単に言ってしまうと、それがその映画のあらすじだ。そしてこの映画のあらすじが、映画本編のあらすじと重なることになる。

聡子は、妻という役割に熱中している妻だ。つまりそれは、現実をみていない妻としてこの映画では描かれる。妻という役割に没頭するあまりに現実から離れて妻の役割を自分の都合よく作り上げてしまう、それが聡子だ。

聡子の理想とする妻とは、一体何か? それは夫に愛され、夫と同じものを共有して、夫とだけと、できればスリリングな人生を楽しむ、といったものだ。そこに現実の悲惨な世界がからんできても、それは優作と聡子のための演出ぐらいの意味しか持たない。

それに対して、優作の持つ人生観とは何か? それは結婚よりも、コスモポリタン世界市民として、正義のために生きるというものだ。その正義は大義と言い換えてもいいかもしれない。つまり優作は、大義のために生きて、正義のために生きてはいないかもしれない。

映画の最後の辺りで、聡子は精神病院に入る。それは夫、優作の持っていた、日本の極秘資料を軍に渡すといって、映画のフィルムを渡したものの、その夫から譲り受けたはずの極秘資料=夫と聡子の共通の秘密=夫との親密性を現わすフィルムが、夫と撮った自主映画になっていたからだ。

それにより聡子は、夫の愛を失うことになり、夫と一緒に亡命してアメリカのサンフランシスコで暮らすはずの未来の約束がふいにされ、軍にでたらめな情報を流したためでもあるのか、聡子は精神病院に入ることになる。

精神病院にいる聡子は、精神病院に訪ねてきた優作の知り合いの訪問者にこう言う。「私は狂っていません。この世界が狂っているのです」と。

聡子は狂っていない。夫を愛し、良妻賢母として夫に仕えている。しかも日本の極秘機密を知っている。日本の極秘機密を聡子が知っている部分は、明らかに聡子は狂っていないといえる。

しかし、良妻賢母で夫のために尽くそうとする聡子は、明らかに家父長制に狂っているように思われる。それは家父長制が、男のための幻想だと信じている者ものにとっての聡子の狂いなのだが。

つまり、聡子は、家父長制を信じる者には狂っていないように思える。だがしかし、聡子は、精神病院にいる。それは軍事機密を知っていると狂言を言っているかのようにとられたせいではあるのだろうが、聡子があまりに妻という役割に没頭しているのもどこか狂っているように思わせる部分もこの映画にはある。

聡子は、最後字幕で、戦時中に消息を絶ち、しかしその死亡届に偽装がみられる優作を追って、きっと優作が生きて逃れているはずのアメリカに旅立った、と説明される。聡子は、まだ良妻賢母の夢を見ているのだろうか? それとも夫の言った通り戦争で焼け果て負けた日本の状況を受け入れ、現実を知ったうえで、なおかつ愛に生きようとしているのか?

しかし、現実を知ったのならば聡子は優作のもとに旅立つ必要などないはずだ。現実とは良妻賢母の思想のように整っておらず、夫は大義のために妻を捨て、別の女を愛するからだ。ギリシア神話のゼウスのように。現実は、荒唐無稽なのだ。

社会の重圧

映画「リグレッション(原題:Regression)」を観た。

この映画は2015年のスペイン・カナダ合作映画で、映画のジャンルはサスペンスだ。

この映画の監督は、「アザーズ」「海を飛ぶ夢」などの映画を作った名匠アレハンドロ・アメナーバルだ。

この映画は、事実に着想を得て作られた映画だ。この映画の舞台は、1990年のアメリカのミネソタ州ホイヤーだ。しかし、この映画はどこの世界でも起こりえるかもしれない事実を描いた映画だ。

この映画の中心となるのは、ブルース・ケナーという刑事だ。ブルースは仕事をしていて、ある事件に遭遇する。それは、アンジェラという女性が父親に性的暴行を受けたという訴えだ。父親はあっさりとその事実を警察に認めて、捕まる。

この映画のテーマとなっているのは、心理学的な集団ヒステリーだ。催眠により精神が退行することにより虚偽の記憶が捏造され、その記憶に人々が翻弄される。その記憶の捏造のきっかけは、いわばストレスと日常の意図せぬ刷り込みからだ。

アンジェラの父親のジョン・グレイという男は、負け犬の男だ。いわゆる、だらしない父親で家庭も不安定だった男だ。アンジェラの母は、すでに死んでいる。アンジェラの死は家族に当然のように精神的ショックを与えている。

アンジェラには兄がいる。兄の名はロイという。ロイはゲイだ。教会は、ロイのことをソドムの罪を負った男と言う。ソドムの罪とは、男色や獣姦などのことだ。教会はゲイの人を、罪びととして断罪していた。

ロイを罪びととして断罪しているように、アンジェラを保護している教会はいわゆる善ではない。ゲイの人を受け入れることができないような教会は、悩める者を救うどころか、悩んでいる者を追い込む集団となっている。

教会以外にも、日常の風景が人を追い込むものになっているという現象がこの映画ではみられる。それは商品の広告だ。日常的に刷り込まれる広告のイメージが、人々に脅迫的に迫ってきているそんな様子がこの映画では描かれる。

集団ヒステリーを可能にするのは教会や広告などの日常に氾濫するイメージ、言説だ。さらにそのイメージと精神的状態が、集団ヒステリーを引き起こす。世の中に出回っている成功のイメージなども、集団ヒステリーを引き起こす一因となる。

日常的に刷り込まれる言葉やイメージが、人に悪夢や間違った記憶を植え付ける。それが、この映画のトリックへの答えだ。日常のその言葉やイメージがどれだけ虚偽に満ちているものでも、それを真実と信じてしまった人と、その人の、実はなんの間違いのない行為とのギャップはぬぐえない。そのギャップが虚偽の記憶を生み出す。

例えばロイのゲイの事実だ。ゲイであることはなんら間違ったことではない。ただ本人には、社会的な通念が襲い掛かる。90年代は、まだLGBTQの運動は盛んではなかった。そのような状態で、ゲイの孤独な少年に襲い掛かるプレッシャーは大きなものだ。それは時に、人を死にまで追いやるかもしれない現象だ。

事実と社会的通念が不一致であることにより、多くの抑圧が生まれる。ありのままの事実を、ありのままの人間を受け入れることができれば、アンジェラのように社会の重圧に戦いを挑まれることはないのではないか? 社会の誤った重圧は人を苦しめるのだ。

信教の自由

映画「アレクサンドリア(原題:Agora)」を観た。

この映画は2009年のスペイン映画で、映画のジャンルは歴史ドラマ映画だ。

この映画の舞台は、紀元391年の頃のローマ帝国支配下にあるエジプトのアレクサンドリアだ。この映画の主要な登場人物は、3人いる。一人は天文学者のヒュパティア。ヒュパティアの生徒で後のアレクサンドリアの長官となるオレステス。そしてヒュパティアの奴隷であり後に奴隷から解放されるダオスだ。

この映画の背景には異教徒と、キリスト教徒、そしてキリスト教徒が新約聖書を信仰するのに対して旧約聖書を信仰するユダヤ教徒の対立がある。ローマ帝国キリスト教からして異教徒の宗教、つまり様々な神を信じる宗教を持つ。

ローマ帝国の宗教を異教徒と言ってしまうのは、キリスト教からの視点が中心になっていることが原因だ。なぜならローマ帝国多神教を中心軸として見れば、キリスト教こそ新興宗教の異教であるということになるからだ。

この映画では、キリスト教が勢力を拡大していく様子が描かれる。キリスト教徒とユダヤ教徒ローマ帝国の信仰する多神教の宗教を排除して、その次にキリスト教徒がユダヤ教徒を排除する。

そしてそのキリスト教による異教徒の排除と並行して描かれるのが、天文学者ヒュパティアの学者としての発見の物語だ。ヒュパティアは地球が太陽の周りを楕円形を描いて公転していることを、映画の最後で突き止める。

地球が太陽の周りを公転しているという事実を最初に言い出したのは、ヒュパティアよりも先の学者だったが、その公転の軌道が楕円形であることを発見したのはヒュパティアだった。映画の中で、ヒュパティアは砂の上に楕円の現在も書籍などで知られる描き方で楕円を描き、太陽の公転の軌道を示す。

地位的に見ると、ヒュパティアは上流階級の身分だ。オレステスも同じく上流階級だ。そしてダオスは前述したように奴隷だ。そしてキリスト教の勢力の拡大に乗じてダオスは奴隷の身分から解放されて、キリスト教の兵士のような役割に就くことになる。

ダオスはキリスト教の勢力拡大に乗じて、奴隷の身分から解放される。それはその他の奴隷にとってもそうだった。ローマの多神教の街を、キリスト教徒がのっとっていく。するとローマの多神教が理由になっていた社会上でのランク付けが、その力を弱めることになる。

ヒュパティアはローマの多神教の体制の下で、学者として生活をしていたので異教徒だ。オレステスキリスト教が勢力を拡大してくことによってキリスト教の洗礼を受けるが、元は異教徒であった。ダオスはキリスト教の勢力拡大に乗じる形でキリスト教徒になる。

宗教が社会的地位を決める。学者は宗教を越えて、社会的に優位な地位に立つと考えられる。しかしやがて時が来れば、キリスト教徒でないものは難癖をつけられて殺される。それがこのアレクサンドリアの在り方だった。

多くの神を信仰するローマの神と、一人の神を信仰するユダヤ教と、特にキリストを信仰するキリスト教徒では宗教的に対立してしまう。互いに互いを排除してしまう。多神教が気に入らない、ユダヤとキリストの神の信者たち。旧約聖書聖典とするユダヤ教徒と、新約聖書聖典とするキリスト教徒。その溝は、映画中深まっていく。

この溝は、歴史的な失敗だろう。誰もが信じるものを、自由に決めることができる。それが人を人として尊重する社会の在り方だ。その在り方に最後まで誠実なのはヒュパティアだ。ヒュパティアは人としての尊厳を誇示しながら死んでいく。しかし、それは悲劇でもあるのだが、だがヒュパティアの勝利でもある。

選択肢の広さ

映画「海を飛ぶ夢(原題:Mar Adentro,英題:The Sea Inside)」を観た。

この映画は2004年のスペイン映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の舞台は、スペインだ。この映画の主人公は若いころに海岸の浅瀬に飛び込んで首の骨を折って、四肢麻痺患者になったラモン・サンペドロという男性だ。ラモンには兄のホセと、兄の妻マヌエラ、2人の子供のハビ、そしてラモンとホセの父親がいて、ラモンの介護をしている。

ラモンは四肢麻痺患者となっていて、自らの死を望む人間だ。ラモンには自分の体が不自由になる前の20代そこそこの自由な記憶が残っていて、その記憶の鮮烈さが今のラモンの不自由さを強調している。

ラモンは、だから過去を思い出すのが苦痛だ。スペインの社会では尊厳死は違法となり、社会的モラルに反発するものであるから、ラモンが尊厳死を宣言すると世の中の話題となり、キリスト教の偉い人もラモンを説得するという事態が起きる。しかしラモンにとって尊厳死こそ希望を見出す未来だし、過去は前述したように忘れていた喜びを思い出させる苦痛だ。

ラモンを巡る女性が存在する。一人はフリアという女性弁護士で、自らも脳血管性痴呆という病気を患っている。もう一人はロサという女性で、子供が2人いて離婚をしていてマイナーなラジオ局のDJをしている女性だ。

2人の見た目が対照的なのが印象的だ。フリアは、白人で髪が金髪だ。それに対してロサは、黒髪に黒い瞳で体に力強さを感じさせる女性だ。フリアが、病気でほっそりとした体格をしているのとは対照的だ。

フリアは、ラモンのことを愛する。愛しているがゆえにラモンが口でペンを持って書いた詩を本にして出版した際には、出版する本のサンプルと致死性のある毒薬を持ってくるとラモンに誓う。それに対してロサは、ラモンに生きて欲しいという。ロサはラモンにテレビを通じて生きる力をもらって以来、ラモンに会うたびに生きる力をもらうからというのがその理由だ。しかし愛するがゆえにロサは、最終的にラモンの死に手を貸すが。

ラモンは首を折ったことにより、性的に不能になっている。ラモンが浅瀬に飛び込むと、ラモンが浅い水面を通り抜けて地面にぶつかる映像が、時折映画の中でインサートされる。それは、まるで女性器にうまく侵入できないインポテンツの性器のようでもある。そのシーンは、ラモンの不具を現わしているかのようだ。

ラモンは性的な喜びを奪われているが、それと同時に想像力を手に入れている。邦題の「海を飛ぶ夢」というのはラモンの想像力のことを、現わしている。海がラモンの部屋の窓からは見えないが、ラモンは想像力で海まで山を越え野を越え飛んでいく。想像力が、いったんラモンをベットから切り離すように映像化される。しかし、ラモンはその想像力とは対照的にベットから離れることができない。

なぜラモンは、映画の最中、死を考えることをやめないのか? それはラモンの人生で、体が自由な時が強烈に幸福だったからだろう。映画中にラモンの不能を現わしている海の映像がインサートされることからも、ラモンが肉体的な喜びを強く知っていて、それを求めていたのが暗示される。

ラモンの家族はラモンに死んで欲しくはないと思いながら、ラモンの死への旅立ちを涙ながらに見送る。ラモンの介護が生活の中心にあった家族にとって、ラモンの不在は強烈な印象を残しただろう。

ラモンの死はラモン自身を開放して、ラモンの家族を介護から解放した。そしてスペイン人に、死への解放を示した。ラモンは、自らの死を選択するという自由を手に入れた。そしてそれには、ラモンを引き留める力も働いた。そのバランスがこの映画を観やすいものにしているのだろう。

現実に目覚める

映画「オープン・ユア・アイズ(原題・スペイン語:Abre los ojos)(英題:Open Your Eyes)」を観た。

この映画は1997年のスペイン映画で、映画のジャンルはスリラー・覚醒モノといったところだろうか。この映画は2001年にアメリカで「ヴァニラ・スカイ(原題:Vanilla Sky)」というタイトルでリメイクされている。このリメイク版では主人公をトム・クルーズが、ヒロインをスペイン版と同じペネロペ・クルズが演じている。

この映画の舞台はある都市で、その都市に住むセサールというハンサムで金持ちの25歳の青年がこの映画の主人公だ。セサールはいわゆるモテる男で、車を3台持っているようなお金持ちのプレイボーイだ。

セサールは、一人の女性では満足することのできない男性だ。ある日、一晩を共にした女性ヌリアをぞんざいに扱う。その女性の車に乗ったセサールは、ヌリアの無理心中のような車の事故に遭遇して、ヌリアは死亡して、セサールは顔に重度の怪我を負う。

セサールは事故で醜くなった顔で、ヌリアを捨てて、入れ替え不可能な捨てることのできない、ヌリアを捨てる原因となった女性ソフィアに会いに行く。顔が醜くなったことにより自信を喪失しているセサールは、ソフィアに素直に名乗ることができずソフィアに当たり散らす。

酒におぼれたセサールは、泥酔して路上で寝てしまう。その後、なぜか冷たくしたソフィアが自分を受け入れてくれ事態は一変して、今度はセサールはどうでもいい女であるヌリアと、真実の女ソフィアの幻覚に悩むことになる。

真実の女=自分が本当に愛することのできる女=ソフィアと、どうしても愛することのできない女=どうでもいい女=ヌリアの区別がつかなくなっていく。つまりそれは、女性という存在を心から愛することのできないセサール自信を現わしている。

顔の怪我が手術により回復した幻想をみているセサールは、自信満々に女性をソフィアとして愛することができる。しかし、自分の顔が事故後の醜い顔に戻ったとたん、女性をヌリアとしてみるようになる。自分を肯定できないセサールは、女性を真実の存在として愛することができない。

映画中、セサールの幻覚は進み、何が現実で何が夢かわからない状態にセサールは陥っていく。しかしそれは、実はセサールが冷凍保存中にみた夢だったのだ。セサールは、冷凍保存をしてくれるL.E.という会社と契約をしていた。

冷凍保存された人間は、未来の科学で再び生き返ることができる。その未来の科学技術では、傷ついたセサールの顔を直すこともできる。2145年の未来にセサールはL.E.のデュペルノワという男性に、今見ているのは夢だから起きるように促される。その生き返りは、夢の世界での死という形をとる。

セサールの生き返る未来には、当然ソフィアは生きていない。セサールは夢の中で現実に起こったことと、想像された夢をみている。現実は、セサールがソフィアに拒否されて泥酔して自殺した時点で終わっている。その後の続きは冷凍保存中のセサールの幻想で、2145年の未来にソフィアが生きているという保証はない。多分、ソフィアが生きているということはないだろう。なぜなら、冷凍保存は金持ちだけが受けられる処置だったのだから。

ソフィアのいない未来に、企業のイメージがセサールに現実を生きるように促す。最愛の人がいない未来でセサールは蘇るのか? その現実とは、企業に支配された現実なのだろう。それは、過去も未来も同じことだ。セサールは、現実となった未来を企業の支配下で生きるのだろうか? セサールは、セサールを夢から起こした企業の人物の支配下で生きることになるのか? その未来がもしあるのならば、それはこの映画の続編になるのだろう。

企業の作り出したイメージの中で生きているのは、セサールも私たちも同じことかもしれない。第3世界を搾取して、作り上げあられた現実を、安全なものに加工処理するのが、企業だ。

セサールは企業の作り出したイメージの中で、”夢の女”であるソフィアを愛した。真実の愛は、実は“夢”だった。企業が作り出したイメージの中で、それに沿ってセサールはソフィアを愛した。夢の女であるソフィアがいなくなり、セサールには、企業が作り出す虚構から抜け出す機会が与えられる。

それは、セサールが冷凍保存中に見た夢の苦悩の成果が、生かされるかどうかの分水嶺だ。夢の女がいなくなった世界で、セサールは企業の作り出すイメージ=夢から脱して、真に真実の生き方をするのか? それともまたソフィアを探すのか? それがこの映画の核心だ。

もちろん、セサールがソフィアを探すのならば、それはセサールの企業に対する敗北だろう。

底抜けの前向きさ

映画「ビルとテッドの地獄旅行(原題:Bill & Ted’s Bogus Journey)」を観た。

この映画は1991年のアメリカ映画で、映画のジャンルはSFコメディだ。

この映画は、1989年の「ビルとテッドの大冒険(原題:Bill & Ted’s Excellent Adventure)」の続編で、2020年の「ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!(原題:Bill & Ted Face the Music)」の前に公開されている。

このビルとテッドシリーズでは、ビルとテッドが公衆電話の形をした電話ボックスでタイムトラベルをするというのが基本のベースになっている。「大冒険」でも「地獄旅行」でも「時空旅行」でも、公衆電話型のタイムマシーンが登場する。

そしてこれらの映画のすべてに共通するのは、ビルとテッドの馬鹿ぶりだ。「地獄に落ちたらメガデスのレコードやるよ」「ここ地獄だろ」「あそっか。じゃあやるよ」。何なのだろうか? いったいこれは?

ビルとテッドは底抜けに馬鹿なのだが、2人は底抜けに前向きだ。「地獄旅行」では、ビルとテッドは自分たちと同じ姿かたちの未来の反乱者でダーズベイダーの服みたいなのを着たデ・ノロモスに作られたロボットに殺されてしまう。

自分たちの体から幽体離脱したビルとテッドは、その状況に落ち込んでしまう時間というのが短い。未来からの使者という非現実的な者を受け入れるのも早かったが、自分たちの死という越えられないはずの現実を越えようとする。

「死んでしまったみたいだな」「よしじゃあ生き返らせてもらおう」。ビルとテッドは前向きにことに向き合う。ビルとテッドには深い思考というものがないから、物事を固定観念に縛られて思考することがない。それがビルとテッドの強みになっている。

ビルとテッドはラストシーンは、ステージの上で展開するというのがお決まりになっている。「大冒険」でも「地獄旅行」でも「時空旅行」でもそれは変わらない。ビルとテッドは、未来にロックで世界を救うというのがこの映画の前提だ。だからステージはこの映画では外せない。

ステージで演奏されるのは、ビルとテッドが好きなメタル音楽だ。ビルとテッドは、ギターを抱えて早引きのギタープレイを披露する。「大冒険」ではまだプレイは下手だが、「地獄旅行」ではトレーニングをしたということになっている。

しかしだ。痛快なギタープレイの音声とビルとテッドの手と指の動きは合っていない。しかしビルとテッドの体の動きは激しく、音声と体の動きの激しさ、そして合わない手と指の動きが観るものをなんだかわけのわからないが楽しい気分にさせる。

ビルとテッドは「エクソシスト」や「スター・ウォーズ」や「ターミネーター2」からの引用のセリフやシーンが観られる。お馬鹿なビルとテッドが、馬鹿なことを言いながら、非常にまじめな映画の引用をすると、その元ネタとなった映画の馬鹿さが浮き上がる。

ビルとテッドは観るものを笑いと脱力の世界に導く。そこには、底抜けの愉快さが実はある。“世界を救う”という大真面目さが、ビルとテッドにより骨抜きになりつつも、こんな人物なら世界を救えるかもしれないと思わせるアンビバレンツさがこの映画にはある。