新聞社は反権力

映画「女ざかり」を観た。

この映画は1994年の日本映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の主人公は、南弓子という女性新聞記者であり母である女性だ。弓子には別れた夫との間に2人の娘がいて、そのうちの1人の娘と同居している。また弓子は、大学の教授と不倫関係にある。

この映画は、弓子が新日報という新聞社の家庭部から論説委員に転属になったところから始まる。弓子と同時に、浦野という社会部に所属していた男も論説委員になる。この浦野という男は、現場で記事を書くのが得意だが、デスクで記事を書くのがとても苦手な男だ。

浦野は、弓子に記事を書くのを手伝ってもらう。記事の雑な下書きを、浦野は弓子に記事にしてもらう。結果、浦野の記事は掲載されることになる。

手書きで記事を書く浦野と対照的に、弓子はワープロで文書を書く。論説の記事を書くことをすすめられて、弓子は家庭部にいた頃の記憶を踏まえながら記事を書く。その記事は、他の新聞社内の人間に言わせるとフェミニズムだと言われ、否定的なニュアンスでとらえられる。なんせ新聞社は、男ばかりの世界だったからだ。

この映画は、この弓子が書いた論説が問題を起こし、その問題を追うことで、映画は進んで行く。弓子の書いた記事が原因で、新日報社の新社屋の建築の話が飛んでしまう。それはなぜなのか? それが、この映画の表面上の中心だ。

では、この映画の裏の中心は何か?それは裏というよりは表に出てきているが、ここでは裏の中心とする。その裏の中心とは、性欲だ。フロイトの言葉を使えば、リビドー。他人と触れ合いたい欲求、またはセックスしたい欲求だ。

弓子の不倫相手の大学教授は、弓子とセックスするためにホテルに、妻に内緒でしけこむ。浦野は弓子に優しくされて、弓子のことが好きになり、その気持ちが忘れられず、海岸に「きみとやりたい」と書き記す。

その他にも、政界の重要人物が登場するが、その人物たちももちろんリビドーに関する登場をする。この映画に登場する人物は、映画の外の世界のように、誰もかれもが体の中に抑えようのないリビドーを抱えている。

そして、そのリビドーの衝動を解放することで、新日報に起こった新社屋建築の無効の出来事は解決され、新日報への政治的圧力は消える。

弓子は言う。「日本の新聞社は西欧の新聞社と同じように権力と闘うのが重要であるのだと思っていて、日本にもそれが当てはまると思っていました。でも現実は違うみたいです」と。

弓子は、崇高な理想を追う新聞記者であることは、この発言からもよく読み取ることができる。そしてこの精神こそ、新聞記者の持つ専門的な知識、政治や哲学や宗教やフェミニズムの知識を生かすのにとても重要なものなのだ。

政治的しがらみで、良い記事が書けなくなる。弓子の書いた記事は、水子供養について取り上げた記事で、それが宗教団体の逆鱗に触れて、新聞社に圧力がかかる。その中で、弓子は論説を書く立場を失ってしまう。

映画中、弓子はおっとりとした人物として描かれる。どんな説得力のあるセリフを言っても、弓子を演じる吉永小百合の大衆に流布したイメージが、弓子の信念のある人物という面を押し隠しているようでもある。

だがしかし、この映画を観れば、弓子の信念が、弓子を演じる吉永小百合の清楚で少しおっとりとしたセリフ回しの中から感じることができる。そしてその信念こそが、新聞社の男たちが失ってしまった、大切な新聞社の精神だ。