企業と結び付いて、中立性を失った国

映画「キャット・バルー(原題:Cat Ballou)」を観た。

この映画は1965年のアメリカ映画で、19世紀末のアメリカで起こる、ある親子の間に起こる悲劇をコメディ・タッチで描いた映画である。

ワイオミング州のウルフ・シティにはキャサリン・バルーの父であるフランキー・バルーが住んでいた。物語はフランキーの元に教師となったキャサリンが帰って来る所から(時間設定は)始まる。

ウルフ・シティにはH・パーシバルという人物が社長を務める開発会社が開発に侵出しており、キャサリンの父フランキーは、開発会社との間で問題(土地を渡すか渡さないかと思われる)を起こしていた。

アメリカというのは西欧人たちがアメリカ・インディオから奪った土地であるが、その土地をまた奪うという事態が起きていた。インディオを虐殺して奪った土地を持つアメリカ白人が、また別のアメリカ白人に土地を奪われる。

アメリカは略奪の地であるようにこの映画を観ていると再確認できる。

キャサリンの父フランキーはH・パーシバルの開発会社の手先により殺されることになり、キャサリンはこの映画の最後に父の仇を打つことになる。

つまりこの映画は復讐劇が描かれている。

しかし、この映画は復讐というおどろおどろしい部分があまり見られない。それはこの映画がコメディ・タッチで描かれているからである。

残酷なストーリーを滑稽に描く。これがこの映画の面白い部分である。

キャサリンは教師となったことからも現れている通り文字がしっかりと読める教養を持った人物である。では何故キャサリンがH・パーシバルを殺すことになったのか?それはキャサリンの代わりに開発会社が犯した罪を裁く機能が停止したからである。

通常非人道的なことをすれば、国民の権利を守るべく、国民が作り上げた国の機関が動いて事を常軌に戻すであろう。そしてそこで損失を受けた者の感情も回復される。

しかし、この映画の中では国が果たすべき行いを国が果たそうとしない。国は人と人との間の中立にあることができずに、力のあるものの見方となる。ここで弱者の権利は踏みにじられるのである。

キャサリンの訴えにも保安官は耳を貸さない。キャサリンは相手の罪を訴えるが国はそれを聞き入れない。ナレーションする歌手(片方はナット・キング・コール!!)の歌うように、キャサリンは国に血を流させることになるのである。その原因は、しかし国の方にあるのだが。