スーパーリッチのための統治の道具としての警察権力

映画「パワー 警察権力の本質を問う(原題:Power/Watch Power)」を観た。

この映画は2024年のネットフリックス映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画は、アメリカ合衆国で今現在起こっているアメリカ警察の暴力の暴走を告発する映画であり、そのアメリカ警察の暴力は一部の白人と富裕者のために利用されていることが示される映画だ。

ただし、一部の白人と富裕層について、わざと避けて話す論者もこの映画の中にはいる。だが、一部の白人と富裕層が警察の暴力と権力を利用していることを、話す論者もいる。一部の白人と富裕層が、特権を持っている存在であることがここからわかる。

一部の白人と富裕層が、この映画のタイトルになっているパワーの正体だ。ただ、この映画は警察権力の暴力について描いたものだ。つまり警察権力の暴力を暴くことにより、警察権力を利用して支配する一部の白人と富裕層の残虐さを暴く構造にこの映画はなっている。

アメリカ警察の起源には、植民地統治のための暴力、黒人奴隷制維持のための暴力、アメリカ先住民の土地とアメリカ先住民を侵略するための暴力、労働者のストライキを止めるための暴力などが上げられる。

つまり、アメリカの警察というのは、支配者のための暴力装置だということだ。被支配者の抵抗に対しては、瞬時に暴力を使って対応する、というのが、警察権力の存在意義だ。平時は、街の治安を守っているように偽装しているのが、アメリカ警察だ。

日本の警察は、アメリカ警察ほど悪い評判は聞かない。ただ、植民地の支配に警察権力が使われたということだから、日本の警察は、アメリカの統治下における日本がアメリカの植民地だった頃の名残りを残しているのかもしれない。

日本の警察の存在意義も、アメリカの警察の存在意義と変わらず、一部の白人と富裕層のためにあると考えて合点がいく。日本の警察が右翼を警備して守るのは、一部の白人と富裕層のご機嫌をとる自民党の支持者が右翼だからだろう。

アメリカには、権力の肥大を嫌う伝統的な思考があり、アボリッショニスト=廃止論者の運動がある。例えば、民間経営されて悲惨な奴隷収容所と化しているアメリカの刑務所をなくせとか、さっきから問題になっているアメリカ警察の廃止を求める運動もある。

アボリッショニズムについての本も複数出ていて、アメリカではアボリッショニストは日本よりはメジャーな存在だ。日本で、日本の警察を廃止しろという声は聞いたことがない。日本の警察権力はアメリカほど暴力的でないと同時に、アメリカには権力の肥大を嫌う伝統的な思考があるから、日本では警察を廃止しろ、という運動は起こらないのだろう。

実際筆者も、交通事故に遭遇した時に、警察の対応は非常に丁寧で親切なものだった。日本の警察は物腰が低いなぁと感じた。日本の警察の、外国人への対応はどうなっているのだろうか? それは気になるところだ。

日本の警察は、アメリカの警察の下位の部分だと考えることができる。つまり、一部の白人と富裕層に仕えるアメリカ警察の下に、日本の警察があると考えることができる。にしては、日本の警察は市民に優しい。日本の警察には、アメリカに植民地支配された、という被害者意識を、市民と共有しいている節があるのかもしれないと考えるのは、考え過ぎだろうか?

ところで、残虐なアメリカ警察を統治の道具にする、一部の白人と富裕層とは誰のことだろう? それは、フォーブスの長者番付に載るような人たちだと考えることができる。ちょっと昔だと、ジェフ・ベゾスなんかが、世界で一番リッチな人だった。今は、イーロン・マスクだろうか?

簡単に単純化して述べると、ジェフ・ベソスやイーロン・マスクなどの一部の白人と富裕層の支配の道具であるのが、アメリカ警察であるということだ。つまり、アメリカ警察はスーパーリッチの支配のための道具と化している。

誰が世界を支配しているのか? というようなタイトルの本が、ノーム・チョムスキーの本にある。それは、もうこの文章では明らかだ。世界を支配しているのは、スーパーリッチだ。で誰が世界を支配すべきか? という風に問いを変えるとする。

この答えを示すのも簡単だ。世界を支配すべきなのは、誰でもない。世界は支配者のいない調和に置かれるべきであって、そこでは支配者は存在せず、誰もが誰もを尊重する、それが理想的な世界の姿だ。

アメリカの憲法は、アメリカ国民のためにある。そしてその憲法の下位にある、法律がアメリカ警察が暴力を使うことを正当化している。つまり、この法律は、アメリカの一部の白人と富裕層のためにあるもので、アメリカ国民のためには存在しない。そのことが、映画のラストで示される。つまり、法律を改めることが、アメリカの警察の暴力の廃止の策としてあげられる。

スーパーリッチ→アメリカ警察→アメリカ国民という図式がある。スーパーリッチが自らの支配を確立するために労働者であるアメリカ国民を使い、その監視統制の実効支配をするのが警察だ。

警察には、一体どんな人が成るのだろう? 「私はイーロン・マスクの帝国を守るために、警察官になりました」と言う人は、アメリカ警察の中に何人いるのだろうか? 「私は銃社会アメリカの治安を守るために警察になりました」と言う人もいるかもしれないが、じゃあ銃規制すればいいじゃない? と思ってしまうのが率直な意見だ。

この映画では、アメリカの銃規制については触れられない。銃規制が犯罪解決の根本点をついていないからかもしれないが、どうしてもここにアメリカ国民の銃に対する認識の甘さを見てしまう。銃がなければ、人は銃で殺されないは自明の理だ。

警察には、一体どんな人がなるのか? それは、警察が必要悪だと考える人がなるのか? それとも警察を正義の絶対的存在だと信じている人がなるのか? 警察になる人がいなくなれば、警察権力の暴走も止まる。

スーパーリッチが世界を支配して、警察権力が統治のための道具として使われる。それがこの映画ではちらりとしか描かれない問題の本質だ。そして、日常を惰性で生きている人が、この問題の本質を維持している。

国民全員が一斉にデモをしたら。警察も軍隊も含めて全員が、同時にデモをする。食料の長期供給もデモが作り出す、そんな現実が存在したら? それは、きっと理想的で素晴らしい世界に違いない。

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