奪うことと、許すこと与えること

映画「バット・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト(原題:Bad Lieutenant)」を観た。

この映画は1992年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画の主人公は、クレジットの表記では、LTとなっている。これはきっと、原題にあるBad LieutenantのLieutenantの略ではないかと思われる。ちなみに英語を日本語に訳すと、Badは「悪い」でLieutenantは「位の高い警察」のことだ。

この映画で描かれるのは、悪い警官のLTとキリスト教の対立だ。簡単に言えば、LTは奪う男であり、キリスト教徒は許し与える存在だ。また、LTは、罪深い人間として描かれる。

LTの罪とは、野球賭博の罪、姦淫の罪、不倫、違法なドラッグ、死体に対する不敬、過度な飲酒などだ。LTは野球賭博で借金を作っており、その借金を返すために、さらに大きな賭けに出る。最後には、賭博関係の人間に命を狙われるまでになる。

姦淫の罪に関しては、明確に描かれる対比がある。それは、LT自身が姦淫の罪を犯すこと、つまりニュージャージーから、ニュー・ヨークに遊びに来ている2人組の女性を無理やりマスターベーションのネタにして、オナニーをすること。

それと対比されるのが、教会で、キリスト教学校の生徒にレイプされた尼が、そのレイプを許すところだ。この尼を犯して、女性器に十字架を突き刺した2人組の生徒は、LTと重なることになる。

映画の進行と同時に、LTの野球賭博での借金は大きくなっていく。それが、映画のオチと繋がる。最終的に、LTは野球賭博の借金で首が回らなくなり、命を狙われるようになる。そして、最終的にLTは借金を、尼をレイプした犯人を捕まえてもらえる懸賞金で返そうとする。

LTは奪う男と書いたが、それは現実の社会をアメリカン・ドリームに従って生きる人という意味と等価だと思われる。つまり、アメリカン・ドリームの世界とは奪い奪われる世界だ。夢のために他人の者/物を奪う。それがアメリカン・ドリームの世界だ。

映画「アリゾナ・ドリーム」は、アメリカン・ドリームについて描かれた映画だった。銅採鉱の会社の経営者が、アメリカン・ドリームを実現するために、環境や人間を破壊する。そして、経営者自身も精神的におかしくなっていく。

映画「バッド・ルーテナント」のLTも精神的におかしくなっている。ニュー・ヨークで奪い奪われながら生きる人たちの中で、起こる犯罪を見ていて、もしくはスイート・ホームを手に入れるために、LTはストレスを感じていて、そこから逃れるためにドラッグを服用する。

LTは罪深いが、同時に奪い奪われる社会の被害者の1人でもあるということができる。アメリカン・ドリームを求める野心溢れる人たちの群れる場所であるニュー・ヨークで、LTは自身もアメリカン・ドリームを手に入れつつもおかしくなっている。

そのアメリカン・ドリームを求める人たちと対比して描かれるのが、キリスト教徒の尼だ。キリスト教の教会や、そこにいる尼は、どこか異世界の人のように映画に映し出される。教会の古めかしい様式。尼のクローズアップの幻想的な美しさ。

明らかに、現実のニュー・ヨークの世界と、尼の生きるキリスト教の世界は、対比的に描かれている。ニュー・ヨークの街は奪い奪われる世界。キリスト教の世界は、許しと施しの世界。主人公のLTは、ニュー・ヨークの強奪の世界を生きる男だ。

この映画では、尼が犯されるシーンが描かれる。その時に、キリストの像が叫び声をあげる。つまり、尼がセックスをすることは罪であり、尼に対するセックスは強姦ではなくでも常に罪だ。

そして、尼は自分のリビドーを、キリストへの愛として昇華する。つまり、尼は実はキリストと疑似的セックスをしていることになる。セックスのないセックスをしているのが尼であり、尼のように生きようとして失敗した女性が描かれるのが、映画「ポゼッション」だった。

映画「ポゼッション」では、性的不満を抱えた女性が、キリストの像を見ながらマスターベーションするシーンがある。その時、この女性はこういう。「私は悪の方に堕ちた」と。つまり、マスターベーションをする時に精神に起こる姦淫の罪を、映画「ポゼッション」の女性は認めたことになる。そして、映画「バット・ルーテナント」に登場する尼は、悪の方に堕ちなかった女性だということができる。

映画「ポゼッション」の主婦は、リビドーの昇華に失敗するが、映画「バッド・ルーテナント」の尼は、リビドーの昇華を成功させていると考えることができる。映画「ポゼッション」の主婦は、性欲の世界に溺れることになり、それを目撃した夫は女性の性欲に気付き、女性を恐れる。

リビドーの昇華に成功することは、得難いことだ。それを成功させている尼は、一般のセックスして生きている人から見ると、崇高な存在に映る。それは、一般人に、セックスに関することが罪だと映っているからだ。

キリスト教的価値観が入ってくる前、日本は性的に奔放な場所だった。それが、明治時代に近代化が起こると同時に、だんだん、キリスト教的な規範が現代人に根付くようになった。昭和にも性的に奔放さが残っていた。日本の性的奔放さは、山本常一の日本の風俗の聴き取り調査でもわかる。

ただ、性的奔放さは尊敬の的にはならない。性欲は、一夫一妻制にとって不都合だからだ。一人の人以外に性欲が沸くのは普通だが、それを実行すると、配偶者の嫉妬を招き、一夫一妻の家父長制という支配体制を壊してしまう。だから、性的奔放さは疎んじられる。

一夫一妻の持つ所有という観念が崩れることも疎んじられる。所有は、既得権益層の地位を支える基本観念の1つだからだ。だから、夫や妻は嫉妬しなければ都合が悪い。嫉妬は、所有がもたらす、権益維持に必要な観念だ。嫉妬があるから、人は他人と競争して、スーパーリッチが優位に立てる現在の格差のある社会ができあがる。

だが、キリスト教的価値観が浸透した現在社会に生きている人たちも、本質的には性的に奔放だとも考えられる。だから、家父長制は常に強く、浮気を悪いものとしてイメージ付けようとする。浮気による、愛の贈与が起こり、結婚制度が解消されると、家を中心として成り立つ国家体制が崩れるからだ。

国家の成員の子がヒッピーだったらどうなるだろうか? 好き放題セックスをしてたくさんの子供ができ、家の資産は細かく分散され、いくら家長が財産を抱え威張っていても、財産は失われ、既得権益層も自身の権力を落としてしまうだろう。

結局、家父長制の一夫一妻制は、既得権益の権力保持、財でしか力を保持できない哀れな既得権益の現実を温存するためにある。「みんなヒッピーでフリー・セックス」とは、既得権益を脅かす、既得権益に対する恐怖なのだ。

尼の崇高さは、既得権の権益維持に利用される。ただ、それは、尼の昇華の縮小版としてだが。なぜなら、社会の成員が子供を生むのをやめてしまったら、それは既得権益層にとっての痛手だからだ。つまり、子供を生まない尼は、ヒッピーと同様に、既得権益層にとっては恐怖だ。この点で、この映画「バッド・ルーテナント」の尼の崇高さは、犯人を見つけようとする教会の神父を超えている。

バッド・ルーテナントは、つまりLTは、一種の小さな既得権益層で、それが尼の存在によって、自らの存在を悔い改め、大きな既得権益に貢献する小さな既得権益層からLT自身が脱していく、というのがこの映画「バット・ルーテナント」だ。

バット・ルーテナント 3m28s ルーテナントと息子たち Cinefil

バット・ルーテナント 41m6s レイプされた尼 Cinefil