真実を語る

映画「ハーフ・オブ・イット 面白いのはこれから(原題:Half of It)」を観た。

この映画は2020年のアメリカ映画で、映画のジャンルはロマンティック・コメディだ。

この映画には主に3人のメインの登場人物がいる。エリー・チュウとポールとアスターがそのメインの登場人物だ。

エリーは中国系のクイアの女の子だ。エリーの母親はエリーが幼い頃に死んで、駅の関係の仕事をしている父親とエリーは暮らしている。その父親は英語が不得意でそのせいで移住先のアメリカで希望のエンジニア系の仕事に就くことができなかった。

エリーは毎日、自転車で学校に通っている。同年代の学生は車に乗って通学してくる中で。エリーの父親は高給の仕事に就いているわけではない。だからエリーの家は電気代の支払いが遅れて電気代を止められそうになっている。

そんな貧困の中で、エリーは少しもめげていない。エリーは同級生のエッセイの宿題を代筆して生活費を稼いでる。一つのエッセイにつき20ドルから25ドルの代金をとって。電気代もこの方法で支払うことになる。

エリーの家の電気代の支払いの収入源になるのが、ポールからの仕事だ。ポールは体育会系の男子で英語には弱いが、気のいい青年だ。電気代の支払いに困ったエリーは、ポールからの仕事を渋々受け入れる。

なぜ渋々なのか?それは、ポールの依頼が原因だ。ポールはアスターという学校の中のイケてる女の子に恋をしていた。アスターを好きだったのはポールだけではない。エリーもアスターが好きだった。それをエリーは周囲に告白できない。

エリーの住んでいるのはアメリカのコテコテの白人社会の田舎の街だ。その保守的な風土の中でカミングアウトすることは簡単なことではない。ただでさえ中国系という点で疎外感を抱いているエリーだ。カミングアウトは無理だ。

ポールはそんなエリーにラブレターの代筆を頼んできた。ポールは英語が苦手なので、エリーにアスターへのラブレターの代筆を頼んできたのだ。エリー渋々ラブレターを書くのだが、その代筆業はずるずると続いてしまうことになる。

映画中、アスターの父はプロテスタント系の教会の牧師であることが明らかになる。アスターは神に常に問いかける女性だ。真実を内に秘めて。アスターには学校の人気者の彼氏がいたが、そこにポールからの手紙が来る。

アスターはポールの手紙の内容をいたく気に入って、メールのやり取りをするようになる。もちろんアスターの手紙とメールの相手はエリーだ。エリーは代筆で、自分のアスターへの気持ちを表現していた。しかし、その手紙やメールは偽りなのだが。

アスターへの手紙とメールは詐欺だ。相手を欺いてポールとエリーはアスターと交流している。明らかにラブレターの代筆は悪質だ。なぜなら、ラブレターとは赤裸々な内心の告白であり、その行為には大きな代償が支払われるからだ。

ラブレターの大きな代償とは真実の告白だ。人には自分の内面を隠して生きる人もいる。アスターは内心では、イケてるグループを疎んじていて、そのグループに対して好感を持っていない。

そのアスターの内心が周囲にばれてしまったら、アスター島国根性の田舎でのけ者にされるだろう。アスターが本当の気持ちを書くことには代償が伴うというのはそういうことだ。エリーとポールはアスターを罠にはめている。

この映画では、プラトンサルトルカミュオスカー・ワイルドなどの文学者や、ヴィム・ヴェンダースやヘップ・バーンやフィラデルフィア物語のような映画監督や映画俳優そして映画作品への言及がされる。

それはアスターが文学的な女性だという設定によるものだが、その中でもサルトルの言葉が良く響く。それは「地獄とは他人のことだ」という、「出口なし」という戯曲の一節だ。まさにアスターやエリーに当てはまることだ。そして、ポールにも。

恋人を見つけるとは、人生の真実を語ることができる相手を見つけることだとこの映画は語っているようだ。他人が地獄ならば恋人は他人ではないというわけだ。だからこの映画のラブレターの代筆は重く響く。

人は真実を語りたがる。それはエリーの父親もそうだ。エリーの父親は語学力が原因で仕事の採用に失敗した。エリーの父は愛する妻を失い、職場も断たれ、自分自身というものを表現する機会を奪い取られた人間だ。

エリーの父は、真実の告白をはく奪された人間だと言っていいかもしれない。そんなエリーの父の心のよりどころはエリーだ。真実をすべて話せるわけではないかもしれないが、エリーは父の心の支えだ。

果たして人はどこまで真実を話すことができるのだろうか?黒澤明監督の映画「羅生門」のように、真実とは人の数だけあるのかもしれない。真実は何かと特定することは実は難しいのかもしれない。

恋人は真実を話せるという思いを、ただの思い込みの一種としてしまうこともできる。真実を語るロマンスと、ロマンスを語る手紙やメール自体が詐欺だという映画の中の真実。

ロマンスを利用した信用詐欺それがこの映画の大体の流れだろう。しかし、その詐欺行為の中で、アスターを傷つけた代償としてエリーとポールは大切なものを得る。それは真実を語るべきだという純然たる事実だ。真実が人の数だけあるとしても。

自分がそれを愛している、好きだと思ったら、もしそこに行為の公共的利益があるのならば、その気持ちを曲げてはいけない。エリーのカミングアウトは、それに続く人たちを勇気づけるのだから。真実は人の数だけあるのだから。