パンクとマスコミの一部としての映画

映画「The Punk Rock Movie」を観た。

この映画は1978年のイギリス映画で、1977年にイギリスのロンドンで起こったパンク・ムーヴメントを当時のパンク・バンドたちのライブ映像をメインとして描いた映画だ。

この映画のほとんどはパンク・バンドの演奏で、時折その合間にパンクのファッションや、パンクスと警官との関わりや、パンクの病的ともとられるような部分が挟み込まれている。

この映画のDVDには特典としてジョニー・ロットンのインタビュー映像がある。そこでジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)ははっきりとこう述べている。「パンクのイメージはマスコミが作ったものだ」と。

この映画もその例外ではない。パンクのファッションや、病的に見える部分、そしてパンクと警官との関わりの描き方はこの映画でも用いられている手法だ。逆モヒカンに、安全ピンのピアスに、リストカットに、縦ノリの観客、ブタの頭をナイフで切り刻むイーター(Eater)というバンドのメンバー、レコード・プレーヤーらしきものを壊すジョニー・ロットン

この映画でも見事にパンクのイメージが作り出されている。いくらパンク・ロックのメンバーと親しい間柄だった監督だったとはいえ、当時のパンクたちから発せられたエネルギーとその現象へのマスコミの反応は、監督もろとも包み込んでしまっている。

もしかしたらマスコミは時代の刻印そのものになっているのかもしれない。時代という得体の知れない、しかし一定の傾向を持っているものは、マスコミの外にあるのか?それともマスコミの内にあるのか?

ただここで言えるのは、マスコミは一部分であるということだ。都市部から発信される情報がすべてではない。文字にならない電波にのらない情報もある。

しかし、20世紀そして21世紀も今のところマスコミの時代だ。プロバカンダが世界中にまき散らされている。そんな感じだ。

新聞やテレビやインターネットを通じて、世界中に情報が発信される。その情報に唯一の正解などない。様々な取材源とその媒体の分だけ情報の種類があるはずだ。いや、あっていいはずだ。

余りに一方向的な情報はすでにプロバカンダ的だ。情報は多様でいい。そして多様な情報が溢れかえっていてもいい。要はそれを選択する人がどのような人であるかなのだから。

といってもパンクのイメージのようにこの世界の情報は分かり易い状態にパッケージされてしまうのが常だ。情報の統制者とやらがいて、その統制者の都合により情報がポップ・ソングのようにキャッチ―なものにパッケージ化されてしまう。

ならばできることと言えば、各自がパッケージを溶解し再構成する方法をもつことではないか?