世間体への挑戦

映画「水のないプール」を観た。

この映画は1982年の日本映画で、エロティックな犯罪映画だ。

エロティックな犯罪映画といって連想されるのは、ハニー・トラップを仕掛ける女スパイという図式なのかもしれない。しかし、この映画で描かれるのは、人を眠らせることのできる薬品を使って、女性を眠らせその女性をレイプする地下鉄職員だ。

つまり女スパイのハニー・トラップと違い、この映画の中には、合意によるセックスは描かれない。少なくともこの映画の中でセックスする2人の同意を描いたシーンはどこにもない。眠らされる女性はただ犯されるままであり、犯す方は当然犯す者でしかない。

この映画の主人公は、感情を持たない女性のレイプを繰り返すことになる。言うまでもなくレイプは犯罪で、人を傷つけるものだ。精神的にも肉体的にも。

この映画の監督である若松孝二は、若松孝二の主宰していた若松プロダクションについての映画「止められるか、俺たちを」の中でこう言う。「映画の中では何したっていいんだ!!人を殺してもいい!!!」と。

このセリフを通して「水のないプール」という映画を見直すとこうなる。「映画の中では何したっていいんだ。レイプしてもいい」と。つまり、「水のないプール」をただのレイプが出て来る品の悪い映画と言ってしまうこともできるが、この映画はそれにあえて挑んでいるのだ。

実際の犯罪と、映画という作品との違いがここで明確になる。映画はプロバカンダの手段として使われることがあるという。プロバカンダとはいってみれば教化、洗脳のことだ。「水のないプール」をプロバカンダとして観て、この映画は犯罪を正当化しているようだ!!と息を荒げることも可能だろう。

しかし、この「水のないプール」はプロバカンダ映画としてよりも作品という一つのものの開放性を描いたものだといえる。

又、この映画を観ていると世間が要求するセックスへのプロセスの否定として観ることが可能だと思わせる。最後のネリカのセリフは、この見方を強調することになるかもしれない。

私たちの関係は世間体で見るとただの犯罪だと。しかし世間体がもしなかったとしたら、私たちはそこまでセックスへの段階にこだわるだろうかと。

ただこれはレイプの正当化ではない。あくまでも世間への挑戦だ。

この映画の制作者たちは世間に対して挑戦をしている。その挑戦は世間の人たちの持つ倫理や道徳を支持しながらも、それらに疑問を投げかける。当事者間の意見と世間の意見。その両者は複雑に絡み合っているというのが実際の在り方なのかもしれない。