お金はどこまで必要か

映画「クレイジー・リッチ!(原題:Crazy Rich Asians,中国語:摘金奇縁)」を観た。

この映画は2018年のアメリカ映画で、ロマンティック・コメディ映画だ。この映画の主人公はレイチェル・チュウという経済学の教授で、レイチェルはニコラス・ヤンという男性と付き合っている。

レイチェル・チュウは母子家庭で育った女性で、知的ではあるが金銭的にずば抜けてリッチというわけではない。教授なのである程度成功してると言えるが。中国からお腹の中にレイチェルを宿してアメリカに来た母は、裸一貫からアメリカで小さな成功を手にした女性だ。

これに対して彼氏のニコラス・ヤンの家はシンガポールに住む大富豪で、小さな成功者であるレイチェルの母とヤンの母とでは持っている額に大きな差がある。

シンガポールという国はお金持ちが住む街なのだが、その生活ぶりは桁外れだ。大きな家、何棟もマンションを持っていて、高級車を乗り回し、移動する飛行機はファースト・クラスでリクライニングのソファのようなものにベッドまで付いている。シンガポールはお金持ちが住む街だ。

この映画は知的だけどちょっとだけリッチなレイチェルが、超ド級の金持ちであるニコラス・ヤンという玉の輿を捕まえると言う内容だ。

当然のようにこの映画にも枷があって、その枷とはアメリカ的な個人の情熱を追うレイチェルを受け入れない、中国的な家族を重んじるヤンの母の存在のことだ。

それにしてもなぜ人はこのような映画を好むのだろう?なぜそこまでもお金を求めるのか?それは簡単である。労働していくら稼いでも貯金できないような実生活の存在があるからだ。

人は不労所得を得ることに憧れる。そしてその時その良し悪しは問われない。問われたとしても、「お金は生きることを保障してくれる」位で、お金の存在の良し悪しの問いは終わってしまうだろう。

なぜお金がないと生活できないような状態に陥っているのかを人は問おうとしない。それでは人はお金による階級にまつわる羨望や嫉妬、裏切りなどを認めていることになってしまう。

なぜ貧しい人に物が行かずに、金持ちの方へ者が集まる仕組みを受け入れてしまうのか?人はなぜ金持ちやスターのようなゴールを仕立て上げてそれに追随してくのか?このような疑問がふつふつと沸き起こってくる。

なぜ貧しい者までもが金持ちを夢見るのか?お金に執着する人などほっておいて、自分たちで自足的な生活を生み出そうとなぜ人はしないのか?それは、つまりお金は本当に必要なのか?