愛情が2人を傷つける

映画「マリッジ・ストーリー(原題:Marriage Story)」を観た。

この映画は2019年のネットフリックス映画で、映画のジャンルはドラマだ。

この映画は、ニコールとチャーリーという夫婦が別れるまでの物語だ。

ニコールとチャーリーには、ヘンリーという男の子の子供がいる。ヘンリーはまだ難しい単語は読めないが、ボードゲームを家族と一緒に楽しむことのできるくらいの理解力は備わっているぐらいの年齢の男の子だ。

このヘンリーの親権争いが、この映画の離婚の調停・裁判の中心的問題になっている。ヘンリーの親権が欲しくて、この夫婦の離婚劇は悲惨なものになる。序盤は笑いが所々に見られる映画だが、後半は離婚の痛々しさが際立つ映画となる。

ニコールは西海岸のロサンゼルスに実家を持つ女性だ。対してチャーリーはインディアナからニュー・ヨークに出てきて、ニュー・ヨークに生活の本拠地を置く男性だ。ヘンリーは彼女たちが離婚した場合、片親とは離れ離れになるのがそこから読み取れる。

離婚を描いた映画に「クレイマー・クレイマー」があるが、その映画で主人公の父親は料理ができない。育児を妻に任せきっているのだ。しかし、この映画「マリッジ・ストーリー」ではチャーリーは料理を家族のために作る。

ただ、チャーリーに問題点がないわけではない。チャーリーは、ニコールを存在する一人の人間として見ていない。チャーリーは、ニコールを軽視している。日々の微妙な点で。例えばチャーリーは、ニコールが部屋で本を読んでいても部屋の電気を消す。

チャーリーの演劇の監督としての成功を、チャーリーはニコールのおかげだと言うが、チャーリーはニコールへの賛辞を一言で済ましてしまう。チャーリーは、ニコールのことをぞんざいに扱っている。

チャーリーは、自分が監督をする劇団の女性と浮気をする。それが、2人の離婚の決定的な理由になったことは言うまでもない。だが離婚は、ニコールがチャーリーの支配から脱するための機会でもあった。

男性の支配下に置かれた女性が、男性の支配下から逃れ自立をする物語とこの物語は言うことができるかもしれない。チャーリーの仕事での成功を一番に考えて、ニコールは自分の仕事での成功を諦めかけている。

チャーリーが幸せならそれでいい。ニコールは自身を、二番目の存在でいいと感じている。この場合の一番目の存在は、チャーリーとヘンリーだ。チャーリーの劇団で主演女優として働いていても、ニコールは二番目の存在だ。

映画の中のエピソードで、印象的なものがある。それは離婚の際にどちらに親権があるのがふさわしいか判断する人物が、チャーリーとヘンリーの生活を見に来た時のエピソードだ。

チャーリーは、ニコールからプレゼントされた飛び出しナイフを持っている。そのナイフの刃を引っ込めて自分の腕を切るジョークをするのが、チャーリーの習慣になっているが、そのジェスチャーをその判断をする人の前でやって腕を切ってしまう。

ニコールのセンスの良いプレゼントで、チャーリーは自分を自分で傷つけてしまう。チャーリーはことを荒立てないため助けは呼べない。そうこれは、この映画で描かれている離婚の争いのようだ。ニコールが優しさでチャーリーの不徳を許していた過去が離婚の際には、チャーリーを追い詰める理由になる。

ニコールの愛情が、チャーリーを苦しめる。それが、この映画のこのシーンで象徴的に描かれるものだ。離婚では、自分の愛情すら相手を傷つける理由になる。その非情な事実が、この映画では描かれる。

この映画では、弁護士がそれぞれについて離婚を行う。離婚を荒立てるのは、この弁護士だ。弁護士の目的は、2人の愛情を保つことではない。あくまで、離婚裁判に勝つことだ。よって2人の関係性は二の次だ。

そのような弁護士が離婚裁判をするので、離婚が2人の別れの苦しみを和らげるものになることはない。離婚は、あくまでこの世界の制度の上では争いだ。それは、その後の2人の関係がシステマティックに割り切られる理由になるための事由になりえる。

離婚で苦しむのは、愛し合った2人だ。人は、別れなしで生きることはできない。ニコールとチャーリーにも、別れはやってきた。しかし2人にはヘンリーがいる。2人はどうやら永遠に決別するわけではないようだ。

Spanish Hands

最近よく聴く、Kelly Joe Phelps(ケリー・ジョー・フェルプス)の、アルバムTunesmith Retrofit(直訳:(ポピュラー音楽の)ソングライターを改良する)の、3曲目Spanish Handsの歌詞を訳してみました。

美しい曲ですね。

ピーター・バラカンさんのラジオ、バラカン・ビートで初めて聴きました。

 

 

 

スペイン人の手

 

 

彼女は優しい鈴、彼女は猫目

ワイヤーの上の黄金の息

他の部屋の中で、歌い優しく航海する

赤くて暖かい、きれいにした火

僕の冷えた足は、直線の中で温まる

踊っている、スペイン人の手

僕の心は、ずっと早くにリタイヤする

これらの外国の地を離れて

 

 

彼女は黄色い少女、彼女はひまわり

細い風は良く精神を導く

海のような草は何マイルにもわたり

本を愛すること読むこと

影の側で長く引きずり転がして

考えることができない、そこに立って

僕の心は、ずっと早くにリタイヤする

これらの外国の地を離れて

 

 

これらの日々に記すことは絶え間なく薄らぐ

戦争の間にしおれた

私たちすべてが害を被る大きなこと

小さなこと、あなたのものの自分自身

僕は大地の構想にコインは投げない

僕は理解することができない

僕の心は、ずっと早くにリタイヤする

これらの外国の地を離れて

 

 

彼女の精神に親切な言葉を響かせて

彼女の悲しみの戦いに与えて

赤ちゃんの眠りを見つめている新しさを与えて

その時彼女を優しく起こして

朝が盲目を払い落すのを見ること

素晴らしい計画がない後ろで

僕の心は、ずっと早くにリタイヤする

これらの外国の地を離れて

 

 

 

 

原詞です。

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曲です。

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見た目で判断して人間違いになった

映画「ザ・ハント(The Hunt)」を観た。

この映画は2020年のアメリカ映画で、映画のジャンルはサバイバル・アクションだ。

この映画の主人公はクリスタル・メイ・クリーンシーという女性だ。クリスタルはミシシッピ州のホワイト・クロッシングの中古車販売店で暮らしている元アメリカ軍の兵士でアフガニスタン従軍もした人物だ。

ちなみにミシシッピ州に、Whites Crossingホワイツ・クロッシングという土地がある。この土地を地図で確認してみると、森と野原が続くような田舎の土地だ。クリスタルは、ミシシッピ州というアメリカ南部の田舎に住む中古車販売店の女性だ。

この映画の背景には、トランプ政権時代でより明確になったアメリカの分断がある。それは貧乏なアメリカ保守的な南部の白人と、リッチなアメリカ北部に住むリベラル・エリートの分断だ。保守はトランプを支持したような貧乏な田舎の白人で、リベラルは都会に住む金持ちで民主党支持の人たちだ。

この映画では、陰謀論が取り上げられる。アメリカ保守の白人の間には、リベラルは幼い子供たちを誘拐して人身売買しているという陰謀論が実際にあったが、この映画は陰謀論として架空の陰謀論を主題に持ってきている。

その陰謀論とは、リッチなリベラルの白人たちがアメリカ保守の人たちをさらってある土地に集めてそこで人間狩りを行っているというものだ。そして実際に、この映画では人間狩りを行っている。

この人間狩りの首謀者には、リーダー的な女性がいる。その女性の名前は、アシーナという。アシーナは非常に頭が切れて軍の訓練を8カ月受けていたような人物で、リッチな人物でもある。

この映画のラストでは、このアシーナとクリスタルの肉弾戦になる。が、この肉弾戦の最中にクリスタルは言う。「アシーナ、あなたは黒人差別や移民差別や人種差別をして白人至上主義でゲイ嫌いで反フェミニストの南部の貧乏白人が嫌いなのでしょうが、街には私と同姓同名の人がいるの。あなたは差別主義者の人物をさらってきたと思っているでしょうが、私はその差別主義者とは別人よ」と。

この発言で、アシーナの人間狩りの正当性はひっくり返される。人間狩りなので正当性とかいうこともおかしく、すでにこの時点で非合法で人間としてどうかしているので問題なのだが、アシーナはこの戦いは白人保守が始めたという。

白人保守の差別的な姿勢が、リベラルなリッチな白人を怒らせたのだと。だから悪いのは、狩られる白人保守の人たちなのだと。アシーナの白人保守主義者への怒りはわかるが、殺すのは明らかに行き過ぎた行為だ。

しかしこれは映画だ。映画の中なら何をやってもいいのだということになるのだが、そのなんでもやっていい精神にクリスタルという人物が差別発言をしていた人とは別人でアフガンで国のために戦った戦士だったということと、貧乏人がリッチを殺してリッチになるという風刺が加わる。つまりこの映画は人間狩りを否定して、差別主義者を否定して、貧しさからの脱却を肯定している。非常にメッセージのある映画だ。

人は殺してはいけない。しかしこれは映画だ。映画の中では何をやってもいい。だから人を殺した。でも結局それは人殺しでしかない。それがこの映画の冷静な考察だ。そして、映画のDVD特典でも言われているように人は見た目で判断できないのだ。

貧乏な人が、リッチを引きずりおろして、リッチになる。この引きずりおろしを、人は恐れる。しかし金持ちに再分配という名誉を与えて、貧しい人に必要なものが行き渡れば、それでオーケーなのではないだろうか?

お金に豊かさをみる虚しさを知らないということ

映画「女工哀歌(読み:じょこうエレジー、原題:China Blue)」を観た。

この映画は2005年のアメリカ映画で、映画のジャンルはドキュメンタリーだ。

この映画の監督は、この映画を他の2本の映画を含んだ3部作としてとらえている。その3本の映画というのはStore WarsとChina BlueそしてBitter Seedsだ。

Store Warsというのは、アメリカのウォールマートについての映画だ。今回紹介するChina Blueという映画は、中国の工場で働く女工たちとそこを取り仕切る工場経営者ラム氏を描いた映画だ。そしてBitter Seedsという映画は、アメリカのバイオ多国籍企業であるモンサントのインドでの活動の様子を描いた映画だ。

この映画「女工哀歌(原題:China Blue)」というのは、アメリカのウォールマートの店舗に並ぶジーンズの製造をしている工場に焦点を当てた映画だ。このラム氏が経営する工場は、リーフェン縫製工場というトルコのイスタンブールジーンズ製造会社の下請けの工場だ。この流れがわかるということは、一応トレーサビリティがあるということかもしれない。

そこでは女性労働者たちを雇って、時給6セント(日本円にして7円)で働かせている。朝8時から夜中の2時まで、彼女たちは働く。注文数が多く、納期に間に合わせるために徹夜をして働くこともしばしばだ。ちなみに労働者には、男性より女性の方が多い。

工場経営者のラム氏の考えは、こうだ。女性は、従順でおとなしいから文句を言わないので労働者として扱いやすい。ラム氏は、こうも言う。「工場に出稼ぎに来る労働者は農民だ。農民は学がなくいつもルール違反する。だから私が規律を教えなければならない。農民は考え方が20年遅れている。」と。

ラム氏は農業をしていて、その後、鄧小平の改革により農民から出世できた。世の中のおかげで警察になり、警察を退職して工場経営者になった人物だ。ラム氏は、自分が農業従事者であったことを忘れているか恥じているようだ。「農民は20年考え方が遅れている」これはラム氏の言葉だ。ラム氏には農民への尊敬が、欠けている。ラム氏は、金が儲かれば自分は豊かになると考えている拝金主義者だ。

この映画は、ジャスミンとリー・ピンそしてオーキッドという少女を中心として描かれる。彼女たちの親たちの価値観は、経済的に豊かになることだ。オーキッドは工場で働いて3年になる。大学の進学を諦めて、工場に手稼ぎに来ている。オーキッドの兄は大学に進学した。オーキッドは女性だから、大学に行けなかったのだ。

オーキッドが男性を実家に正月に連れて行くと、家族は彼をあまり歓迎した様子をみせない。なぜなら、オーキッドの彼氏は貧しい家の生まれだからだ。ラム氏と同様にオーキッドの両親も、金のことを考えている。

中国では、経済的豊かさを多くの人が求めている。ジャスミンもオーキッドと同じように、農家の出身だ。家にはアヒル、ヤギ、ウサギがいて段々畑があり、小麦や雑穀、トウモロコシを作っている。これが、中国南部の四川省のその当時の様子だ。農民は、街の工場で働ければ金持ちになれると思っている。それを利用しているのが、ラム氏のような工場経営者だ。

ラム氏は、自分が神だと思っている。神が、劣った農民に教育するのだ。自分も農民だったはずなのに。工場は、監視カメラで工員たちの動きを観察できるようになっている。農民だった人間が、農民を疑う。そこには、さもしい人間性しか見えない。そのような工場の労働とは、人間性とは程遠い。

工員たちは寮で、給料から引かれる食事代で食事をとる。食事をする場所はなく、あるのは調理場だけだ。食事は自室でとる。香辛料が少ない広東省の食事は、ジャスミンの口には合わない。しかしそれを食べるしかない。

ある時ジャスミンは、食事を腹痛でとれなくなる。残業続きで先輩たちの厳しい監視がある職場でのストレスが原因だと、暗にこの映画では示されているようだ。寝る時間がなくて眠いのに、仕事中寝ると先輩たちがジャスミンの座っている後ろに立って、ジャスミンが仕事をさぼらないように監視する。ジャスミンには、これが非常にプレッシャーだ。そしてその先輩たちは、ラム氏に脅されている。ラム氏が、ラム氏より上の段階の会社に脅されているように。

ジャスミンが一時間働いたお金で買えるのは、お茶一杯だ。そのような状況に、従業員たちはストを起こす。が、工員の女性たちが主なストは、男性の脅しに屈してしまう。そう、女性は従順でおとなしいのだ。

工場経営者も、農家の家族も、お金を求める。その姿はさもしく、女性の生きる権利を軽んじている。お金は幸福を運ばない。お金が運んでくるのは、最低限の生活だけだ。そして最低限の生活は、農民の暮らしでも得ることができる。

なぜそこまでしてお金が欲しいのか?それはきっと、プロパガンダのなせる業だろう。モデルのようなきれいな人が着る服を、皆欲しがる。それは、オーキッドもジャスミンも、そして彼女たちの過酷な労働で作られたジーンズをはく西洋人も同じことだ。

人は、映像や写真付きの広告に弱い。そのような場所では、非人道的な経営者が貧しい豊かさを手に入れるだけだ。そんな世の中は虚しくはないだろうか?

Hendra

Ben Wattのアルバム Hendraから、一曲目のHendraを訳してみました。

もうこのアルバムが出てから8年も経つんですね。

時の経つのは早い!!

人生の再スタートを思わせる歌詞ですね。

エブリシング・バット・ザ・ガールのメンバーとして有名になって、その熱も沈静化してきた後の、ベン・ワット自身の身の振り方がこの曲に現れているのかもしれませんね!!

 

 

 

ヘンドラ

 

これらの部屋は冷たいが、天国のようだ

そして、太陽は輝いている

君は知っているか、彼らが銀について何と言っているか

そして、線を引くことを

オォ、ヘンドラ オォ、ヘンドラ

僕は、この道を再び歩きたい

なぜなら、君が僕に、この雨と同じぐらい正しいと感じさせるから

 

 

僕は、もっと勉強しておけばよかった、今は困難だから

僕自身の何かを、作り出した

でも、その代わりに、僕はただの小売店

でも、僕は、僕自身を非難してはいけない

オォ、ヘンドラ オォ、ヘンドラ

それは、獲得するにはまだ多すぎる

君が僕に、この雨と同じぐらい正しいと感じさせるから

 

 

すべての自助本

“ダンスと人生”のような

“恐怖を感じる、そしてあれそれをする”のような

時々、僕はそれらを右の手の僕の手の中に持っている

そして、考えるより君のために言うことはたやすい

 

 

でも、僕は、これらの感情を許さなければならない

そして、それらをただ落として

しかし、時々、僕はラジオをラウドにチューニングする

ただ、それらをすべて、びしょぬれにさせること

オォ、ヘンドラ オォ、ヘンドラ

そこでは愛は明白だ

君が僕に、この雨と同じぐらい正しいと感じさせるから

正しいこととして、この雨と同じくらい間違ってはいない

 

 

 

原詞を貼っておきます。

genius.com

ぎすぎすした信頼

映画「アートスクール・コンフィデンシャル(原題:Art School Confidential)」を観た。

この映画は2006年のアメリカ映画で、映画のジャンルはブラック・コメディだ。

この映画の監督のテリー・ツワイゴフは、アメリカのコミックと関係が深い監督だ。ツワイゴフの2作目の映画「Crumb」(1995)は、アメリカのアンダーグラウンド・コミック・ムーヴメントのパイオニアであるロバート・クラム(Robert Crumb)ついてのドキュメンタリー映画だ。この映画は、様々な賞で称賛を受けた。

ツワイゴフの3作目の映画「ゴースト・ワールド(原題:Ghost World)」(2001)はダニエル・クロウズの同名のコミックのコンテンツによってできているグラフィック・ノベルをベースにしたもので、この映画でツワイゴフとクロウズはアカデミー賞脚本賞にノミネートされている。

この映画「アートスクール・コンフィデンシャル」は、ツワイゴフにとって5作目になる映画で、映画「ゴースト・ワールド」同様にダニエル・クロウズの同名コミックを原作として作られたブラック・コメディの映画だ。

この映画「アートスクール・コンフィデンシャル」はタイトルの通り、美術学校の信頼関係を題材として取り上げた映画だ。もちろん映画には恋愛の要素や、芸術での成功を夢見る主人公の話としての要素もある。

この映画の主人公ジェローム・プラッツを取り巻く美術学校での人間関係は、信頼と呼べるものがない。ジェロームは、同じクラスの生徒の作品をけなしたことでクラスの生徒からは邪険に扱われる。

美術学校の人間関係は、ぎすぎすしたものだ。誰もが、自分の成功を願っている。成功者には、多数の敗者が群がる。成功者になるために、美術学校の生徒は自分の作品に対する先生や生徒の評価を過剰に気にする。そのため人間関係は、非常に悪い。誰もが、先生までもが自分の作品が認められること、つまり他の人を出し抜いて評価されることを願っている。それは主人公のジェロームでも、同じことだ。

そんなストラスモア美術学校で、殺人事件が起こっている。何者かがこの学校で、殺人を犯している。その殺人の犯人は、スラムの一角に住むある老人が犯人であることがすぐにわかる。

その老人は言う。「成功すれば絵画のバイヤーたちは俺の靴だって舐める。でも芸術家にとって重要なのは、10年に1度あるこの作品だというものを生み出した時の高揚感にある。その高揚感のために画家は、自分の執着する主題について描き続けるんだ」と。

この老人の画家はそう言いながら、人を殺してその死体を絵の題材にしている。それがその老人にとって執着できる主題だからだ。そしてその題材の犯罪性が、この映画の最後にジェロームを有名作家にする原因となる。

この映画の主人公ジェロームは誰もが望むように、芸術作品を完成させる喜びと、完成した芸術作品でビジネスで成功する願望を持っている。ジェロームはその夢を映画の最後に叶えることができる。そして自分の好きな人の愛を、手に入れる。

この映画で最初はジェロームは、女の子の気を引くために絵を描いている。最初はジェロームも女の子の気を引くため、つまりわかりやすく言えば女の子とセックスを目的として絵を描いている。

しかし次第にジェロームは、絵そのものに囚われるようになる。絵を描き上げた時の達成感のようなものに、ジェロームは心を奪われる。フロイトの言葉を借りて言うならば、ジェロームは性欲を芸術に昇華させたのだ。

成功には、人々の間に自分の存在が浸透するきっかけが必要だ。それがこの映画では、死者を殺して描いた絵画という形で描かれる。その犯罪的なスキャンダル性が、人々の注目を奪ったのだ。ジェロームは、老人の絵画を利用して成功をつかみ取る。刑務所の中で。

映画の中で生徒が芸術作品は、家父長制が生み出したものだと発言する。それはきっと、絵画や彫刻の裸婦の作品を念頭に置いたものだろう。ヌード作品は、芸術の購入者にとってはポルノと何ら変わりはない。そしてそのポルノを買うのは、男性の購買者だとここでは考えられる。

芸術家が囚われる芸術の完成と、芸術によるビジネス的成功。芸術とお金の関係。芸術がお金から自律したものであるとメディアがあおるたびに、ビジネスに奔走する芸術家の姿は滑稽に描かれることになる。芸術と仕事が結びついていた過去の時代、芸術が工房でライン生産のように係分けして作られていた事実を人はもっと知るべきだ。

ひとつのパイの奪い合い

映画「アモーレ・ぺロス(原題:Amores Perros)」を観た。

この映画は2000年のメキシコ映画で、映画のジャンルはドラマ映画だ。

この映画は映画「21グラム(原題:21 Grams)」(2003年)、「バベル(原題:Babel)」(2006年)、「BIUTIFUL ビューティフル(原題:BIutiful)」(2010年)、「バードマン あるいは (無知がもたらす予期せぬ奇跡)(原題:Birdman or The Unexpected Virtue of Ignorance)」(2014年)、「レヴェナント:蘇えりし物(原題:The Revenant)」(2015年)などの数々の作品を世に送り出しているアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの初監督作品だ。

この映画のタイトルのAmores Perrosとはスペイン語で直訳すると、愛犬という意味になる。この映画についてのインタビューでこの映画の監督のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは、この映画に登場する黒い犬と白い犬はそれぞれ、黒い犬はお金持ちの人たち、白い犬は貧しい人たちのメタファーなんだと答えている。

イニャリトゥが言うとおりに、この映画では犬が人間の登場人物にとっての重要な役割として登場する。この映画は3部構造になっており、そのどの部分でも犬が登場する。

第一部のオクタビオとスサナではコフィという黒い犬が、第二部のダニエルとバレリアでは白い犬が、第三部のエル・チーボとマルでは、再びコフィという黒い犬が登場する。各部ごとのタイトルは、人の名前だ。

第一部では、オクタビオは兄嫁のスサナと不倫関係になっていき、オクタビオは愛犬の黒い犬コフィを闘犬に出場させそこで稼いだ金をスサナに渡している。オクタビオとスサナは家族として同居しており、彼らは貧しい労働者階級だ。

第二部では、ダニエルとバレリアという人物が不倫をしている。ダニエルは雑誌を持っている金持ちで、バレリアは広告契約を持っているプロの成功したモデルだ。2人は家に白い犬を飼っており、その犬の名前はリッチーつまり金持ちという名前だ。

第三部は、エル・チーボという大学教授から活動家になりゴミ拾いをしながら人殺しの仕事を受けている初老の男と、その娘マルとのすれ違いの人生を描く。エル・チーボはマルにとっては今は亡き父親ということになっている。

この三部構成には犬以外にも彼らに接点がある。それは、一つの自動車交通事故に巻き込まれることによる。その事故で、オクタビオとバレリアとエル・チーボが交差することになる。オクタビオ闘犬で起こったいざこざで追われていて車で逃げている際に信号無視をして、交差点に突っ込み、そこでバレリアの乗った車とぶつかり、その事故が原因でバレリアは後に足を切断することになる。エル・チーボはその事故の救助に関わりその際に、オクタビオ闘犬で稼いだ金を盗む。そして、いざこざの際に拳銃で撃たれた闘犬コフィを治療して助ける。

監督がfilmmakermagazineのインタビュー(https://filmmakermagazine.com/archives/issues/winter2001/features/humane_society.php)に答えているように、この映画で犬は重要な役割を果たす。貧乏な人の象徴である黒い犬コフィは、犬を食い殺しながら生きている。それはまるで人間が優勝劣敗の世界の中で競争をしながら一つのパイをむさぼり食いながら生きている様子を描いているかのようだ。

白い犬リッチーは金持ちの人の家で暮らしながら、ある日主人が明けた床の下の穴に落ちてしまう。この犬の飼い主のバレリアは言う。「リッチーがネズミに食べられてしまう」と。リッチーはネズミに食べられることはないのだが、ネズミはここでは貧しい人の象徴だろう。金持ちの財産を、貧しい人が再分配をして奪ってしまうといったところだろう。金持ちは、人の分まで取ってリッチなどと言ってもてはやされているにすぎないのに。

黒い犬コフィは、エル・チーボに助けられるが、エル・チーボの飼っていた数匹の犬を食い殺してしまう。そして、エル・チーボは、悲しみにくれるがその現実を受け入れる。コフィを闘犬に育てたのは、飼い主である主人だ。そう、人間を競争するように仕向けるのは上部階級が作ったシステムだ。ならばコフィは、コントロールの被害者でもある。

2021年に公開された映画に「プラット・フォーム(原題:El Hoyo)」というスペイン映画がある。その映画では200以上の階層からなるある部屋に入れられた人物たちが、上から降りてくる食べ物を食べて生活していくというものだ。

食べ物は、上の階の人が食べたものの食べ残しだ。つまり均等に、食べ物を分け合わないと最下部の人の食べるものはなくなってしまう。そこでは、人が一つのパイをむさぼり食うということだ。この映画「プラット・フォーム」は、「アモーレス・ぺロス」とよく似ている。

映画「アモーレ・ぺロス」から21年経った後に、このような映画が作られるのは世界が何も変わっていないからかもしれない。